第35話 将来性は戦車級?
同年7月。
またもこの季節がやって来た。
セレクトセールだ。
今年も良質な幼駒が並んでいた。
中でも、親子2代連続で優駿牝馬(オークス)を制覇したクレオパトラという牝馬の仔が大注目を浴びており、1億円は固いと前評判になっていた。
さらに、GⅠ6勝の名馬、シュールレアリスムもまた1億円以上は確実と有力視されていた。
そんな中、今年は静内町で行われた、会場へと脚を運んだ3人。
いつものように、圭介と美里、相馬の3人で向かったのだが。
「あら、お久しぶりですね」
声をかけてきたのは、長沢春子。
しばらくの間、圭介は彼女や彼女の持ち馬と、競馬関係で当たることはなかった。つまり、疎遠になっていたのだが、彼女はいつも通りの優雅な微笑みと、相変わらず高そうな高級ネックレスをつけて現れた。
美里が警戒の瞳を向ける中、彼女は会場を見渡して、語り出した。
「今年は、私、クレオパトラの仔を狙います」
「さすがですね、長沢さん。残念ながらウチにはそれほど金銭的余裕はありません」
正直に言う、圭介に彼女は微笑みを返す。
「まあ、子安さん。馬は値段が全てではありませんわ。格安でもGⅠを勝つような名馬が産まれる可能性は十分あります。ですから、諦めずに探してみて下さい」
「はい。がんばります」
相変わらず、清楚なお嬢様風を装うような態度で、わざとらしいくらいに丁寧な口調の長沢に、美里は冷たい視線を送り、圭介は長沢の後ろ姿をボーっと眺めていた。
結局、長沢春子はそれだけを告げて、去って行くが。
やはりこの男もやって来た。
「相変わらず、貧乏そうだな」
言うまでもなく、山寺久志だった。
嫌味なほど豪華な、アルマーニのスーツを身に着け、手にはロレックスの腕時計をつけた、いかにも成金趣味のような彼が、
「僕はシュールレアリスムの仔を狙うよ。1億円どころか、3億円出しても惜しくはないからな。お前らはどうする? まあ、どうせ1億円も出す余裕もないだろうから、零細血統しか狙えないか」
「そんなことあんたには関係ないですけどね」
そして、お約束のように、美里が「噛みついて」いた。
「ふっ。僕は卑しい貧乏人の相手をしてる暇はないんだ。せいぜいがんばりたまえ」
明らかに見下したような態度で去って行った。
「絵に描いたように、憎たらしい男ね」
吐き捨てるように美里が呟く横で、圭介は、
「でも、ちょっと羨ましいなあ。俺もあんな風にお金を使いたい」
切実さが籠ったような瞳を中空に向けていた。
美里も、相馬も、無言だった。
その心中は、圭介を
そして、ついにセールが始まる。
ここで、圭介と美里、相馬が相談して、格安で、かつ実績がある馬の仔を狙うことになった。
色々な馬がいる中、相馬が目に止めた一頭の馬がいた。
「父・フォーゲルタール、母・アウレリア。この仔はいいです」
彼が目に着けたのは、アウレリアの2002。
父のフォーゲルタールは、1995年のGⅠ・天皇賞春を制しており、他に重賞のステイヤーズステークスと阪神大賞典を制していた。いずれも距離が3000m以上。つまり、生粋のステイヤーだ。
母のアウレリアは、それほど勝ってはいなかったが、母父に優秀な種牡馬がいる。血統は悪くない上に、値段は200万円からと格安だった。
「ステイヤーですか。面白いですね。それに何よりも……」
「フォーゲルタールとアウレリア。どっちもドイツ語っぽいですが、別に有名ではないですな」
「ええ」
てっきり、また2人の軍事
なお、ライバル馬主の長沢と山寺はこのセリには参加していなかった。
「では、アウレリアの2002。200万円から入ります」
司会の蝶ネクタイの男がマイク片手に話し出すと、途端に会場が熱気に包まれる。
すぐに、声が飛んでいた。
「300万円!」
「500万円!」
しかし、美里はじっと堪えていた。セリでは、声がよく通るという理由で、美里が声を上げる役になっていた。
「800万円!」
圭介は事前に、「上限は1000万円まで」というルールを提示していた。それくらい、この子安ファームには余裕がない。
いつまで経っても手を挙げない美里に、圭介は内心、ヤキモキしており、チラチラと横目で彼女を見ていたが、それでも彼女は動かなかった。
やがて、
「900万円!」
という声と共に歓声が上がる。
「美里」
呼びかけた圭介の声に応じるように、彼女はようやく重い腰を上げた。
「1000万円!」
ギリギリだった。
これ以上、「張られる」と彼らには出すべき金額がない。というよりも金はあるけれど、赤字に転落する恐れがある。
祈るような気持ちでいたが、幸いにもそれ以上、乗って来る者は現れなかった。
「では、アウレリアの2002。子安ファームさん落札です」
カーンと鐘が鳴り、落札が決まる。
早速、落札した仔に会うため、彼らは厩舎に向かった。
そして、その途中で、思い出したように相馬が声を上げていた。
「フォーゲルタール。どこかで聞いたことがあると思いましたが、ヴィットマンの生家がある土地の名前ですね」
「なるほど。では、やはり名前は……」
「ヴィットマンで決まりでしょうな」
圭介と相馬は目を合わせ、不敵に微笑んでいた。
それを横目で見ていた美里は、呆れたように溜め息を突いて、質問を投げかけていた。
「私にもわかるように説明して」
「何だ、お前。ヴィットマンも知らんのか?」
「知らないわよ。バットマンじゃなくて?」
「そんな
「はあ。また軍関係? まったく相変わらず軍事オタクね」
呆れて目を逸らす美里に対し、2人は意気揚々と厩舎へ向かった。
そこにいたのは、1歳の幼駒。幼いながらも、どこか落ち着いていて、かつ精悍な顔つきをしている、青鹿毛のその幼駒を見て、2人は、
「これはいい馬ですね。戦車長と呼びましょうか」
「いいえ。それでは呼びにくいので、隊長にしましょう」
と、目を合わせ、語り出す始末だった。
「隊長! よろしくお願いします!」
「ヴィットマン隊長。是非、我々に勝利を!」
いい大人が2人して、仔馬に敬礼し、「隊長」ともてはやす姿を見て、美里は、空を見上げて両手を上げて一言、毒づいていた。
「バカみたい」
第二次世界大戦の戦車戦の英雄、ミハエル・ヴィットマンの名前を冠した仔馬、ヴィットマン。デビューは翌年になる。
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