第5章 後悔先に立たず

第23話 獣医の先生と、予兆

 2001年、つまり2年目が終わった。


 結局、その後、ミヤムラボウズ、ミヤムラジョオウ共に、1勝もできず、共に0勝3敗。つまり、合わせてオーナーブリーダーとしては0勝6敗が年間成績。


 子安ファームの持ち金は、なんだかんだでどんどん減っていき、気が付けば約6000万円ほどになっていた。


 そして、平成14年(2002年)がやって来る。


「圭介。来週、獣医の先生と会ってもらうわ」

 秘書である、美里に圭介がそう言われたのは、年が明けてすぐのことだった。


「何で? 面倒だ」

 と圭介は、まるで形式のように否定していたが。


「何でも何もないでしょ。獣医の先生くらいつけておかないとダメ。そもそもこういうのはもっと早くにやるべきだった。遅いくらいよ」

「それは、秘書のお前が悪い」


「私も色々忙しかったの! 大体、あんたが全然、手伝ってくれないからじゃない」

 美里が機嫌を損ねそうな雰囲気だったので、仕方がなく、彼は約束の場所に向かうことにした。


 牧場から車で20分ほどと近い、三石町の本町にある、とある動物病院。


 そこが面接の場となった。


 しかも、約束を取り付けてくれた美里には、その日は用事があるからと言われ、一人でそこに向かった圭介が見たのは、意外な人物の姿だった。


 診察時間外の、日が落ちた夕方の病院の診察室。出迎えてくれたのは、圭介と同い年くらいの、非常に若い、しかも女性だった。

 肩までかかるセミロングの髪に、白衣をつけ、おっとりとした雰囲気を感じる、優しげな目元が特徴的な、綺麗な女性だった。


岩男いわお千代子ちよこです。宮村さんからお話は伺っています」

 丁寧に挨拶をしてくれた女性は、名刺を見ると、


(俺と同い年か)

 圭介と同い年の昭和52年(1977年)生まれの、今年、25歳になる若い女性医師だった。


 彼女の経歴を見ると、三石町の中学校から帯広おびひろ市の高校を卒業し、同じく帯広市にある帯広畜産大学獣医学部を経て、地元の三石町で動物病院を開業して、まだ2年。


 経験値で言えば、低いから、若干不安ではあった圭介だが、

「競走馬をれるなんて、とても名誉なことです。精一杯がんばります」

 彼女からは熱意だけは伝わってきた。


 それにそもそも帯広畜産大学は、偏差値が高い。そこを卒業しただけでも、彼女が優秀なのはわかった。


「では、定期的な往診ということで、よろしくお願いします」

「はい。わかりました」

 その後、簡単に契約を済ませる。


 そして、あっさりと決まって行くが、何故美里が、彼女を選んだのか、圭介には理由が少しだけわかった気がした。


 契約金が安いのだ。


 つまり、ベテランの獣医先生に依頼すると、恐らく依頼に対する報酬金額がもっと跳ね上がる。だから若手というより、新人に近い彼女に「白羽の矢」が立ったのだ。


 詳しく聞くと、彼女、岩男千代子と宮村美里は、中学時代の同級生だという。そのツテだった。


 圭介はなんだかんだで、美里に助けられていたのだった。


(まあ、経験値より熱意に期待するか)

 そう納得しつつ、圭介は、持参してきた写真を彼女に見せた。


 それは、すでに手元から離れているが、ミヤムラボウズ、ミヤムラジョオウ、そして現在、牧場に入っているミヤムラシャチョウ、ミヤムラオジョウ、サクラノキセツの写真だった。


 それらを眺めていた彼女が、眉をひそめるように、口を開いた。

「このミヤムラボウズ。この仔は、ちょっと危ないかもしれませんね」

「えっ」


 その一言に、驚く圭介に彼女は冷静に続けた。

「この仔、脚部に若干の不安があるように見えます」


 さすがはプロの獣医というべきか。見ただけでわかるらしい。


 詳しく聞くと、競走馬には脚部の不安がある馬が多いが、それを放置しておくと、いずれ屈腱炎くっけんえんと言う致命的な病気に陥り、競走馬生命を絶たれることが多いという。


 俗称で、競馬関係者の間ではエビとかエビハラと呼ばれることもある。これは馬の前肢に多く発症する。肢勢、打撲、走行中に大きな負荷がかかることなどにより屈腱に刺激が加わると炎症を起こし、エビの腹のように腫れるところからこの名があるという。

 治療には、物理療法、装蹄学的な処置が行なわれるが、完治しにくい病気であり、再発しやすい。


 実際に、過去に屈腱炎で引退したり、最悪のケースでは安楽死した馬もいる。競走馬にとって、厄介な病気でもある。


 彼は後悔した。

 そもそもミヤムラボウズは山寺から譲られたが、その時、彼が言っていた「体調面では問題ない」という発言が嘘であった可能性もある。何しろ50万円の破格の格安馬だ。


 考えてみれば真尋もミヤムラボウズは体が弱いと言っていたし、もっと早くこの獣医先生に診てもらうべきで、本来なら調教師に預ける前に、一度、ミヤムラボウズを診てもらった方が良かったのだ。


 気持ちが焦っていたこともあり、獣医を完全に後回しにしてしまった、ツケが回ってきたような気がして、表情が暗くなっていた。


 それを察したように、彼女は笑顔を浮かべる。

「まあ、調教師の先生に預けたのでしたら、中央にも獣医はいますし、さすがにわかるとは思いますよ」

「そうだといいですが」


 圭介は一抹の不安を感じる。


 こうして、若き獣医、岩男千代子が、子安ファームに往診に来ることになった。

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