第30話 悲嘆
その後、夏競馬が終わり、ここ北海道には早くも秋風が吹きこむ季節になる。
いわゆる「残暑」という言葉自体が、ここにはない。
夏が終わると、一気に秋になるのだ。
早ければ10月には雪が降り始める北の大地。
そんな中、デビューした馬が一向に「1勝もできず」、ひたすらモヤモヤしながらも、残金の心配をし始めているオーナーの圭介。
つまり、このままだと「減る」一方だからだ。
一応、出走するだけで金は入るが、そもそも「出費」が多すぎて、割に合わないのだ。
1年前にデビューした、ミヤムラボウズ、ミヤムラジョオウ。今年、デビューした、ミヤムラシャチョウ、ミヤムラオジョウ。
いずれも、「1勝」すらしていなかった。
そして。
2002年9月14日(土) 札幌4
牡馬混合の未勝利戦。
このレースに、ミヤムラボウズが出走していた。
本来なら、見に行くことはないのだが、場所が札幌と近いため、またも圭介は行くことになる。
この日は、誰も連れてはいかず、一人で競馬場に向かって車を走らせた。
何気ない一日で、勝っても勝たなくてもあっさり終わるだろう、と思い込んでいた圭介。
ミヤムラボウズは、4枠4番で、3番人気。単勝7.5倍。スポーツ新聞の馬柱にも〇印がついていた。
(悪くはないんだが、ダートの、それも長距離か)
そこだけが彼には引っ掛かっていた。
つまり、ミヤムラボウズはこれまで、どちらかと言うと、芝中心の、それも短距離で戦ってきた。
勝ってはいなかったが、芝で好走するレースがいくつかあった。
しかし、ここに来て、いきなりダートの、それも長距離だ。
(大丈夫だろうか)
という思いがした。
札幌競馬場に着き、オーナー席に座る。
その日は、彼に「単勝 1000円」だけを賭けた圭介。相変わらずケチくさいと思いつつも、大きな金額を動かそうとはしなかった。
そして、パドックの様子を見に行く。
彼の目には、その馬はいつも通りに見えた。
歩様も怪しくはないし、目立った馬体重の増減もない。ガレてもいなかったし、トモも普通に見えた。
しかも、レースが始まると、ミヤムラボウズは先行し、前から数えた方が早い、11頭中、3番手という好位置をキープしていた。
札幌競馬場、ダート1700mは、コーナーを4つ回って、再度、ホームストレッチに戻り、短い直線で争いになる。
その3コーナーまでは順調だった。
しかし、
「あっと、ミヤムラボウズ、どうした!」
実況が叫ぶように放送の声が響き、圭介は目を見張った。
騎手が降り落とされていた。
その騎手の容態も気になるが、幸い彼は落ちた後にすぐに受け身を取っており、その後すぐに立ち上がったので、心配はない様子だったが。
しかし、馬の方がマズかった。
そのまま倒れ込むようにして、転倒し、動かなくなっていた。こうなると当然、この馬はレース中止扱いになる。
青ざめた表情のまま立ち上がった圭介は、医務室へと急ぐ。
通常、こうした場合、すぐに救助活動が行われ、競馬場にいる中央競馬所属の獣医が駆けつける。
だが、いくらオーナーとはいえ、馬の容態に関しては「門外漢」の彼が出来ることはほとんどない。
一応、医務室の傍まで行って、オーナーと名乗り、待たせてもらうことは出来たが、もちろん医務室に入ることは出来なかった。
悶々とした気持ちで待つ数分間が、1時間にも2時間にも思えるくらいに、長く感じた圭介が、次に医務室のドアが開かれ、白衣の獣医から告げられたのは、衝撃的な一言だった。
「非常に残念ですが、重篤な屈腱炎を発症し、安楽死となりました。申し訳ございません」
頭の中が真っ白になっていた。
怒るとか悲しむという感情も忘れ、彼は固まったように、しばらくその場に突っ立っていた。
「あの、大丈夫ですか?」
獣医に言われ、彼はかろうじて、
「は、はい」
とだけ告げて、そのままその場を後にするが、足取りは頼りなく、ふらふらと競馬場の関係者だけが入れる廊下を歩いていた。
携帯電話を手に取ると、そのまま牧場に電話をかけていた。
「もしもし、オーちゃん!」
出てきたのは、美里ではなく、真尋だった。
一瞬、間違ったかと思ったが、かけた先は、美里がよく使っている、牧場内の受付窓口のような家電だった。
「ボウズくん、どうだった?」
さすがに彼女も気づいていたらしい。あるいは、ラジオを聴いていたのか。電話越しから焦ったような声が聞こえてくる。
「……すまん、真尋」
「えっ」
「救ってやれなかった。安楽死だ」
「そ、そんな……」
そのまま真尋の声が嗚咽に変わる。
代わりに出てきたのは、怖い声をした美里だった。
「どういうこと? ちゃんと説明して」
圭介は懸命に説明をした。医師に言われた通りのことを。
獣医曰く。
「原因は過度の訓練によるものでしょう。元々体が丈夫ではなかったのに、無理に調教を施されていたような形跡があります」
「つまり、あの立木って、調教師がすべて悪いってこと?」
「一概にそうだ、とは言えないがな」
「許せないわ。ウチの大事な馬を預かっておきながら」
今にも殴り込みに行きそうな勢いの、美里を、しかし圭介は制していた。
「待て、美里。立木調教師もそれはわかってたはずだ。相手はプロだぞ。そもそも最初から獣医をつけなかった俺たちにも責任はある」
そう諭すと、さすがに彼女も納得はしたのか、
「まあ、そう言われると、私も責任を感じるけど。ただ、一応、立木調教師にも事情は聞いておいて」
と釘を刺されていた。
「わかった」
「いい、圭介? 私はともかく、マーちゃんには二度とこんな姿は見せないこと。それは約束して」
「ああ、わかった。努力する」
さすがに、圭介も申し訳なくなって、頷いていた。
一応、その後、すぐに立木調教師に話しを聞こうと思ったが、競馬場内では、関係者は基本的に通話が不可能なことを思い出し、その日のレースが終わるまで待つことにした。
夕方17時過ぎ。
電話は向こうからかかってきた。
「本当にすまねえ、オーナー」
立木調教師が、平謝りに素直に謝ってきたから、圭介は拍子抜けしたが、一応、理由は聞いてみた。
すると、
「ああ。もちろん、ミヤムラボウズの体が弱いことは知っていたさ。その上で、ギリギリのところを狙って調教して、体力の向上を狙ったんだが。俺の見立てと、あの馬の体力の限界に少しばかり差異があったようだ。本当にすまないことをしたと思っている」
最初に会った時は、まるで強気なヤクザのようにも思えた、立木調教師だったが、圭介は嘘は言っていない、とその誠実さは感じるのだった。
溜め息を突きながら、彼は電話口に諭すように話した。
「わかりました。ただ、こんなことは二度とごめんです。次に同じことが起こったら、あなたの厩舎に馬を預けません」
「ああ。厩舎一同、今回のことは深く反省している。その上で、もう一度、俺たちにチャンスをくれれば、今度こそ立派に活躍してみせることを約束する」
「わかりました」
この件は、これで手打ちとなった。
そもそも圭介も、立木調教師が不真面目な人で、「不用意で」こんな結果を招いたとは決して思ってはいなかった。
だが、馬を愛する真尋が涙に暮れている姿を想像すると、一言言っておきたい気持ちはあったのだ。
こうして、子安ファームに、初の「犠牲者」が出てしまう。
帰宅した、圭介が見たのは、食事も採らずに、自分の部屋に引きこもってしまった、真尋の姿だった。
余程ショックだったのだろう。
彼女はその後、3日間、休みを取って出勤しなかった。
4日後、目を赤く腫らしたまま復帰した彼女が言った一言が、圭介の心にも響く一言だった。
「私は、ここで育った馬が競走馬として活躍しても、しなくても別に構わないんだ。ただ、また元気にここに戻ってきてくれればそれでいい」
馬を心から愛する人間だけが、そう言えると思われるその一言が、圭介や他の従業員の心にも強い印象を残したのだった。
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