第32話 触れあいの一時

 平成14年(2002年)が終わった。


 終わってみれば、子安ファームの勝利数はたったの2。ミヤムラジョオウが勝ったのは、未勝利戦のみだった。それ以外にミヤムラオジョウがかろうじて同じく未勝利戦を勝ったのみだった。


 明らかに「赤字」の状態で、年明けを迎える。


 平成15年(2003年)。


 北国、北海道の春は、遅い。


 一般的には内地で桜が咲き始める3月末から4月初旬においても、北の大地、北海道では、まだまだ根雪(冬から春までずっと溶けない雪)が残っていて、冬の様相を呈している。


 そんな3月末のある日。


 オーナーである圭介は、珍しく自らが、馬を引いて、その馬を牧場の放牧地に散策させた。色が芦毛の、よく目立つ馬だった。


 そのことに美里や真尋は驚いて様子を伺っていたが、その名前が問題だった。


「よーし、行くぞ、パンツ」


「あんたねえ。パンツって何なのよ。酷い名前ね」

「あはははっ。相変わらずオーちゃん、面白い! 将来、パンツくんって名前でデビューさせる気?」

 牧場の女性陣2人のうち、美里は呆れたように溜め息を突き、真尋は大笑いしていた。


 一時期は、ミヤムラボウズの安楽死で、沈み込んで、内心、心配していたオーナーの圭介は、真尋がいつも通りに戻って安堵していたが。


 この「パンツ」と名づけられた(もちろん正式名称ではない)、仔馬は今年1歳になる幼駒で、2002年に産まれた。この子安ファームにとって、初の「自家生産馬」だった。


 つまり、オーナーの圭介にとっても、それなりに思い入れがあるのだが。


 それが何故「パンツ」という、珍妙な名前で呼ばれているかと言うと、彼がとても「人懐こい」馬で、じゃれてはよく圭介の下半身に首を突っ込み、ズボンをくわえて降ろそうとするからだ。むしろパンツを狙っているように、圭介には思えたのだ。


 つまり、それだけ人馴れしていて、無邪気で、いたずら好きの、可愛らしい性格の、愛嬌がある馬でもあったのだが、産まれた時からずっとこの牧場で世話をしてきた馬のため、余計に彼は人に懐いていた。


 ただ、この馬は、オーナーだけではなく、美里や真尋にも同じようなことをするので、美里は下半身を狙われることを避けるように、ふれあい自体を避けていたし、真尋はもちろん可愛がってはいたが、同様に、常に下半身を若干警戒しているようだった。

 その分、圭介が可愛がっていた。


「パンツダイスキって、名前でどうだ?」


「バカじゃないの?」

「マジ、受ける! この牧場初の自家生産馬がパンツダイスキって!」

 明らかに不機嫌な美里と、腹を抱えて笑っている真尋を置いて、圭介は、通称「パンツ」を連れて、放牧に出た。


 しかも、この仔が本当に可愛らしいのだった。


「ブルッ」

 まだ雪が薄っすらと残り、気温が一桁台前半しかない、寒い牧場でも元気よく走り回り、さらには何故か地面に寝転がって、雪と戯れるようにして遊び出す。

 雪が積もる地面に寝転がると、雪の白と彼の芦毛の馬体が相まって、雪と一体化しているようにも見える。


 父のホームスチールが芦毛の馬で、母のサクラノキセツが青鹿毛の馬であり、遺伝により、彼は芦毛となるのだが、実は芦毛の馬は、産まれた時は色が違う。彼もまた、産まれた時は母と同じく青鹿毛だった。芦毛の馬は成長と共に色が変わっていくのだ。つまり最近、ようやく芦毛になりつつあった。


「ほら、パンツ。お前の好物だぞ」

 しかも、圭介が人参を差し出すと、面白いように近づいて来ては、ガブガブと食べてしまう。


 食べ終わった後も、圭介にせがむように、首を差し出し、彼の肩や腰を軽く噛むようにして、じゃれてくる。


「もうないぞ」

 これを、次の人参への催促と受け取った、圭介が否定するも、彼は止まらなかった。


 さらに、一通り、放牧を終えて、厩舎に帰ろうとして、手綱を引っ張っても、彼は頑として動かなかった。


「よし、帰るぞ、パンツ」

 ゆっくり手綱を引っ張っても、彼はまるでイヤイヤをするかのように動かない。


「しょうがないな。もう少しだけだぞ」

 圭介は、彼には一際甘かった。


 初めての自家生産馬ということの愛着もあったが、何よりも本当の意味で「可愛い」と感じさせてくれる、人懐こい、愛嬌のある馬が彼だったからだ。

 まるで自分の子供のように可愛がっていた。


 その愛嬌の良さは、周囲からも評判で、獣医の岩男千代子は、

「彼は本当に可愛らしい子ですね」

 と、常々語っていた。


 厩務員の結城や相馬からの評判も良く、

「人懐こくて、世話のし甲斐があります」

 とは、結城の談。


「将来、いい馬になりそうです。こいつは頭がいいです」

 とは、相馬の談。


「パンツくんは、マジで面白いよね」

 とは、真尋の談。


 子安ファームの将来を担うべき、「期待の星」、それがこのパンツなのだ。


(マジでパンツダイスキって、名前にしたら、美里に殴られそうだな)

 厩舎に戻る途中、手綱を引きながら、圭介は一人思うのだった。


 仮称「パンツダイスキ」。正式名称は未定ながら、翌年にデビューとなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る