第6章 新たなる世界

第31話 初勝利

 この年、2002年。


 子安ファームにとって、「初めて」のことが起こった。


 ミヤムラボウズの安楽死。あまりにも衝撃的で、無残な出来事に、心を打ち砕かれた彼らだったが、相馬の「予言」が、別の「初めて」をもたらすことになる。


 ミヤムラジョオウ。


 2000年夏。子安ファームとして、初めて「セレクトセール」で入手した馬。父はゴーマイウェイ、母はカスタネットソング。

 栗毛の牝の馬で、デビューからこれまでの成績は10戦0勝。


 ただし、2着が2回、3着が4回もあった。今まで勝てないまでも善戦していた彼女。


 そして、運命の日を迎える。


 2002年10月5日(土) 福島3Rレース 3歳未勝利戦(ダート・1700m)、天気:晴れ、馬場:良


 通常、北海道以外のレースに、圭介は観戦に行かない、というルールを自分の中で決めていた。


 理由は単純に「面倒だから」だったのだが、福島競馬場で行われるこのレースに、相馬が、


「応援に行きます」

 と、ある日の晩飯時に告げていた。


 恐らく内心では、単に、

(賭けに行きたいです)

 というのが実情なのだろう。


 当時、今の様にネット投票はできなかった。賭けるには現地、つまり競馬場に行くか、場外馬券場に行くしかない。


 それを見越して、圭介は、

「じゃあ、ミヤムラジョオウの様子を見てきて下さい」

 と告げていたが、


「せっかくだから、あんたもついて行きなさい」

 まるで、姑のような命令口調で、美里が鋭い目線を向けてきた。これではどっちがオーナーかわからない。


「嫌だよ、面倒だ」

「いいから、たまには行きなさい」

 まるで姑というより、母親のようだ、と思いつつも、渋々ながらも圭介は頷き、新千歳空港から福島空港へのチケットを、自分と相馬の2人分、入手することになった。


 そして、前日、夜。


 ようやく福島に到着。

 新千歳空港から福島空港までは直行便でも1時間半はかかるし、場合によっては、大阪の伊丹空港を経由して、福島空港に行く便もある。


 いずれにしても、ミヤムラジョオウのレースが3レースで、10時45分に発走となるので、前日から福島入りする必要があった。


 またも相馬と「野郎2人旅」になったことに対し、どうも釈然としない表情を浮かべる圭介に対し、相馬は最初から珍しく上機嫌だった。


「ミヤムラジョオウは、きっとやってくれますよ」

「そうですかぁ? これまで散々勝てなかったですからね」


「それは、彼女が大器晩成型だからです。それに、福島で勝つなんて縁起がいいじゃないですか?」

「何故ですか? 相馬さんの故郷だからですか?」


「それもありますが、『荒れる福島』と言われるくらい、競馬が荒れるのが福島です。台風の目になって、荒らしてくれれば面白いからです」

「なるほど」


 福島入りした、3人は一泊した後、競馬場に向かう。


 福島競馬場のダート1700mは、ダート1150mと並んで、最も開催が多いコースの一つである。スタート地点はスタンド前右手の直線入口地点。最初のコーナーまでおよそ338m。序盤のポジション取りの距離は平均的。3~4コーナーはスパイラルカーブで、コース全体の高低差は最大2.1mある。


 ここは断然逃げ・先行有利とされる。特に逃げ馬は1コーナー過ぎの下りで単騎に持ち込めるので成績が良い。


 直前のオッズを見ると、ミヤムラジョオウは、単勝1.9倍の1番人気。1枠1番の最内枠だった。スポーツ新聞を見ると、複数の◎がついていたから、人気はあった。


「荒れる福島、で1番人気か。嫌な予感しかしないような……」

 と、漏らす圭介に、相馬は首を振った。


「いえ。断然の1番人気。しかも1枠1番。縁起がいいです」


(縁起がいいだけで、勝てるなら苦労しない)

 と、思いつつも圭介は、冷静にレースを見つめる。


 相馬によると、馬体は順調そうで、馬体重も450キロ程度と平均的、変な発汗もないし、歩様も問題ないし、調子は良さそうに見えるとのこと。


 そして、驚くべきことに、彼はミヤムラジョオウに、単勝で、「10000円」も賭けていた。


 さらに、

「おー。また会ったね」

 昼間からワンカップを片手に持ち、もう片方の手で競馬新聞を持ち、赤ペンを耳に挟んでいる。まるで中年のおっさんのような風体の、坂本美雪がまた現れた。

 事実、現在よりもまだ若年層に競馬の人気がなかったその当時、ワンカップを持って朝からうろついている中年以上のおじさんが競馬場には多かった。まるで場末ばすえのダメ人間が集まる居酒屋のような雰囲気だった。


「函館、札幌と続いて、福島ですか? 本当に日本中の競馬場に行ってるんですね」

「だからそう言ったでしょ」

 呆れる圭介に、あっけらかんと返してくるが、すでに彼女は酒が入って赤ら顔になっていた。


 真昼間から酒を飲むとはいい身分だ、と思うが、予想を聞くと、

「ミヤムラジョオウだね」

 と、驚くべき回答が返ってきた。


「マジですか? ウチの馬を贔屓目に見てくれるのは嬉しいですが」

「違うよ、オーナーくん。ミヤムラジョオウはようやく馬体が仕上がってきた。彼女は大器晩成型なんだね。いずれ大きなレースにも勝つかもしれない。特に今日は、すごく状態がいいように見える」


 怪しい相馬眼を持つ、未知数の相馬に言われるならともかく、実績を残している、坂本に言われるのは、悪い気はしない、と圭介は期待する。というより、彼女によるミヤムラジョオウの見立てが相馬の物と限りなく似ていた。


 だが何よりも、

(勝利の女神のお墨付きだ)

 という思いがあった。


 昼間から飲んだくれている、一見、ダメ人間のような女神だが、彼女が推してくれれば、それなりに頼もしくはあるからだ。


 レースが始まると、2枠2番にいた、10番人気の馬が先行してひたすら逃げる。その後にミヤムラジョオウが追うが、気が付くと、2コーナーを回った辺りで、すでに10馬身近く引き離されていた。


(あちゃー。これはまたダメか)

 と、内心、気が気でない圭介だったが、相馬と坂本の見立ては、実は違っていた。


(いい位置につけている。逃げ馬が落ちれば上がって来る)

(ぴったりと好位を追走。これなら行けそう)

 相馬も、坂本も、この馬を軸馬に賭けていたから、気合いの入り方が違った。


 そして、最終の4コーナーを回ったあたり。


内内うちうちを突いて、伸びてきたのはミヤムラジョオウだ」

 圭介の記憶では、恐らく「初めて」ではないだろうか。


 つまり、自分の牧場の馬が、「先頭」に立ったのだ。

 これまでほとんどのレースで惨敗していたからだ。


「外からアッパーカットが追い込んでくる」

 アッパーカットは、5番人気の馬だった。


 そのまま直線での叩き合いになる。


「外、アッパーカットか。内、ミヤムラジョオウか!」


 勝負は、最後の一瞬にかかるが、外から猛烈に追い込んでくるアッパーカットに対し、ミヤムラジョオウは最後まで脚色が衰えなかった。


「わずかに内、ミヤムラジョオウか」

 微妙なところだった。


「これは写真判定に入ります」

 結果は、わずかにミヤムラジョオウが勝っているか、負けているか。ほとんどハナ差くらいの微妙な位置で、巨大なターフビジョンを見ても、素人には結果がわからないのだった。


 そして、5分ほど経ち、電光掲示板に、「1」という数字が、一番上に踊る。


「よし! やっと勝ったな!」

 子安ファームにとって、初めての勝利を、ミヤムラジョオウがもたらした瞬間だった。


「さすがジョオウですね。美里の姐さんにも劣りません」

「それ聞いたら、美里が怒りますよ」


 笑い合う圭介と相馬に対し、坂本は意味深な一言を呟いた。

「いいねえ、ミヤムラジョオウ。ダート路線で活躍してくれそうだ。あたしのコレクションに入れてあげよう」

 彼女は謎の上から目線でそう呟いては、ワンカップの残りの酒をあおっていた。そもそも「コレクション」が何なのか、圭介は気になっていた。


 オーナーとして、ようやく初勝利を迎えた圭介は、ウィナーズサークルに呼ばれ、初の「口取り式」を行うことになる。

 小さな牧場ゆえに、ついてきたスタッフが相馬のみだったため、相馬が立ち会い人になる。

 口取り式、要はウィナーズサークルで行われる「記念撮影」であり、騎手の30代の男と、3人で撮影という、少し寂しい式にはなっていたが、これも記念となるだろう。


 その後、すぐに電話で、圭介が牧場に報告すると。

「美里。喜べ、ジョオウが勝ったぞ。さすがジョオウだ。子安ファームの女王にも劣らない」

「誰が女王よ!」


「誰もお前とは言ってない。自意識過剰なんじゃないのか?」

「なんかすっごくバカにされてる気がする。まあ、いいわ。とにかくおめでとう」

 一応、祝福はしてくれるのだった。


 長いトンネルを抜けて、ようやく子安ファームは1着を掴み取る。


 賞金は、それでも76万円程度だったが。

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