第68話 女王の挑戦
前年の9月にシリウスステークス(GⅢ)を勝ち、7歳にしてようやく重賞馬となった、女王こと「ミヤムラジョオウ」。
通常、7歳のサラブレッドというのは、もう競走馬としてのピークをとっくに過ぎている。つまり、通常ならば引退だ。
事実、シリウスステークスの後、ダート適性が認められた彼女は当然ながら、ダートの日本一を決めるGⅠ「ジャパンカップダート」(※現在のチャンピオンズカップ)を目指すはずだったが、預けていた関厩舎は、彼女の体調が万全でなかった為、圭介と相談の上で、レースを回避して放牧していた。
ところが。
年が明けた2007年初頭。
「圭介。関さんから連絡があって、ミヤムラジョオウがフェブラリーステークスを目指すそうよ」
秘書の美里から圭介が聞いたのは、そんな情報だった。
つまり、ダートのもう一つの大きな戦い、2月に行われるGⅠ、フェブラリーステークスだ。
その前に、前哨戦として、1月末の根岸ステークス(GⅢ)に出走予定だという。
(8歳で、根岸ステークスを制覇した馬は過去、1頭もいない。牝馬はもちろん、牡馬でさえいない)
圭介が調べたところ、牝に限定すれば、2000年に牝の6歳馬が根岸ステークスを制覇したのが、この2007年時点での「最高齢記録」だった。
根岸ステークスは、1987年から施行され、今年で21回目となるが、その間、7歳の牡が2003年と2006年に制したのが、牡牝通しての「最高齢記録」だった。
(無謀な挑戦か、それとも歴史を変えるか)
半信半疑のまま、圭介はしかしながら、わざわざ開催される東京競馬場に行くのを憚っていた。
そんな中、レース開催まで残り2日と迫った、1月26日(金)、不意に圭介のプライベートに使用する携帯電話に、見知らぬ番号から着信があった。
「はい」
訝しみつつも出ると、若い女性の妙に明るい声が響いてきた。
「あ、つながった。私よ、私」
「はい? どちら様?」
「だから私よ。緒方」
「緒方? さて、誰でしたっけ?」
「鈍いわね。緒方マリヤよ!」
だんだん苛立ち気味に電話口の声が大きくなる。
実際、圭介が前に緒方と会ったのは昨年7月の七夕賞だったし、あまりアイドルに興味がない彼は、忘れていた。
「ああ、あのアイドルの? って、何でこの番号知ってるんだ?」
「そんなのどうでもいいの」
(どうせ、都スポの石田さんに聞いたんだろう)
圭介は、昨年の七夕賞後に、彼女と初めて会った時、都スポの石田がメインだったため、石田とは名刺交換をしたが、彼女とは名刺交換をしていなかった。なので、そう推測をした。
「あんた、日曜日、東京競馬場に来るんでしょうね?」
「なんで決まってるんだ。行かないよ。面倒だ」
「はあ? マジで言ってんの? あんた、絶対後悔するわよ」
「何でだよ?」
「決まってんじゃん。8歳のミヤムラジョオウが歴史を塗り替える瞬間を見逃すからよ」
やけに強気な彼女の発言に、圭介は疑問を抱いた。
何しろ、競馬というのは、通常、発走の1日前にオッズが出るのだ。
つまり、出馬表は出ていても、この時点で、まだミヤムラジョオウの人気はわからない。
なのに、彼女はやけに強気だった。
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
「バカにしないでよね。私も、一応『競馬アイドル』を名乗る者として、馬を見る目には自信あるの。あの仔はきっとやるわ。調教を見ても、凄くよかったし」
どうやら、彼女はわざわざミヤムラジョオウの調教の様子を見てきたらしい。圭介は考え込んだ。
(見る価値はあるのか? まあ、せっかくだし、記念に行くのもいいか)
だが、すぐに決断を下す。
「わかったよ。行けばいいんだろ」
投げやり気味に返すと、彼女は心なしか嬉しそうに、
「そうそう。そうやって素直に従えばいいのよ。じゃ、東京競馬場で待ってるからね」
一方的にそう告げて、彼女は電話を切ってしまった。
その場に居合わせた2人から声がかかる。
「誰から?」
「緒方マリヤ」
「マジで! 何だって?」
「ミヤムラジョオウのレース。きっと勝つから、見に来いとさ」
美里は、
「いいじゃん。行こうよ」
と喜色を浮かべる。
一方、相馬もまた、予言めいた一言を繰り出してきた。
「緒方のお嬢さんが言うことも、的外れとは言えませんね」
「マジですか? 今まで8歳馬で根岸ステークスを勝った馬は1頭もいませんよ。しかも牝です」
「関係ないですね。ミヤムラジョオウは、恐らく『覚醒』しました。性別も年齢も越えて、彼女はきっとやってくれます」
相馬もまた、何かを感じ取り、期待を込めているらしいことは伝わってきた。
仕方がないので、圭介は、すぐに飛行機を手配。
今回も、圭介、美里、相馬のいつものメンバーで東京に向かうことになった。
2007年1月28日(日) 東京11
東京競馬場・ダート1400mは左回りで、高低差2.4mの急坂を含む約500mの直線が最大の特徴。
その為、本来は逃げ・先行が有利なダート戦にもかかわらず、直線の末脚勝負に徹する馬が多めだ。
最初のコーナーまでの距離が長く、3コーナーに下り坂がありスピードが落ちにくいスパイラルカーブになっているので、前に行く馬が脚を貯める事が難しいのも要因と言える。
そんな中、圭介たちは競馬新聞と、都スポでオッズを確認する。
ミヤムラジョオウ 単勝5.2倍 2番人気。5枠9番。馬柱にも◎と〇がついていた。馬体重はマイナス4キロ。
そして、一方で。
ヤマデラックス 単勝2.0倍 1番人気。6枠12番。馬柱には同じく◎と〇がついていた。馬体重は増減なし。
そう、山寺久志の持ち馬にして、デビュー戦以来、幾度か戦ってきた、言わば「ライバル」と言っていい馬だった。同じく8歳。しかし、こちらは牡馬だ。
圧倒的に不利だろうと思われても仕方がない、性差の壁。やはり人間でも馬でも、一般的には「男の方が力が強い」。
だが、
「来たわね。見なさい、あの雄姿を」
競馬関係者だけが入れる馬主エリア前で待ち伏せしていたような彼女と共に馬主エリアに入り、そこに映し出されていた、ミヤムラジョオウのパドックの様子をモニター越しに見ていた、緒方マリヤが何故か勝ち誇ったようなドヤ顔で告げてきたから、圭介は笑いそうになっていた。
ちなみに、坂本美雪は珍しく、そこにはいなかった。
「ミヤムラジョオウが勝てば、彼女を推している私の株も上がるわ」
そう、ドヤ顔で呟く彼女に、嘆息した圭介は、
「はあ。つまり、お前の出世のダシに使ったのか?」
「ち、違うわ」
と、どうも図星を突かれたように、うろたえる彼女。
対して、相馬は、いつものようにじっくりと競馬新聞を眺めていたが、
「いや、兄貴。緒方のお嬢さんが言うことも満更、ハズレとも言えません。調教タイムがいいですし、何より馬体が完璧に仕上がってますぜ」
モニター越しに映るミヤムラジョオウと、競馬新聞を交互に眺めて、彼は感慨深げに呟いた。
「でしょ、でしょ。やるわね、おっさん」
「いや、おっさんって……。まあ、おっさんだけど」
(さて、どう出るか)
半ば半信半疑のまま、圭介は緒方マリヤに導かれるように、馬主エリアで席に着く。なお、彼女は、馬主ではないが、一応、競馬関係者扱いのアイドルという特例に近い状態というか、テレビ局のごり押しで、馬主エリアに自由に入れるらしい。圭介は内心、
(何だか、ズルい)
と思いながらも、間もなくレースが始まる。
「スタートしました」
GⅢの根岸ステークス。今日のメインがこのレースだが、やはりグレードが下がり、しかもダートレースと言うことで、コアな競馬ファンか、競馬関係者が圧倒的に多い。つまり、観客席は意外に盛り上がっていなかった。
ところが。
「1コーナーを周り、先頭はヤマデラックス」
先行したのは、6枠12番。山寺久志の持ち馬、ヤマデラックスだった。
この馬が先陣を切り、「逃げ」を打つレース展開となる。一方、ミヤムラジョオウは、後方13、14番手という、かなり後ろからの競馬になる。
実は、JRAのダートコースで1400mは4場あるが、スタートからダートを走るのはこのコースのみ。最初のコーナーまでは約442mあって、下りの直線距離が長いため前半のペースはかなり速くなる。
つまり、「バテないタイプの逃げ・先行馬が狙い目」とも言えるレースコースだ。
3コーナーの下り坂からのスパイラルカーブ。ミヤムラジョオウは、いつの間にか馬群をかき分けるように徐々に進出。
一方、先頭を走るヤマデラックスは、そのまま4コーナーを周り、最後の直線で一気に逃げ切りを図る。
「さあ、先頭は依然としてヤマデラックス。その差は2馬身ほど。2番手は……」
まだ名前すら呼ばれていない、ミヤムラジョオウは、後方でじっくりと脚を溜めていたが、残り400mの標識辺り。
「大外から、ミヤムラジョオウ」
ようやく名前を呼ばれていた。
だが、この時点で、先頭まではまだ7、8馬身はある。
(これは届くか?)
疑いの目を向ける、圭介に対し、彼女は、その想像を超える「躍動」を見せた。
「先頭は依然としてヤマデラックス。しかし大外から、ミヤムラジョオウが凄い脚で追い込んでくる!」
実況の声が次第に興奮気味に伝えるように、1頭だけ、大外に持ち出し、文字通り、「次元の違う末脚」を魅せていた。
まさに「女王の貫録」か「女王のカミソリ」のような鋭い末脚で、あっという間に他馬をどんどん追い抜いていき、気が付けば、ゴール直前。
「内にヤマデラックス、しかし、外からミヤムラジョオウだ!」
最後の最後、残り100mもなかった。
「ミヤムラジョオウ差し切った! 今、ゴールイン!」
最終的に、わずかな差だが、外から完璧と言えるほど、見事な差し切り勝ちを果たしていた。
「おおっ!」
静かなスタートだった、東京競馬場に歓声が上がっていた。
それもそのはず。
「何と、ミヤムラジョオウ。8歳の牝として、初の快挙。牡馬を押しのけ、根岸ステークスでの最高齢勝利! 歴史を創りました!」
実況アナウンサーが興奮して叫んだように、まさに、彼女は「歴史の創造者」となっていた。
「よしっ!」
「さすがジョオウだ!」
「すごいわ!」
「だから言ったじゃない」
「ちっ」
大喜びする圭介たちには、聞こえていなかったが、馬主エリアの隅の方で、苦々し気に舌打ちをしていたのは。
実は、ヤマデラックスの馬主、山寺久志ではなく、たまたま来ていた長沢春子だった。
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