第18話 初めての種付け
次の重要なイベントは5月にやって来た。
本州以南に比べて遅い春をようやく迎えた5月の北海道。やっと桜が咲き始める頃だ。雪深いこの地に春が訪れると、道民はテンションが上がる。
それはともかく、美里がいつものように、冷静に告げて来た。
「そろそろ種付けよ」
と。
種付け。
つまり、繁殖牝馬に種牡馬をあてがい、仔を産ませるわけだが、ブラッドスポーツである競馬において、最も重要な儀式の一つと言っていい。
結局のところ、「血統」が重要視されるからだ。
いかにいい種牡馬をあてがうか、そして交配させるか、が名馬が産まれるカギになるから、この時期、種付け料を巡って、馬主同士で争いになる。
現状、繫殖牝馬については、サクラノキセツしか所有していない彼らにとって、基本的には1頭を選ぶだけになるが。
そして、美里が情報として持ってきた、各種牡馬の「種付け料」を見て、圭介は驚愕する。
そこには、
―モンテスキュー 1500万円―
―クロムウェル 1000万円―
―フォースロード 1000万円―
などの文字が躍っていた。
「
今さらながら、その額に驚く圭介に、美里は冷静に答える。
「当たり前じゃない。みんなGⅠを勝った名馬なんだから。何ならもっと安い馬を選べばいいじゃない」
美里に言われ、野球好きな圭介はふと頭に思い浮かべていた。
(つまり、弱小球団がスカウトやドラフトで、いい選手を取れないみたいなものか)
と。
競馬でも野球でも、結局「金が物を言う」と思うと、少し寂しい気がした圭介だったが、しかしそれでも「良血」ではなくても、きっといい馬がいると信じないと、この職業はやっていけない、と思い直した。
そこで、安くて、かつそこそこ血統がいい馬を探すことになる。
父や母の血統はもちろん、その上の母の父の血統を重要視する。この際、たとえGⅠを勝っていなくても、血統の良さと将来性を重視する。
そこで彼の目についた馬が1頭いた。
「これだ」
彼が指を差した先にはいた種牡馬は、
「ホームスチール? なに、この野球みたいな名前の馬は」
美里が呆れるが、圭介は興奮気味に口を開く。
「見ろ、この金額。たったの200万円だぞ」
「つまり、安いからこの馬にしたと。何も考えてないの?」
呆れる彼女に、圭介は反論する。
「違う。ホームスチールはな。GⅠこそ勝ってないが、重賞に2回勝ってる。しかも血統についても
「なるほど。野球みたいな名前の割にそこそこ強いのね。っていうか、私は全然知らなかったわ」
美里は競馬に詳しいと圭介は勝手に思っていたが、実は彼女はそこまで過去の馬について詳しくはなかった。
数年前にホームスチールが重賞を勝ったことも、15年前の1986年にホームスチールの父、サンカンオウがGⅠの安田記念を勝ったことも、彼女は知らなかった。
もっとも、このサンカンオウは、名前の割には、三冠どころか、クラシックはどれも勝っていなかったが。
ともかく、種牡馬は決まった。
圭介は、美里に浦河の牧場にいるという、ホームスチールの所有主のオーナーに連絡を取り、種付け料を払って、種付けを行うことにする。
ところが、この「種付け」というのが、実は大変なのだった。
競走馬は、人工授精が許されていないため、すべて自然交配となるのだが、人の介在がないと種付けは難しいため、人にとっても危険を伴う作業になるからだ。
種付け自体は、基本的に種牡馬が繫殖牝馬にマウントし、つまり上に乗って交尾をすることになる。種付け、つまり交尾、人間で言えば性行為だが、馬の場合、物の1分もあれば終了する。
しかし、種牡馬によって、種付けの際の癖や姿勢・体格などいろいろあり、その都度調整する必要がある。
例えば体格が大きい繁殖牝馬については、種牡馬の足元に畳を敷いて、高さを調節したりする必要がある。
またマウントの際に、踏み込みすぎてしまった場合、種牡馬が後ろに倒れそうになるので、スタッフが腰を支えて、フィニッシュまで持って行く。
しかし、中には興奮しない牝馬もいて、その場合、「当て馬」と言って、わざわざ牝馬を性的に興奮させ発情させるだけの役割の馬も用意される。しかも、この当て馬はそれだけの役割だから、交配すらしない。これを人間に置き換えると、実はものすごくかわいそうな男に見える。
実際、オーナーである圭介、秘書である美里が立ち会い、牧場長である真尋が指示し、相馬と結城が支えて、何とか交配に成功。今回は、当て馬は必要なかったことが幸いした。
無事に、ホームスチールと、サクラノキセツの交配が終わってホッとする彼らだが、実は種付け後の受胎の成功率は70%と言われている。
つまりこれだけ苦労しても30%は無駄になる可能性がある。
種付けとは、「運」が絡む仕事なのだ。
何とか初めての種付けを終えた彼ら。
次の試練は、2頭の若駒のデビューだった。
ようやく彼らは競馬界に本格的に踏み込んで行く。
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