第42話 別れがたい馬たち

 同年5月末。


 珍しく、林原真尋が泣いていた。


 理由は、

「パンツくん、ラベンダーちゃん、それにヴィットマンくん。別れたくないよー」

 今年は3頭の馬が、子安ファームを旅立ち、中央競馬でデビューするからだ。


 それも珍しく、3頭ともほとんど同時に厩舎に所属するというタイミングが重なっていた。多少、時期は異なるが、どうやら面倒なので、先方の指示で同時のタイミングで送ることになった。


 パンツことコヤストツゲキオーと、ミヤムララベンダーは美浦の関厩舎へ。ヴィットマンは栗東の立木厩舎へ、それぞれ出発となる。


 コヤストツゲキオーは、よく目立つ立派な芦毛。ミヤムララベンダーも幼い頃と色が変わり、淡い芦毛になっていた。ヴィットマンは黒っぽい青鹿毛だった。

 3頭のうち、コヤストツゲキオーは自家生産馬で、2002年に産まれた時から。ミヤムララベンダーは同じく2002年に0歳でセールで落札してから。ヴィットマンは2003年に1歳でセールで落札してから、それぞれこの子安ファームで育ててきた。


 真尋にはそれぞれに思い入れがあったらしいが、やはり自家生産馬として、産まれてからずっと家族のように過ごしてきた、コヤストツゲキオーとは深い信頼で結ばれているらしい。


「パンツくん。がんばってね。そして、また無事に帰ってきてね」

 いつもはいたずらをされるから警戒すらしていた節があった彼女が、コヤストツゲキオーを抱き着くようにして撫でて、涙ぐんでいた。


「マーちゃん。だからパンツじゃないって」

「いいじゃん、もうパンツで」


「パンツトツゲキオー。その名に相応しい走りを見せてくれ」

 と、幼駒の時から愛着があった、圭介もその出発を残念がって、コヤストツゲキオーを撫でていたが、


「勝手に混ぜるな。コヤストツゲキオーでしょ」

 美里に盛大に突っ込まれていた。


「ミヤムララベンダー。私はあなたを信じてる」

 その美里は、傍らでミヤムララベンダーの鼻筋を撫でて、別れを惜しんでいた。産まれた時は浅黒い色をしていた彼女も、旅立つこの頃には、見事な芦毛になっていた。


 ミヤムララベンダーは、セールで運命的な出逢いをし、0歳の頃から彼女が目をかけ、ずっと可愛がってきた馬だ。美里自身、彼女には特別な思い入れがあるのだろう。


 おまけに、ミヤムララベンダーは、不思議と美里に懐いていた。


 そして、もう一人。

「ヴィットマン隊長。俺は信じてます。あなたがヴィットマンの名に相応しい活躍をすることを。ヴィレル・ボカージュの戦いで見せた奇跡を、我々に見せて下さい!」

 馬に対して、敬礼していたのは、もちろん相馬だ。


 その様子を、無言で見つめる結城、そして我関せずという感じで、相馬のことを見向きもしない青鹿毛の馬、ヴィットマン。彼はどちらかと言うと、他の2頭に比べ、「カッコいい」という形容詞が似合うような、凛々しい馬になっていた。


 ある意味、滑稽な光景がそこに広がっていた。


 だが、オーナーブリーダーとは、そして馬主とは、こうした「別れ」を必ず経験する。

 そして、同時に、彼らが活躍して、無事に再び牧場に帰ってくることを何よりも願っている。


 やがて、馬運車がやって来て、ついに別れとなる。

「みんながんばってねー」

「ミヤムララベンダー。信じてるからね」

「隊長! 勝利の栄光を我らに!」

 真尋が涙ぐんで手を振り、美里が祈るように見つめ、相馬が敬礼して見送っていた。


 圭介は、オーナーとして、この別れを最も悲しむべき立場にある。

 本心を隠すように、涙こそ見せていなかったが、内心では、


(3頭とも無事に帰ってきてくれ。そして、出来れば勝利を)

 と、強く願っていた。


 それぞれの旅立ち。

 そして、この3頭がそれぞれの厩舎に所属し、やがてデビューとなる。


 ある意味、これこそが「始まり」の瞬間だった。

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