第62話 D-デイ
それからわずか1週間後。
2006年7月9日(日) 福島11
コヤストツゲキオーが福島競馬場で走る重賞だった。
彼らは、圭介を筆頭に、美里、相馬のメンバーで福島へ乗り込む。
その飛行機の機内で。
「兄貴。これはひょっとすると、ひょっとしますよ」
隣にいた相馬が声をかけてきたので、真ん中の座席にいた圭介が、競馬新聞を広げていた相馬に問い返す。
「何がですか?」
「もちろん、コヤストツゲキオーですよ。前走の
相馬によれば、馬印に◎と〇が複数ついており、競馬評論家からの評価も高かった。ちなみに鳴尾記念も新潟大賞典も距離が2000mで、GⅢだ。
ただし、単勝7.3倍の3番人気。騎手は、ベテランの鈴置騎手だった。
1番人気は、前走の目黒記念(GⅡ)を制していた、ナガハルサンダーという馬だった。単勝3.5倍だった。
(また長沢さんのところか)
長沢の本性を知らない圭介は、何の感慨もなく思っていたが。
「またあいつのところ? 嫌な予感がする」
相馬と正反対の窓際の席に座っていた美里が、自ら持ってきたスポーツ新聞を見て、苦々しげに呟いた。
「けど、相馬さんの言うように、確かにここが
「さすが兄貴。いいこと言いますね。そうです。ここで勝つか負けるかは重要です」
相馬がすかさず同調するが、
「D-デイって何?」
興味がない美里が聞いてくる。
「知らんのか。これだから女は。ノルマンディー上陸作戦くらいは知ってるだろ?」
「うん。まあ聞いたことはあるけど」
色々とコンプライアンスやハラスメントに厳しくなった現代では、この言葉自体がまさに「失言
「元々は、戦略上重要な攻撃とか作戦開始日時を表す際に使われた、アメリカの軍事用語なんだが、1944年6月6日の連合軍によるノルマンディー上陸作戦の日付を『D-デイ』と言ったことから、これが一般に知られるようになった。つまり、『乗るか
「それなら、日本的に『
美里が提案した、天王山。「勝敗を分ける」意味で使われるが、元々は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が明智光秀と戦った山崎の戦いにおいて、羽柴軍が要衝の天王山を占領して、戦いに勝ったことに由来する。
「まあ、それでもいいが、せっかく第二次世界大戦に関わる名前の馬を所有してるからな」
「それ、コヤストツゲキオーは関係ないでしょ」
美里は呆れていたが、彼女にもこの勝負の重要性はわかっているらしい。
何よりも、彼女自身、新聞を眺めて、
「まあ、確かに長沢春子には負けたくないけどね」
とこぼしていた。
福島に到着。競馬場に向かう。
レース自体は午後からだったが、彼らは早めに競馬場に入った。
福島競馬場、芝2000mのスタート地点はホームストレッチの右側、第4コーナーポケットあたり。
ちょうど坂の頂上地点からスタートする。頂上からのスタートということで、直後のスタンド前の直線は下り坂。ゴール手前は若干の上り坂になっているため、谷を下って登るようなイメージになる。
第1コーナーまでの直線は約505m。第1コーナーから第2コーナーにかけての高低差はないものの、スタート直後が下り坂ということもあり、レースの前半はペースが上がりやすくなっている。
向こう正面の直線に入ると第3コーナーに向けて緩い上り坂が始まり、第3コーナーから第4コーナーにかけてはスパイラルカーブが採用されている。
残り400m付近からは下り坂になり、最後の直線ゴールまで残り約150m付近からは再び上り坂。
全速力で坂を駆け上がったところでゴールとなる。
全体的に平坦なコースだ。
そして、勝ち馬の特徴として、「逃げ」、「先行」が有利になっており、過去のレース記録から4、5、6枠と真ん中あたりの枠の馬が好走している。特に6枠の勝率が高かった。
偶然にも、コヤストツゲキオーは6枠11番だった。一方で、ライバルと目されるナガハルサンダーは3枠6番に入る。
何の因果か、両者ともに「6」という数字に絡んでいた。
競馬場に早めに着き、パドックを眺める。
福島競馬場は、ローカルの競馬場のため、重賞とは言っても、東京や中山、阪神、京都などと比べると、観客の入りは比較的少ない。
多少の余裕があった。
「いいですね。これは行けるかもです」
相馬が太鼓判を押していた。
そして、やはり彼女がやって来た。
「はいはいー。お待たせ。美雪姉さんの予想コーナーだよ」
呼んでもいないのに、現れる、不思議な馬キャラ帽子を被った、ギャンブラー、坂本美雪だ。
「別に待ってませんよ」
「相変わらずつれないなあ、オーナーくん」
今日もまた、右手に競馬新聞、左手にワンカップを持っていた。
いつも酒を飲んでいるイメージしかない彼女だが、酔っていても「狙い」だけは正確なところがあった。
「コヤストツゲキオーはすごくいいね」
ただの「いいね」ではなく、初めて「すごくいいね」と言ってくれたので、圭介は、
「マジですか?」
思わず身を乗り出して尋ねていた。
多少面食らったような美雪だが、笑顔のまま語り出した。
「前走の鳴尾記念、その前の新潟大賞典。いずれも距離が2000m。恐らく彼の得意な距離はこの中距離だと思うよ。それに体も絞ってるし、調教タイムもいいね」
調教タイムとは、競馬新聞などに載っているが、例えば、
65.1 – 50.8 – 37.4 – 12.5というようなタイムのことを指す。
これは、ラスト1
彼女が言ったのはそのことだった。
「ナガハルサンダーはどうですか?」
美里が尋ねる。
「強力なライバルだね。いい勝負にはなると思うよ。それにあの馬は先行策が得意だから、道中の位置取り次第で、勝負は別れると思う」
さすがに、プロのギャンブラーの目は鋭かった。
そして、いつものように美雪を誘って、馬主席に向かう。
やがて、発走の15時35分となり、GⅢ特有のファンファーレが鳴り響く。
(ここがDデイとなるか、ならないか)
自分で言ったものの、内心では不安でいっぱいの圭介だったが。
いざスタートすると。
「おおっと。3番人気のコヤストツゲキオー。出遅れた」
いきなり彼はスタートに
(位置取り次第って言ってたのに)
早くも暗雲が立ち込めたように、圭介は途端に不安に陥る。
そのまま、坂を下って1コーナーに突入。しかし、ライバルのナガハルサンダーが先団に取りつき、5、6番手辺りにいたのに、コヤストツゲキオーは相変わらず最後方だった。
誰もが不安に陥るレースだったが、2コーナーから3コーナーに至っても、彼はまだ後ろから3番手くらいにいた。
ところが。
「さあ、4コーナーを回って、最後の直線に入る」
この時点で、ナガハルサンダーは3番手、コヤストツゲキオーは上がったが、それでもかろうじて12番手くらいにいた。
手に汗握る名勝負が、まさかここから展開されるとは、誰しも思っていなかった。
「先頭、ナガハルサンダーに代る。その差、1馬身。これは決まったか」
最後の直線は、約292mしかない。
にも関わらず、
「コヤストツゲキオーが
と、実況アナウンサーが早くも、この馬に注目したのにはもちろん理由があった。彼だけが大外に持ち出し、そして最も勢いもあったからだ。
「大外からコヤストツゲキオーが凄い脚で迫る!」
「ナガハルサンダーか、しかしコヤストツゲキオー迫る!」
彼らはそこに信じられない物を見る。
残り292mしかない直線で、
「大外、コヤストツゲキオー!」
黒い帽子を被った鈴置騎手が操る、コヤストツゲキオーはぐんぐん、ぐんぐんと、文字通りのごぼう抜きをして、気が付くと、外から一気に距離を詰めていた。物凄い末脚で、まさに「直線一気の末脚」と言っていい。
幸いだったのは、この時、ほとんど全頭が一か所に固まるように集中していたので、「抜く」には外からやりやすかったというのも影響していた。
「ナガハルサンダーか、コヤストツゲキオーか!」
そのまま先頭のナガハルサンダーに追いつくと、もつれ合うようにして、ゴール板を駆け抜けたが、内と外で離れていたから、一瞬、どちらが勝ったかわからないほど拮抗しているように、見ている側からは見えた。
だが、
「わずかにコヤストツゲキオーか!」
最後にアナウンサーが確信めいた一言を告げ、すぐに電光掲示板に、
「11」
という数字が1番上に輝いていた。
「よし!」
「やったわ! コヤストツゲキオー!」
「さすがですね、パンツ!」
「コングラチュレーション!」
圭介、美里、相馬、美雪が叫ぶ中、彼らのその馬主席を遠目に見ていた、長沢春子が、密かに、眉間に皺を寄せて、
「ちっ」
と、舌打ちしていた。
そして、その様子にあざとくも気付いていのは、実は美里一人だけだった。実際、両者は結構離れていたから、目がいい美里だけが気づいたのだが。
こうして、彼ら「子安ファーム」は、ようやく長い長いトンネルを抜け、「重賞ウィナー」が牧場から始めて誕生した。
重賞とはいえ、最もグレードが低いGⅢのため、獲得賞金は約4500万円ほどだったが、それでも文字通り、この「D-デイ」によって、子安ファームの「流れが変わった」瞬間だった。
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