第54話 日本ダービーの雰囲気

 そして、あっという間にその日がやって来た。


 2005年5月29日(日) 東京10Rレース 東京優駿(日本ダービー)(GⅠ)(芝・2400m)、天気:晴れ、馬場:良


 皐月賞で、ヴィットマンが惨敗したことで、ショックから立ち直れず、乗り気ではなかったオーナーの圭介は、美里に尻を叩かれるようにして、渋々ながら上京する。


 今度は、東京都府中市にある、東京競馬場に向かったのだが。


「デカいなあ」

 一か月前に、中山競馬場に行った時と、全く同じ感想を口にする圭介に、美里は呆れており、一方で同じく今回も着いてきた相馬は、


「懐かしいですな」

 と、感慨深げに呟いていた。


 一体、彼がここで何度レースを見て、何万円スッたのか、圭介は考えると恐ろしくなり、考えるのを辞めて、まずは腹ごしらえをしようと、売店に向かった。


 東京競馬場は、ここ関東でも有数の大きな競馬場であり、売店の数も多く、しかもダービーということで、入場制限がかかるのではと思われるくらい、人、人、人で溢れていた。


 そんな中、人混みをかき分けるようにして、何とか売店で焼きそばを入手した圭介が、人混みを避けるようにして、馬主席に行こうとすると。


「おー、オーナーくんと、その仲間たち」

 特徴的な明るい声がかかってきて、振り返ると、いつものように、デフォルメされた馬のイラストがついた帽子をかぶった、半袖シャツに、丈の短いスカート姿の、ラフな格好の坂本美雪が、人混みの中から手を振っていた。


 その手にはソフトクリームが握られていた。


「来たな、美雪さん」

「そりゃ、年に一度のダービーだからね。来るでしょ」


 会話を交わす2人に、美里が横から口を挟む。

「私たちもいつか、このダービーを勝ってみたいわね」

 その一言でわかるように、美里も内心は、勝てないと思っている。


「まあ、気持ちはわかるよ。ホースマンなら一度は目指す、日本競馬の頂点だからね」

 結局、彼女を馬主席に案内する形になり、総勢4人で連れ立って馬主席に行くことになる。


 もちろん馬主席は、特定のエリアになり、一般人が入れないので、ここだけは他と違って、人混みに晒されない。その代わり、間近で競馬を見ることは出来ず、大きなガラス越しに見ることになるが。


 その馬主席に座ってから、圭介は気になっていることを彼女に問いただす。

「で、ヴィットマンをどう見ます?」

 一応、彼女は、競馬自体に、というよりギャンブル自体に「強い」から、参考意見としては相馬より頼りになると思ったのだ。


「そうだね。悪くはないかな」

 その時点で、圭介は「察して」しまった。


 つまり、

―いい―


 とは言ってない時点で、ヴィットマンに勝算はないと見たのだ。

 物事をはっきり言う性格の、坂本美雪がこう言うには、もちろん理由があった。


「距離が400m伸びたとはいえ、本質的にヴィットマンはステイヤーだと、あたしは見てるんだ。それに、2000~2400mの中距離だと、イーキンスとヤマデラファイアの実力が抜きん出てる。ヴィットマンの調教師の先生は、実力者だと思うけどね。つまり、馬の状態はいいよ」


 圭介と美里は、感心せざるを得なかった。

 彼女の言っていることは、まさに「本質」、正鵠せいこくを射ており、実際に人気がそれを証明していた。


 皐月賞で勝ったイーキンスは、4枠7番で単勝1.8倍の1番人気。一方、皐月賞2着だったヤマデラファイアは、7枠15番で単勝2.5倍の2番人気。皐月賞で8着だったヴィットマンは、そのヤマデラファイアの隣の7枠14番で単勝35.5倍の7番人気。


 スポーツ新聞の馬柱によれば、ヴィットマンはほとんど△印、相馬が持ってきた競馬新聞では、かろうじて〇印が1個ついている程度。


 正直、「厳しい」と言わざるを得ない。


 ここ東京競馬場、芝2400mは、 左回りで、一周が約2120mとJRA10競馬場の中でも最大の広さを持つコースだ。


 約530mの長い直線が特徴で、途中に高低差2mの急坂もあり、差し・追い込みが非常に有利とされる。


 また、最後の直線での末脚勝負でスピード・瞬発力を発揮する為に、脚を温存出来るだけのスタミナも必要。しかも、4コーナー正面手前からのスタートとなり、急坂を2度走るので、要するスタミナも相当なものになる。


 ここは、日本ダービーやジャパンカップなど、日本有数のビッグレースが開催されるだけあって、真の実力が問われるタフなコースとも言える。


 そして、実際に、派手なファンファーレが鳴り響き、大歓声と共にレースが始まると。


 先行する逃げ馬を追って、先行勢に食い込んだヴィットマンだったが、全体的に速いペースの展開だった。

 レースは順調に進むが、最終の4コーナーを回って、残り400m付近の坂に差し掛かると。


「外からヤマデラファイアが凄い末脚で追ってくる。内埒沿いにはイーキンス!」

 実況の興奮した声が場内に響き渡る中、圭介たちが見守る所有馬のヴィットマンは、先行勢に踏ん張ってはいたが。


 ゴール手前で2、3頭にかわされていた。


「ヤマデラファイアか! 見事、ダービー制覇! 2着はイーキンス!」

 決着はあっという間についていた。


 だが、掲示板を見ると、しっかりと「14」という数字が、上から5番目に光っていた。


「5着か……」

 圭介は諦めに似た溜め息を漏らしていたが、美雪の見立ては違っていた。


「オーナーくん。距離適性が合ってないのに、掲示板入りは立派だよ。化ければ大物になる素質はあるよ」

 さすらいのギャンブラーにして、相馬より余程「相馬眼」に信頼がおける、美雪がそう言ってくれたことだけが、沈み込んだオーナーの圭介の心を慰めてくれるものだった。


 だが、

「ははは。見たかね、ヤマデラファイアのあの雄姿を!」

 鬱陶しく、耳障りな声が聞こえてきたので、圭介は、


「後は任せた、美里」

 それだけを言って、立ち上がってしまう。


「ちょっ、待ってよ!」

 さすがに美里も気づいて、山寺を無視して圭介に従い、相馬と美雪もまた立ち去る。


「おい、お前ら、聞け!」

 山寺久志の遠吠えだけが響いていた。


 こうして、彼ら子安ファームの初めての「日本ダービー」は5着に終わる。しかし、たとえ5着であっても、特別出走手当つきで、約3000万円は手に入るのだった。


 だが、彼らはそれを長沢春子への返済には使わず、経営の足しにすることを決める。何しろ馬主業には金がかかるのだ。

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