第56話 ジョケツのデビューとライバル
同年8月。
2005年8月17日(土) 札幌5
かつて、坂本美雪が「すっごく強い馬、にはならないね」、そして「ただ、ある程度勝って、いいところまでは行くと思う」と言っており、密かに「希望の星になるかもしれない馬」と目されていた馬がデビューする。
ミヤムラジョケツだ。
青鹿毛の馬体を持ち、圭介が厩舎に行くと、噛まれそうになっていたことから、「女傑=ジョケツ」と名づけられた、ちょっとした気性難の馬。
彼女は、関厩舎に預けられて、デビューする。
一応、地元、北海道で行われるため、圭介はこの日、美里と相馬を連れて、車で札幌競馬場に向かった。
車中で、いつものように後部座席で競馬新聞を眺めている、相馬に圭介は尋ねる。最近、相馬はほとんど「情報屋」になっていた。
「ジョケツは何番人気ですか?」
「1番人気です」
「マジですか? 単勝オッズは?」
「2.2倍ですね」
「へえ。ふざけた名前をつけた割には人気なのね」
「怒ってるのか?」
「別に怒ってないわ!」
「怒ってるじゃねえか」
助手席で、美里がヘソを曲げていた。
無事に札幌競馬場に着くと、彼らを待っていたのは。
「ういーっす。今日も飲んでるかい?」
昼間からワンカップ片手に、手には競馬新聞を持った、ダメ人間の坂本美雪が、どこからともなく現れた。いつものように、妙な馬のイラストの帽子をかぶっている。
「うわっ。酒臭っ」
「つれないなあ、オーナーくん。でもあたしが見たところ、ミヤムラジョケツはいいよ。ちょっとした面白い物が見れる気がするなあ」
相変わらず、勝負勘が鋭いのか、それとも天性の読みなのか、不明だったが、名ギャンブラーの彼女が推してくれるのなら、勝ち目はありそうだ、と圭介は気分が良かった。
「相変わらずだなあ、あんたは。真昼間から酒とはいいご身分だ」
「あなたに言われたくないけどね、相馬さん」
そして、なんだかんだで、年の差があるのに、美雪と相馬の仲がいいことに、圭介は不思議な感覚を覚える。
一応、馬主席に行く前に、パドックに向かって、様子を見てみた。
「しかし、小さいな」
圭介が呟くように、ミヤムラジョケツは馬体重が420キロ前後。
一応、牡牝混合のレースだから、上は480キロ近い牡馬がいる中、彼女、ミヤムラジョケツは一番小さかったから、ある意味目立つ。
だが、
「小さいけど、馬体は絞られてるし、トモの張りもいい。何より気合いが入ってるような、いい目をしてるね」
美雪が呟く。
実際、スポーツ新聞を見る限り、馬柱には◎が複数、〇が2つついていた。一方で、圭介の目に入ったのは、「ナガハルダイオー」という名前の馬で、これが単勝4.3倍の3番人気だった。
(ナガハル? まさか)
そう思っていると。
「あら、子安さん。お久しぶりですね」
聞き覚えのある、柔らかい声がかかったと思って、振り返ると、やはりと言うべきか、彼女、長沢春子がいつものように、高級そうなワンピースに、麦わら帽子を被って立っていた。その傍らには、黒服にサングラスの怪しげな男が一人立っていた。
「長沢さん」
「ナガハルダイオーは、私の持ち馬です。そちらは、ミヤムラジョケツでしたね。いい勝負を期待しています」
そう告げて、彼女はニコニコと笑顔を見せたまま、黒服の男を伴って、馬主席へと消えた。
その後ろ姿を見て、美里は鋭く目線を走らせて、告げていた。
「顔は笑っていたけど、目が笑ってない。やっぱり怖いわ、あの人」
圭介と相馬は無言だった。
そして、いよいよレースがスタートする。
ミヤムラジョケツは6枠6番。騎手はベテランの鈴置騎手で、唯一の緑色の帽子をかぶるから、目立つ。
奇しくもミヤムララベンダーの主戦騎手と同じ騎手だった。
一方、ナガハルダイオーは2枠2番。こちらは若手の騎手だったが、同じく唯一黒色の帽子をかぶっており、判別がしやすい。
「スタートしました」
まずは先行争いだが、ミヤムラジョケツは先行勢に食い込んで、先頭から2、3番手につけることに成功。
一方、ナガハルダイオーは、後方からのスタートになる。
すでに所有馬が何回か走っている、この札幌競馬場。ダート1000mは、コーナーを2つ回ると、最後の直線に入るが、ここが260mと短い。
だが、このコーナー立ち上がりから、すでにミヤムラジョケツが先頭に立っており、内埒沿いに進出。一方、大外からはナガハルダイオーが上位に進出して来ていた。
そして、その最後の「直線」。彼らは信じられない物を見る。
「先頭は、ミヤムラジョケツ」
ここまでは何の変哲もないただのアナウンスだったが。
ジョッキーの鈴置が軽く促すように鞭を打った。
その瞬間。
彼女だけが、「ぐん」と加速した。
残り200m付近。急加速してあっという間に2番手を引き離し、3番手はさらに何馬身も離れていた。
「先頭は、完全にミヤムラジョケツ。リードを6馬身、7馬身と引き離して行く!」
(すげえ)
思わず圭介が感嘆するほどの、末脚で、後続をぐんぐん引き離していた。
結局、
「今、ゴールイン。余裕です。後続との差は8馬身か?」
実況の声を聞くまでもなく、完全に圧勝だった。
2着はナガハルダイオー。だが、その差はおよそ8馬身。2着との差が1.5秒、上がり3ハロンが36.0秒の圧勝だった。
「やるじゃない、ミヤムラジョケツ!」
「だから言ったでしょ、面白い物が見れるって」
「幸先のいいスタートですね」
馬主席で、美里、そして招かれた美雪、相馬が喜びの声を上げており、彼らは圧勝劇に湧いていた。
こうして、新馬戦から、「ダート」での適性を遺憾なく発揮した、ミヤムラジョケツに対し。
遠くの馬主席で、彼女が苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ、
「ちっ。ふざけた名前してるくせに、何で勝ってんのよ」
圭介たちが見たこともないような、般若のような表情で愚痴っていた。もちろん長沢春子だ。
「オーナー。たかが新馬戦です。せいぜい喜ばしておきましょう。ナガハルダイオーの実力はこんなもんじゃありません」
例の、黒服サングラスが応じるが。
「んなことわかってるっての。ただ、何か無性に悔しいというか。見てなさいよ、弱小ファームめ」
長沢春子が、はるか遠くから鬼のような目で、彼らを睨んでいた。
このレースが、まさに長沢春子が、本性を現す、きっかけだった。
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