第57話 三つ巴の果てに
ヴィットマンにとって、そして子安圭介にとって、「初のクラシック」、その最後の1戦がやって来た。
2005年10月23日(日) 京都11
京都競馬場、芝3000mは、特殊なコースで、右回りで外回りコースが使用され、菊花賞・万葉Sのみ行われている。
スタートから最初のコーナーまでの距離はかなり短め。また3コーナーにある、高低差4.3mの、通称「淀の坂」が大きな特徴だ。向こう正面から上り、3コーナー途中から下り。基本、この下り坂の2周目に勢いをつけペースアップすることが多い。
最後の直線は約400mとやや長めだが、坂が無く平坦。芝質が軽い場合が多く高速決着になりやすい為、スピード・瞬発力が大きな武器になる。
前半から中盤にかけてほとんどの騎手は無理に前には行かず、馬なりでコースを周回することが多い。
実際にレースが動き出すのは2周目の向こう正面、ちょうどスタート地点を過ぎたあたり。
このあたりから中団以降で脚を溜めていた馬が進出を開始する。
これに合わせて動き出す馬もいれば、まだまだ脚を溜める馬もいて騎手の駆け引きが楽しめる。
2周目の淀の坂の頂上を過ぎると、レースも終盤になる。
下り坂の慣性をフルに活かして各馬は一気にペースアップする。最後の直線は約404mで勾配はない。
スピードを最高地点まで引き上げながら各馬はゴールを目指す。
京都の芝3000mは長距離レースなのでスタミナが重要なのはいうまでもないが、しかし、それ以上に大事なのが騎手の力量と言われている。
ペース配分や仕掛けどころを誤ってしまったらどんなに強い馬でも一杯になってしまうので短距離戦や中距離戦と比較しても騎手の腕が試されやすい傾向にある。
以上のことを、伊丹空港に向かう機内で、圭介は相馬から説明されていた。
(さすがに詳しいおっさんだな)
圭介が感心するくらい、相馬は競馬自体には非常に詳しい知識を持っていた。
さすがに、クラシックの最後のレースだけのことはあるし、ヴィットマン以外に所有馬でクラシックに参戦した馬はいなかったので、圭介はいつものように、美里と相馬を連れて関西に向かった。
ヴィットマンに騎乗するのは、関西出身で、京都競馬場を知り尽くしているベテラン、池田騎手。
人気面では25.2倍の3番人気。2枠4番。
対して、圧倒的に推されていたのは、皐月賞馬のイーキンスで、単勝1.5倍の1番人気。4枠7番。
これは前走の、神戸新聞杯で2着に6馬身も差をつけたことから来るものだった。
そして、日本ダービーを制した、ヤマデラファイア。単勝12.6倍の2番人気で、6枠11番。
スポーツ新聞の馬柱によれば、ヴィットマンには〇印が複数、相馬が持ってきた競馬新聞でも、同じく〇印が複数と◎が一つついていた。
もちろん、イーキンスには◎が複数ついている。
クラシック戦線を戦ってきた、ライバルたちの三つ巴の戦いの締めくくりが、ここ京都で行われようとしていた。
京都競馬場は、京都の南、桂川沿いの淀付近にあり、伊丹から私鉄を乗り継いで向かうことになる。
その間、ずっと競馬新聞を眺めている相馬、そして手持無沙汰気味に、携帯と持ち込んだスポーツ新聞を睨めっこしている美里に対し、圭介はどこか浮かない表情を浮かべていた。
それは内心、
(また勝てない気がする。やっぱクラシックの壁は厚い)
と、前2走のクラシックのGⅠで実感したからだった。
京都競馬場は、この時、まだ現在のようにリニューアルされる前だった。
実際に着いて、パドックに向かうと。
「おおー。来たね、青少年たち」
相変わらず、妙な馬のイラストがついた帽子を被って、右手にワンカップ、左手にスポーツ新聞を持って、陽気な赤い顔をして現れたのは、もちろん坂本美雪だった。
「いや、青少年って。私、女ですけど」
「俺もそんな年じゃない」
美里と相馬が不服そうな表情を浮かべる中、圭介は、
「相変わらずですね、美雪さん。っていうか、もう酔ってるんですか?」
「酔ってないよー」
などと挨拶をした後、確信に迫ることを尋ねる。
「どうですか、ウチのヴィットマンは?」
「うーん。そうだね。悪くはないよ」
「それは、ダービーでも言ってましたよね」
数か月前の日本ダービーの時にも、同じセリフを聞いた圭介は、表情を曇らせるが、彼女はあっけらかんとしていた。
「あははは。ごめんね。でも、今回は違う意味だよ」
「何が違うんですか?」
「前にも言ったように、ヴィットマンの本来の適性は、ステイヤーなんだ。だからこそ、クラシックで一番、勝ち目がありそうなのは、この菊花賞だと私は見ている」
「おお。坂本の姐御にそう言われると、何だか期待が持てますな」
相馬が珍しく、大きな声を上げ、喜んでいたが。
「ただし」
人差し指を立てるようにして、彼女は続けた。
「それは相手にもよるね」
「どういうことですか?」
美里が尋ねる。
美雪は、人差し指を、パドックに向けた。
そこには、イーキンスが歩いていた。
「イーキンスが何か?」
「ありゃ、調子が良すぎるね」
「マジですか?」
「マジで。物凄く馬体が仕上がってる。ライバルがこれだけ強力だと、ヴィットマンには厳しいかな」
その一言が全てを表していた。
圭介が、彼女にレース展開を聞くと。
「3000mの長丁場だからね。さすがにベテランの池田は、逃げは打たないと思うけど、動くとしたら、やっぱ2度目の向こう正面から坂越えくらいかな。ただ、スタミナに関しては、恐らくヴィットマンが一番あるね」
そう。つまり彼女が言うには、「スピードはイーキンス、スタミナはヴィットマン、勝負勘はヤマデラファイア」だと言う。
三つ巴の最終戦とは言え、ヴィットマンだけは、クラシック戦線で8着、5着と精彩を欠いていた。
そのクラシックのラストを飾る大レースが今、始まろうとしていた。
馬主席に、いつものように坂本美雪を招き、レースを見守る。
すぐ近くには、あの憎たらしいライバルの山寺久志の姿も見えた。
さすがにクラシック最終戦。10万人以上の大観衆が京都競馬場に集っていた。
そんな中、関西バージョンのGⅠファンファーレが鳴り響き、いよいよ大一番がスタートする。枠入りは順調に行われ、スタートとなる。
さすがに3000mの長丁場。どの馬も慎重な滑り出しだった。
ヴィットマンは中団やや後方あたり。イーキンスは中団、ヤマデラファイアは後方からの競馬となった。
1周目の坂を登り、下る。どの馬も慎重かつ、余裕があるように見えた。
だが、2周目の向こう正面。
「ここで早くも前に行ったのは、イーキンス」
実況が述べるように、するするっと外から前に進出したのは、1番人気のイーキンス。
ヴィットマンはと言うと、
「全頭が坂を登って、下ります」
京都競馬場名物の、「淀の坂」を2度登って、降りてから、
「ゼッケン4番、ヴィットマンが動いた。つれて内からはヤマデラファイア」
黒い帽子と、緑色の帽子が揺れていた。
そのまま、最後の長い直線に入る。
ここで意外なことが起こる。
「イーキンスが前に出る。しかし、並んでヴィットマンだ!」
競馬の世界では、デッドヒートのことを「叩き合い」と言う。まさにそれがそこで起こっていた。
先頭を走るイーキンス、ほとんど差がなく並んでヴィットマン。ヤマデラファイアは、そこから2馬身ほど離れて3番手にいた。
「内、イーキンス、外、ヴィットマン。これは壮絶な叩き合いだ!」
実際、残り400~200m付近になっても2頭が並んでいた。
「おおっ!」
思わず圭介が歓声を上げ、期待に胸を膨らませる。
勝てば、初の重賞制覇どころか、一気にクラシックのGⅠ制覇の快挙だ。当然、大金が手に入る。
京都競馬場に詰めかけた大観衆から、雷のような大歓声が轟いていた。誰もが名勝負を予感していた。
「行け、ヴィットマン!」
珍しく彼が叫んでおり、その興奮に煽られるように、美里、相馬、美雪も声援を送っていた。
だが、残り100m。
「外から追い込んでくるのは、ヤマデラファイアだ!」
ヤマデラファイアが外から伸びてきた。
結果的には、まさに文字通りの「三つ巴」の混戦になっており、勝負はゴール板までの、たった100mに絞られる。
「わずかに、イーキンスか!」
外からはヤマデラファイアが追い込んできたが、届かず。
写真判定が行われた。
この瞬間ほど、馬主にとってツラい物はないかもしれない。緊張と期待と、そして希望か絶望かを分ける瞬間。
たったの数分が、物凄く長く感じる。
そして、電光掲示板に、
「7」
という数字が無常に記された。
続いて、「4」が躍る。最後に「11」という数字が3番目に点灯する。
1着 イーキンス
2着 ヴィットマン
3着 ヤマデラファイア
三つ巴の決戦は、結局、イーキンスの勝利かつ、クラシック2冠制覇となって終了した。
「惜しい!」
思わず声を上げて悔しがる圭介だったが、そこに、
「クソっ!」
山寺の大声が聞こえてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます