第19話 入厩の行方
5月に種付けを終えた後。
いよいよ幼駒たちの「入厩」を考える時期になった。
そこで、以前、お願いして了承を取っていた、美浦所属の調教師、関一朗太に2頭の馬を預けることになるのだが。
ここで、大きな問題が起こった。
「えっ。1頭だけ、ですか?」
電話口に出た圭介は、一抹の不安を感じる。
「本当にすみません。実はこちらの手違いで、1頭だけ登録されており、今から変更できないそうで……」
と電話越しに関調教師は謝っていたが、この話自体が本当だという保証はなく、もしかしたら「より勝てそうな馬を優先した」のかもしれない。
つまり、「手違い」という嘘を言って、1頭だけハブいたのかもしれない。一瞬、圭介はそう邪推していた。
それくらい、実績のない彼ら子安ファームは軽く見られていたと思ったのだ。
ただし、関もさすがに悪いと思ったのだろう。
「お詫びに、栗東ですが、私の知り合いの調教師を紹介しますので」
と言ってくれた。
その栗東の調教師の名前は、
そして、どちらかを選ぶ段階になり、圭介は美里と相談するのだが。
「関さんに預けるのはミヤムラボウズの方がいいんじゃない?」
「どうして?」
「マーちゃんに言わせると、ミヤムラボウズの方が体が弱いらしいの。だからじっくり調教が必要だとか。その辺、ベテランで優しい性格の関さんなら心配いらないと思って」
と、彼女はミヤムラジョオウを関にと推してきたが、実は圭介の意見は逆だった。
「俺は逆に体が弱いミヤムラボウズの方を、鍛えるつもりで立木さんに預けて、ミヤムラジョオウの方を関さんに任せた方がいいと思う。真尋がジョオウはじっくり育てた方がいいと言っていたからな」
つまり、どちらの意見にもメリット、デメリットがあった。
どちらとも正しいとも言える。
そして、圭介は真尋に相談することなく、決めてしまうのだった。
ミヤムラボウズを、栗東の立木調教師に。
ミヤムラジョオウを、美浦の関調教師に。
この決断が、後々、大きく影響を及ぼすことになるが、それはまた別の話になる。
問題は、この「立木安信」という男だった。
一応、関から紹介されたとはいえ、挨拶も兼ねて、オーナーの圭介自らが関西に乗り込んだ。
前回は茨城県の美浦だったが、今回は滋賀県の栗東だ。
新千歳空港から
「やっぱりデカい」
初めて美浦に行った時と同じ感想だった。
栗東トレセンは、約150万平方メートル(甲子園球場約40個分)の広大な敷地の中に、6つのトラック型調教コース、全長約1キロメートルの坂路調教コース、競走馬スイミングプール、逍遥馬道など様々な調教施設を有している。
さらに、2000頭を超える競走馬が生活するための厩舎、競走馬診療所、調整ルーム、乗馬苑などの施設を備えている。
従業員数も、騎手が約70名、調教師が約100名、調教助手が約950名、厩務員が約250名と、美浦に引けを取らない。
そんな中、関西弁が飛び交う場内を歩いて、圭介は約束をしている、
圭介は
(関西弁って、苦手なんだよな)
と、内心、思っていた。
何しろ、北海道産まれ・育ちでずっと北海道に住んでいる彼にとって、関西人は馴染みがない。あの独特のノリが苦手だと思っていた。
しかし、今回、ここで会ったのは、悪い意味で、「関西人らしくない」男だった。
少し早く会議室のような部屋に入った圭介が待っていると、すぐにドアが開かれた。
最初から男には威圧感があった。
まずサングラスをかけているし、短く刈り上げたスポーツ刈の頭に、深い皺、そして無駄のないような動き。
男は、
「俺が立木だ」
と明らかに居丈高と言っていいような態度で、名刺を差し出してきた。
慌てて名刺を差し出す圭介だが、早くも不穏というか、「年下だからナメられている」という雰囲気すら感じていた。
(立木安信。1946年生まれ、55歳か)
その男は、圭介の父や母と同じくらいの年齢だった。
一応、礼儀と思ってサングラスを外してくれたが、そもそも顔が「怖かった」。相手を威圧するような雰囲気があった。
「あの、それで関さんから伺ってると思いますが、ミヤムラボウズのことですが、改めてお願いに伺いました」
圭介がそう告げると、立木は睨むような視線を圭介に無遠慮に向けたまま、
「問題ない」
とだけ言ってきた。
しかも、終始腕組みをしており、何か苛ついているのか、不機嫌そうに見える。
(機嫌悪いのか。それとも俺が若造だからナメてるのか)
どうも不穏な空気を感じ取る圭介。
しかも、立木はさらに不安を煽るようなことを続けて述べた。
「言っておくが、俺のところはスパルタだ。徹底的に鍛え上げる。それだけは覚悟しておけ」
圭介にとって、「馬を預ける」のに、まるで自分自身が、これから「スパルタ教育」にでも遭うような雰囲気だった。スパルタ自体が現在では死語となりつつあるが、この時代はまだまだそういうのが生きていた。
「わかりました」
とだけ言って、挨拶を終えて、圭介は会議室を後にする。
(大丈夫かな、ボウズ)
今さらながら、預けられるミヤムラボウズが不憫にすら思えてくるのだった。
少し臆病で、体が弱いところがあるミヤムラボウズ。
彼の運命が、決まった。
そして、ある意味、ミヤムラジョオウの運命も決まった。
デビューまでは残りわずかな期間だった。
一旦、北海道の自分の牧場に戻って、入厩の準備をする。
そして、いよいよ見送りとなったが。
「ボウズくん、ジョオウちゃん。今までありがとう……」
まるで馬にキスでもしそうな勢いで、真尋が2頭の鼻から頭まで交互に抱きしめていた。
しかもいつまで経っても、離れようとしないため、圭介と美里が促して、ようやく2頭を馬運車に乗せる。
「ボウズくん! ジョオウちゃん! がんばってねー!」
真尋が、牧場から去って行くミヤムラボウズ、ミヤムラジョオウの乗る馬運車をいつまでも見送っていた。
子安ファームには、繫殖牝馬のサクラノキセツだけが残され、仲間がいなくなった彼女もまた少しだけ寂しそうに見えた。
自家生産馬ではない2頭だが、こうして子安ファーム初の競走馬が入厩することになる。デビューは少し先になる。
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