第9章 ターニングポイント
第59話 ダウナーモードな美里
平成18年(2006年)。
この年、彼らの環境が大きく変わる。
同年3月31日。
いわゆる「平成の大合併」により、三石町が静内町と合併し、「新ひだか町」となった。
産まれてからずっと、三石町で馴染んでいた美里は、相当ショックだったらしく、
「産まれた場所がなくなったみたい」
と、悲しんでいた。
そんな彼女も、そして圭介もこの年、29歳を迎える。
だが、ヴィットマンのクラシックでいくらか賞金を稼いだとはいえ、未だ重賞勝利がないままの彼らの懐事情は厳しく、その上、さらに衝撃的な情報が、美浦の関厩舎から入る。
「えっ。
「はい。申し訳ありませんが、休養をさせないといけません」
そう。関厩舎に預けていた、期待の牝馬にして、美里が気に入って購入した、ミヤムララベンダーが屈腱炎を患い、半年以上の休養となった。
この屈腱炎というのは、競走馬にとって頻繁に発生する可能性があり、厄介な怪我でもあり、症状は上腕骨と肘節骨をつなぐ腱である屈腱(大きく外側の
また、詳しい原因はまだ不明だが、継続的・反復的な運動負荷によって起こると推定されている。
つまり、競走馬のような一種のアスリートにとっては、致命的でもあり、完治には数か月から、長いと数年。あるいはそのまま引退となるケースもある。
そのことで、沈んでいた美里がさらに落ち込んでしまった。
その上、同じ時期にデビューした、コヤストツゲキオーも怪我こそしていなかったが、なかなか勝てずにいた。
さらに、去年デビューした、ミヤムラジョケツもまたオープンクラスに上がれず苦しんでいた。
かつて、自身が菊花賞のレース後に、落ち込んでいたところを彼女に励まされた圭介は、何とか美里を元気づけたいと思いつつも、有効な手段が見つからないまま、4月を迎える。
新馬の誕生だ。
この年になると、サクラノキセツ、ナイチンゲール、ヨウシタンレイと3頭の繁殖牝馬を擁していたコヤスファームは、それこそ幼駒が数頭誕生し、賑やかになってきていたが、秘書的立場の美里が、やはり元気がないというか、覇気がなく、
「ああ、適当によろしくやっておいて」
と投げやりだったし、お産にも立ち会おうとしなかった。
実際、その年ももちろん、獣医の岩男千代子がお産に立ち会ってくれたし、相馬や、彼に呼ばれた、ギャンブラーの坂本美雪も牧場にやって来たが。
「うーん。今年はイマイチだね」
「だよな。俺もそう思う」
珍しく美雪と相馬の意見が一致していた。
つまり、彼ら「相馬眼を持つと思われる者たち」の目を介しても、産まれた仔たちはイマイチのように映ったらしい。
もっとも、獣医の岩男千代子は、
「でも、元気な仔たちですよ」
と、獣医らしく、健康面を重視して意見を述べていた。
しかも、その1か月後。
今度は、種付けになるが、その時になってもなお、美里は、
「今年は任せる」
と、乗り気ではなかった。
仕方がないので、圭介は、相馬と相談し、種付けを粛々と進める。
一方で、どうにも元気がない美里を元気づけるため、彼女を執務室に呼んだ。
「何?」
機嫌が悪そうな彼女に、スポーツ新聞を見せる。そこにはもうすぐ始まるGⅠレースの記事が躍っていた。
そこには「天皇賞(春)」と大きく見出しがあり、馬柱が立っていたが、特筆すべきはその名前と◎印だった。
ヴィットマン 単勝8.6倍 3番人気 〇△〇
イーキンス 単勝2.3倍 2番人気 ◎〇△
人気面でこそ劣っていたが、それでも3番人気につけていたし、競馬評論家からの評価は悪くなく、ヴィットマンに注目が集まっていたのだ。
「見ろ、美里。隊長が想像以上に人気だぞ」
その評論家の記事まで見せていた圭介だったが。
「あー、ホントだね。でも、きっとダメだよ。そんな簡単に勝てないって」
なおも、ダウナーモードに入っている美里を、面倒臭く思ったのか、圭介は机を軽く叩いて続けた。
「そんなことない! 隊長は頑張ってるんだ。今回はきっと勝てるさ」
「でも、またイーキンスが相手でしょ。どうせ勝てないって」
「わからないぞ。菊花賞であれだけの叩き合いを演じたんだ。今度こそ勝てるかもしれん」
「うーん。どうかな。ぬか喜びになると思うよ」
それは圭介なりの励まし方だったが、美里自身はやはりいつも通りという感じではなく、どうにも気分の落ち込みが治っていないように、圭介には映った。
仕方がないので、圭介は「奥の手」を使うことを決意する。
おもむろに美里に近づき、その両肩を軽く掴み、
「美里」
彼女の目を正面から真っ直ぐに見て呟いた。
「な、何?」
いきなり接近してきた圭介を意識してか、若干、緊張しているような彼女に向かって、
「今度のレースをちゃんと見ろ。そして感じるんだ。競馬の
いつもはチャラい態度を取っている圭介が、いつになく真剣な表情を浮かべて言い放ったので、美里は、照れたように目を逸らし、
「わ、わかったわ」
とだけ呟いていた。
やけに自信満々の圭介だったが、実はこれには、「事前情報」という当てというか「裏技」があり、圭介は事前に坂本美雪に電話で聞いていたのだ。
「今度の
と。
その時、いつものように酒を飲んでいた坂本が電話口で明るく、大きな声で言い放ったのだ。
「いいね!」
と。
彼女が「いいね」と言った時ほど、心強い時はなく、大体の馬が勝っているか、連対になることが多いのだ。
つまり、1着か2着の可能性が高い。
その後、彼女は酔っ払った声を上げながらも詳しく説明してくれた。
「春天の距離は3200m。日本のGⅠで最も長い距離だけど、元々ステイヤー適性があって、菊花賞でもあれだけの叩き合いを演じたヴィットマンだよ。今回はやれそうな気がするよ。それに体もガレてないし、状態も良さそうだ」
このお墨付きを得てから、美里に上記のことを話したのだった。
国内最長距離のGⅠ、そして伝統ある天皇賞(春)。同時に子安ファーム初の重賞制覇がかかる大事な一戦だ。世紀の対決が始まろうとしていた。
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