第38話 運命の繁殖牝馬
同年10月。
かろうじて、ミヤムラジョオウは500万下のレースに勝ったが、彼女以外は相変わらずちっとも勝てない日々が続き、子安ファームの資金はどんどん減っていた。
すでに3000万円を切っている。
これ以上の贅沢は厳禁なのだが。
ここで、あるイベントが発生する。
繁殖牝馬セールだ。
これについては、もちろん毎年10月に行われており、主に競走馬を引退した牝馬がセリにかけられるわけで、他のセールと変わらないのだが、実は子安ファームは資金難の関係もあり、これの参加をずっと見送っていた。
初年度に、長沢春子から譲られた、サクラノキセツだけが、子安ファーム所有の繁殖牝馬であり、他にはいなかった理由もこれになるのだが。
「さすがにもう1頭くらいは欲しいですね」
ある時、相馬がそう発言したのだ。
そして、これが運命を分けることになる。
「って言ってもねえ、相馬さん。ウチにはお金がないんですよ」
杓子定規に当たり前のことを主張する美里に対し、圭介は考えていた。
(金は確かにない。だが、将来性を考えると、相馬さんの意見にも一理ある。優秀な繁殖牝馬がいれば、それによって……)
と、考え込んでいる圭介に、横から声がかかる。
「それなら、いい牝馬がいるんだよ、オーちゃん」
顔を挙げると、その日、たまたま執務室に呼んでいた真尋の姿が目に入った。
「いい牝馬?」
「そう。ナイチンゲールって言ってね」
「看護師さんか?」
「違う違う。その『白衣の天使』じゃなくてー」
と、彼女が史料を差し出してきた。
4人で覗き込むようにして、見る。
ナイチンゲール。
アメリカ産まれの、今年10歳になる牝馬で、引退後に、北海道のとある牧場に引き取られたらしい。
血統については、両親ともアメリカの馬なので、正直よくわからないというより、成績を見てもイマイチパッとしないように見えたが。
しかし、彼女自身は4歳時の1997年に、アメリカのGⅠ・ブリーダーズカップ・ディスタフという3歳以上の牝馬限定の9ハロン(約1800m)ダートレースに優勝していた。
「へえ。強そうだな」
一応、写真を見ると、栗毛の綺麗な馬体で、張りや艶があり、美しい馬に圭介には見えた。
「オーちゃん。どこ見てるの? 可愛いでしょ」
「いや、だから可愛いかどうかは重要じゃなくて」
「まあ、いいんじゃない」
圭介が真尋といつものやり取りをしているのを見かねたのか、美里が横から口を出した。
彼女は、その綺麗な馬体と戦績、血統を見て、
「セリの金額次第だけど、面白い馬だと思うわ」
と呟いた。
「そうですね」
相馬もまた同調した。
そして、ついに彼らは、セリ会場で彼女と出逢う。
10月下旬。
苫小牧市にある、大きな馬主の牧場で行われた、繫殖牝馬セール。
そこには、圭介たち以外にも、あの憎たらしい馬主の山寺や、美しい馬主の長沢の姿もあった。
その日の、目玉は、1995年に牝馬二冠を達成した、ウェルズレイという繫殖牝馬で、期待値は高く、前評判では1億円は固いと言われていた。
だが、圭介たちは彼女には見向きもせず、パドックのように客に見せるスペースで、彼女を見た。
ナイチンゲール。
確かに、何と言うか美しくて、気品を感じるような馬に、圭介には見えた。
基本的にサラブレッドは、交配によって産まれるから、言わば「人工的」に造られた馬と言えるので、洋の東西を問わず、美しくて、特徴的な目を引く馬がいるのだが、その中でも10歳の彼女は、美しく見えた。
馬の10歳とは、人間で言えば35~38歳くらいだろう。
女優で言えば、若手からベテランに移る過程とも言えるが、圭介の目から見ても、彼女は「円熟した女優」のように美しく見えた。
一通り、パドックのように馬を見た後、セールが行われる室内の会場に移動する。その途中。
「これはこれは。貧乏馬主が珍しくお
嫌味ったらしく手を挙げて近づいてくるのは、もちろん山寺久志だったが、その日はすぐ隣に、まるで妻か愛人のように、長沢春子を連れていた。
「山寺さん。そのようなことをおっしゃってはいけません」
そして、その長沢が妻のようにたしなめているのが、圭介には早くも気に入らなかった。
「山寺さんに、長沢さん。お二人の目当ては、やはりウェルズレイですか?」
「ふっ。もちろんだ」
「いいえ。私の目当ては、ブラックウィドウですわ」
山寺と長沢の目的は違っていた。
ブラックウィドウは、その名の通り、黒鹿毛の馬で、1996年に創設されたばかりの3歳の馬GⅠ・NHKマイルを優勝しているが、実はこの馬もナイチンゲール同様、アメリカ産の馬だった。
NHKマイル以外には、GⅢ毎日杯に勝っただけで、その他に大きなレースには勝っていない。
セールでもそれほど注目馬ではなかった。
「へえ」
感心したように、美里が呟き、彼女は長沢を見ていた。というより、圭介の目には「睨んで」いるようにすら見えた。
それに対し、長沢もまた、ニコニコしながらも、美里を「睨んで」いるようにも見えて、男の圭介には、この女の同士の睨み合いが、どこか不気味な物に感じた。
そして、ついにセールが始まる。
予想通りと言うべきか、山寺が豊富な資金力を生かし、1億5000万円でウェルズレイを落札。一方、予告通り長沢はブラックウィドウを5000万円で落札していた。
そして。
「では、ナイチンゲール、入ります」
いよいよ彼らの目当ての馬が入る。
前評判は高くはなかったため、最初は100万円からスタートした。
だが、次々に、
「200万円!」
「500万円!」
と吊り上がって行く。
気が付くと、800万円まで来ていた。
「いいか。1000万円までだぞ」
今回も、圭介はこの上限額を厳命していた。
子安ファームの、「セリ係」にもなっている美里が頷くが、渋い表情をしていたのは、彼女自身、1000万円では入手できないかもしれない、という焦りがあるからだろう。
だが、今回も子安ファームは不思議と「運」に恵まれていた。
「1000万円!」
「1000万円入りましたー。他にいませんか?」
セリを仕切る司会が、独特の節回しでマイクに告げるが、結局現れず、
「では、ナイチンゲール。子安ファームさん落札です」
独特の「カーン」という鐘の音と共に、彼女の落札が決まった。
戦績や血統からしても、1000万円は安い金額と言える。
そして、喜ぶ子安ファームの面々にとって、彼女こそが、「新時代」の希望の星となるのだが、それはまた別の話になる。
2003年は、こうして流れて行った。
2003年の成績は、ミヤムラジョオウが2勝。それ以外は0勝。
相変わらず子安ファームの家計が、文字通りの「火の車」状態のまま、翌年を迎える。
残金わずかに2000万円。諸経費を引くと、1000万円台だった。
彼らにとって、厳しい季節が続く。
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