第60話 伝統の一戦の死闘

 2006年4月30日(日) 京都11Rレース 天皇賞(春)(GⅠ)(芝・3200m)、天気:晴れ、馬場:良


 その年の天皇賞(春)は、例年になく、盛り上がっていた。


 前年のクラシック戦線を盛り上げた立役者にして、皐月賞、菊花賞の2冠を達成したイーキンス(4歳・牡)。

 そのイーキンスと競って、日本ダービーに勝ったヤマデラファイア(4歳・牡)。

 さらに前年の天皇賞(春)を制覇し、有馬記念に勝っていたGⅠ5勝の強豪古馬、ヤークトパンター(5歳・牡)。

 本年の長距離GⅢ、ダイヤモンドステークスを制し、さらに春の中距離GⅡ、産経大阪杯(※現在の大阪杯。GⅠになるのは2017年から)を制し、勢いに乗る、プリンツオイゲン(6歳・牡)。

 それら同世代のライバルや、1、2年上の先輩古馬たちと肩を並べることになる、未だ重賞無冠のシルバーコレクター、ヴィットマン(4歳・牡)。


 美里に告げた手前、引き下がれなくなった圭介は、もちろん美里と相馬を連れて、再び京都競馬場に乗り込んだ。


「うわっ。すげー人だな」

 京都競馬場は超満員になっており、凄まじい熱気と人いきれに包まれていた。

 4月末とは思えないほど、その空間だけが、異様に「熱を帯びている」状態だった。


 文字通り、「足の踏み場もない」くらいにぎっしりと密集したスタンド前を通ると、圭介は後ろから袖を引かれた。


 振り返ると、美里が

「人混みに酔いそう。早く馬券買って、馬主席に行こう」

 なおも元気のない声で、言ってきたので、圭介は渋々ながら、パドックを経由し、そこで一通り、ヴィットマンを確認する。


 相馬に、

「どうですか?」

 一応尋ねると、


「問題ありませんね。むしろ今日は調子良さそうに見えます」

 との回答。


 ちなみに、これだけのぎっしりと詰まった人混みのため、彼らは坂本美雪と出会うことがなかった。

 

 ただ、結局、馬主席に向かうと、

「やっほー。来たよ」

 まるで彼らを待っていたかのように、馬主エリアの扉前に彼女がいつも通りの馬のキャラクターが描かれた帽子をかぶって立っていた。


「美雪さん。ストーカーみたいですね」

「何をつれないこと言ってんだよ、オーナーくん。あたしとオーナーくんの仲じゃないか。入れてくれるよね?」


「仕方ないですね」

 本来、馬主席は馬主とその関係者しか入れないことになっている。

 坂本美雪は、そもそも馬主でも関係者でもないのだが、一応、知人ということで圭介は入れることにした。


 そして、馬主席で、どこから買ってきたのか、たこ焼きを1個、頬張って食べてから、美雪は上機嫌に語り出した。

「これぞ天皇賞って感じのレースだね。イーキンス、ヤマデラファイア、ヤークトパンター、プリンツオイゲン、そしてヴィットマン。面白いレースになりそうだね」


「相馬さん。オッズはどうですか?」

 いつものように、競馬新聞を持ち込んでいる相馬に話を振ると、彼は薄ら笑いを浮かべた。


「悪くないですね。隊長は3番人気です。単勝オッズが8.6倍です」

「他の馬のオッズはどうですか?」


「イーキンスが2.3倍の2番人気、ヤマデラファイアが22.3倍の5番人気。プリンツオイゲンが15.5倍の4番人気。1番人気は1.8倍のヤークトパンターですね」

「やはりですか?」


「ええ。GⅠ5勝は、この中では一番多いGⅠ勝利数ですからね。期待値も高いでしょう」


 ちなみに、イーキンスが4枠5番。ヤマデラファイアが3枠3番。プリンツオイゲンが8枠15番。ヤークトパンターが4枠6番。そしてヴィットマンが2枠2番。

 全体的に、人気馬が内枠に寄っていた。全14頭のレースだ。


 なお、鞍上はヴィットマンが栗東の池田、ライバルのイーキンスはベテランの古谷が務めることになった。


 圭介と相馬が会話をしていると、相馬の隣にいた美雪が、スポーツ新聞を眺めながら、不意に呟いた。


「ヤークトパンターは多分来ないね」

「何故ですか?」


「パドックを見てわかった。トモに張りがないのと、イレこんでる」

 競馬用語で、「イレ込む」とは、「レース前に極度に興奮し、落ち着かない様子」などを指す言葉だ。馬によっては、ひどい発汗をしたり、口角に泡が溜まったりする。つまり、その時点でかなり体力を消耗するのでレースでは能力を出しきれない場合が多いとされている。


(よく見てるな)

 と、さすがに圭介は思うが、


「では、美雪さんの予想は?」

 すでに電話で聞いていたが、念のために再度聞いてみた。


「あたしの中ではイーキンスかヴィットマンの争いかな。ヤマデラファイアもプリンツオイゲンも掲示板に入るか入らないかくらい」

 つまり、この年ですでに「ベテランギャンブラー」のような雰囲気をかもし出している、名ギャンブラーの美雪の予想によると、イーキンスとヴィットマンの争いがレースの中心だという。


 それを聞いて、妙に興奮した声を上げたのは、相馬だ。

「いいっすね。ヴィットマンとイーキンスの名勝負。これぞまさにヴィレル・ボカージュの戦いの再現です」

「ゔぃれる・ぼかーじゅ って何? 食べ物?」

 きょとんとした顔を向けて、頭にハテナマークをつけたような坂本美雪の表情が、不覚にも可愛いと思ってしまった圭介だったが。


 逆の隣にいる美里が、相変わらず大人しいというか、落ち込んでるようにずっと無口なのが気になった。

「美里。よく見ていろ。競馬の面白さがこのレースでわかる」

 それだけ呟くと、彼女は無言で頷いて、トラックに目を向けた。


 関西バージョンの派手なファンファーレが鳴り響き、その後に大歓声がスタジアムを覆う。京都競馬場が揺れたのではと思うほどの熱狂の中、世紀の大一番が始まる。


「さあ、各馬が一斉にスターティングゲートに並びます。枠入りは順調です」

 レース前にイレ込んでいた様子の1番人気、ヤークトパンターも多少抵抗はしたが、枠入りを果たす。


「スタートしました」

 3200mの長丁場、そして、前年の菊花賞と同じく京都競馬場での「死闘」が始まった。


 まず競りかけるのは10番人気の馬。

 もちろん、3200mという長距離レースだから、それ以外のどの馬も騎手も、そう簡単には前に出ようとしない。


 仕掛け所を探りながら、1周目を回る。

 京都競馬場の芝3200mは、一年に一度、つまりこの天皇賞(春)の開催時のみ使用されるコースとして知られている。


 向こう正面の半ばからスタートして最初のコーナーまでは417m。1周目の丘はゆっくり上り下りし、2周目の坂の上りあたりからペースが速くなり、一気に下ってゴールまで流れ込む。


 道中のペース次第で、レースの上がりが34秒台前半になることもあれば、36秒台に突入することもある。

 基本は逃げ切りは困難なコースと言える。


 とは言っても、直線だけの追い込みで勝つのも難しい。2周目の坂から徐々にポジションを上げ、ロングスパートで押し切るというのが勝ちパターンとされている。


 道中の距離損が少ない方が有利と言われるから、内枠のヴィットマンにも勝機はあると思われた。


 レースは淀みなく進むが、全体的にスローペースで進んでいた。

 つまり、絶対的な逃げ馬がいなかったので、各馬、各騎手も「様子を伺っている」ようなレース展開になる。


 そのまま、2周目に入る。

 ヴィットマンは中団に取りつき、5・6番手を進んでいた。一方、イーキンスはそれより後ろの7・8番手。

 ヤマデラファイアは、先行して3番手。ヤークトパンターは後方10番手、プリンツオイゲンも後方12番手あたり。


 そのまま、2度めの「淀の坂」を越えてくる頃。


 不意に、「グッと」一段スピードが伸びてきた馬がいた。


 イーキンスだ。

「ここでイーキンスが前に出る」

 

(仕掛けた)

 と誰もが思う。そして、この「速い仕掛け」こそがポイントだった。


 道中ずっと足を溜めて、体力の温存を計っていた、イーキンスと鞍上の古谷。

 そこから一気にロングスパートを掛けたのだ。


「伸びる伸びる、イーキンス。だが、外からヴィットマンとヤマデラファイアが突っ込んでくる。内からはプリンツオイゲン!」

 三つ巴どころか、四つ巴の混戦になる。


 残り300m、200m。


「イーキンスとヴィットマンの叩き合い、再び!」

 実況アナウンサーが興奮気味に叫んでおり、京都競馬場の10万人を越す大観衆から地鳴りのような歓声が上がっていた。


 そして、彼らは見た。

「イーキンスか、ヴィットマンか。イーキンスか、いやヴィットマンか!」

 正直、どっちが先行しているかわからないくらいに肉薄して2頭がほとんど横一線に並んでおり、まさにデッドヒート。菊花賞でも同じように死闘を演じた両者が、ここでも壮絶な叩き合いを演じていた。


 イーキンスの鞍上の古谷、ヴィットマンの鞍上の池田共に鞭を振るっていた。


 一方で、美雪の予想通り、1番人気のヤークトパンターは精彩を欠いて後ろに下がり、ヤマデラファイアとプリンツオイゲンも頑張ってはいたが、2馬身くらい離されていた。


 残り100m、50m。

「イーキンスが抜く! ヴィットマンが追い付く! また抜く!」

 そして、そのままゴール板を駆け抜けていた。


「これはわかりません! 写真判定に入ります」

 実際、両者はほとんど並んでゴールインしており、どちらが先頭に立ったかわからないほどだった。

 圭介が、横目でちらっと美里を見ると、彼女は食い入るようにトラックコースを見つめていた。


 長い長い写真判定となった。

 現在のように、まだ動画配信が一般的になっていなかった時代。実はこの写真判定も長かった。


 そして、掲示板には、

「5」

 という数字が1番上に表示され、そのすぐ下に、

「2」


 という数字が表示される。

「惜しい!」

「あとちょっとだったのに!」

 圭介と、相馬が共に同じタイミングで叫んでいた。


 子安ファーム初の重賞制覇はまたもお預けとなる。

 あれほど大見得おおみえを切ったのに、勝てなかったため、圭介は内心、恐る恐る隣の美里に目をやったが。


「すごいわ、ヴィットマン……」

 彼女は感動のあまり、放心したようにトラックを見つめていた。


「だから言っただろ。いいレースが見れるって。隊長はすごいんだ」

「ありがとう、圭介。私、感動した」

 その表情に明るさが戻り、いつもの調子を取り戻したとようやく確信した圭介が、照れ隠しに、


「べ、別のお前のためにやったわけじゃない」

 と、いつもとは逆に自分がツンデレ気味な態度を見せる。


 彼女は、

「うん。でも、ありがとう」

 そう言って微笑んだ笑顔が、圭介には眩しく、そしていつもよりも可愛らしく感じるのだった。


 ちなみに、最終的に5着がヤマデラファイア、6着がプリンツオイゲン。1番人気のヤークトパンターは何と10着だった。まさに坂本美雪の予想通りで、真に恐るべきは、彼女の「的中率」の高さだった。

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