第55話 提督の獲得
2005年7月。
この年のクラシック戦線を戦っていた、子安ファームの期待の新人とも言える、ヴィットマンは、預けた立木厩舎が秋の菊花賞を目指すと表明したことで、短い休養に入っていた。
一方で、ヴィットマンと同じ時期に新馬戦を勝ち抜いたコヤストツゲキオーとミヤムララベンダーは条件戦を突破し、オープンクラスに上がっていたが、尚も苦戦していた。
だが、ようやく「勝ち星」を重ね、貧乏所帯だった子安ファームにも少しばかりの収益が入っていた。
そして、その年のセレクトセール。
少しは余裕があったが、それでも圭介と美里は、慎重だった。
その年、
だが、
「今年も500万円以下で」
圭介は明言していた。
美里と相馬が、参加者に配られるセリの参加幼駒一覧を凝視する。
美里は、
「安い金額でも、GⅠを勝った馬はいるけど、やっぱ厳しいわね」
と、どうも乗り気ではなかったから、明確に提示はしなかった。
だが、相馬は、
「安くても勝つ馬はいます。では、今年はこの馬で」
彼が提示した馬の名前。
アーデルハイトの2004。
父・シャルンホルスト、母・アーデルハイト。
外国産馬で、ドイツ産まれ。つまり、グデーリアンと同じくドイツ産の馬だった。過去の戦績を見ると、父のシャルンホルストは、1999年にGⅡのハンザ賞を制していたが、他は目立った戦績を残していない。一方、母のアーデルハイトは、繁殖牝馬3年目で、つい最近、日本のとあるオーナーが買い取っていたが、産駒に目立った成績はない。
アーデルハイトの2004は、黒鹿毛の1歳の牡だった。
セリのスタート価格はたったの100万円だった。
相変わらず、「お金をかけずに、安い馬で勝つ」という、プロ野球の弱小球団のトレードかFAのような状態の子安ファームにとって、ある意味、「いつも通り」のセリとなった。
そんな中、相馬が注目したそのアーデルハイトの2004。
「で、どこがいいんですか?」
半信半疑の圭介が尋ねると、相馬は、
「目と歩様がいいですね」
と言っていたが、それがどこまで本当なのか、まったく自信が持てない圭介は、しかし一覧表を見て、他の馬が高額ばかりだったので、頷くしかなかった。
いつものように、声が張る美里にセリを任せる。
「では、アーデルハイトの2004、入ります」
これも例年のように、蝶ネクタイを結んだ司会の男が、ホールで宣言する中、ライバル馬主の山寺や長沢が参加しない、低レベルな戦いに、彼らは参戦する。
「200万円!」
いきなり、他の馬主が叫ぶ。
「300万円!」
「400万円!」
この時点で、すでに500万円までは残り100万円。
(降りるか)
と圭介は思い始めていたが、隣にいた相馬が、むさくるしい顔を近づけて、囁いた。
「兄貴。この馬は500万円以上の価値があります。せめて1000万円まで……」
と、妙に真剣な目を向けてきたので、渋々ながらも、圭介は頷き、美里に伝える。
「600万円!」
「800万円!」
金額がどんどん競り上がって行き、圭介は若干焦り始める。
そして、
「1000万円!」
美里が叫び、ようやくここで、打ち止めになり、
「他にいませんか~?」
と、司会の間延びしたような声が響き、ようやく、
「では、子安ファームさん、落札です」
カーンという音と共に、無事に1000万円で入手することになった。
その馬は真っ黒な、つまり黒鹿毛の馬体を持つ牡馬で、確かに相馬の言うように、目に力があったが。
「相馬さん。1000万円はさすがに……」
「いえ、1000万円の価値はあります」
相馬はいつになく、真剣だった。
結局、無事に落札して、その仔を迎えに行くことになる。
その途上。
「名前はどうしますか?」
「そうですねえ。やっぱドイツだから、アドミラルヒッパーですかね」
「おお。ドイツ軍が誇る重巡洋艦ですな」
「ええ」
「相変わらず、どうしようもない軍事オタクね、2人とも」
美里が呆れていた。
アドミラルヒッパー。ドイツ軍がかつて所有していた、重巡洋艦の名前を冠した、ドイツ産まれの幼駒。
なお、アドミラルヒッパーの由来は、「フランツ・フォン・ヒッパー」というドイツ帝国の軍人・提督の名前にちなんでいる。
迎えに行くと、確かに目力があり、骨格が立派で、歩き方も様になっているように、圭介には思えた。
「こいつはやはりいい馬です。あだ名は、『提督』にしましょう」
「提督。カッコいいですね」
「中二病か、まったく」
美里は当然のように、呆れていたのだが、実はこの「中二病」という表現。この頃、つまり2005年頃から、インターネットのスラングとして現れ始めていた。
美里曰く。
「中二病的な、黒鹿毛の馬が、どこまで行くか、
だったが、圭介はともかく、相馬は内心では、大いに期待をかけていたのだった。
こうして、アドミラルヒッパーという1歳の幼駒が手に入る。
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