第17話 幼駒たちの調教

 展示会が終わった後くらいの頃。


 圭介は、普段は任せきりであまり足を運ばない厩舎に、早朝に出向き、厩務員である真尋に気になっていることを尋ねていた。

 理由はもちろん、やがて入厩にゅうきゅう、つまりトレセンの調教師の元に送られる2頭の幼駒の様子を見たいからだった。


「最近どうだ? ジョオウとボウズの様子は?」

 オーナーの圭介は、面倒臭がって、冠名の「ミヤムラ」を省いて、それぞれジョオウとボウズと読んでいたが、傍から見ると、これは滑稽な名前だ。

 そう思ったのか、彼女は薄っすらと笑みを浮かべていた。


「あれ、オーちゃん。珍しいね。しかも朝早いのに」

 早朝で、まだ他の厩務員が誰もいない厩舎に、ふらりと彼がやって来たことに、真尋は驚いていたが、すぐに答えを返す。


「2頭とも可愛いよ」

「可愛いかどうかは、どうでもいい。ちゃんと順調に調教してるのか? というか育ってるのか? ってことだ」


「えー。可愛いのは重要だよ、オーちゃん」

 と、彼女は不服そうだったが。


「まあ、まだ入厩前だからね。本格的な調教はトレセンに行ってからだよ」

「それはわかってるが」


「私が見たところだけど。ボウズくんは、ちょっと臆病なところがあるね。ゲート入りが苦戦するかも。あと芝の方が向いてるかな。逆にジョオウちゃんは、力強い走りで、ダートでいい走りをすると思うよ」

 真尋は、馬への「愛」が強いのか、常に幼駒たちを「くん」や「ちゃん」づけで呼ぶ。それだけ彼女は、馬が大好きなのだ。しかも圭介の予想通り、早くも的確に馬たちの特徴を把握していた。


 彼女はいつも誰よりも早く厩舎に入って、世話をしているらしい。実際、この日も一番早くに厩舎に来ていた。

 その真面目さは、いい加減な中年の相馬はもちろん、結城にも勝っていたから、圭介は普段、口には出さないが、彼女を信頼していた。


「そろそろトレセンに送りたいんだが」

 しかし、圭介がそう告げると、彼女は首を振った。


「まだ早いよ。そうだな、あと半年くらい見た方がいいかな。特にジョオウちゃんはじっくり育てた方がいいと思う」

 彼女の見立てはそのようだった。


「半年って、夏になるぞ」

「いいんじゃない、別に。競走馬って故障しやすいからね。特にボウズくんは体が弱いところがあるから、あまり急がない方がいいかな」

 この一言が、実はのちに重要となるのだが、もちろん圭介は気付いていなかった。


「結局、2頭とも時間がかかるのか」

「しょうがないよ。それに私は、この仔たちと離れたくないしね」


「お前の感情はこの際、どうでもいい。馬優先だ」

「えー。冷たいよー、オーちゃん」

 不服そうに、しかし笑顔のまま彼女は圭介を見る。


 その間、相馬も結城もいない。つまり、この状況を見計らって、圭介はこっそりとここに来ていた。


「真尋」

「なに、オーちゃん」


「お前を牧場長に任命する」

「えっ」


「だから、牧場長だ」

「何で、私? 私なんて、結城さんや相馬さんに比べて若いし、経験もないよ」

 驚き、目を丸くする彼女に、圭介は告げていた。


「お前が一番真面目で、一番がんばってるからさ」

「オーちゃん……」

 感動したように、目を潤ませて彼女は圭介を見つめてきた。


「ありがとう! がんばるよ、私」

「ああ。期待してる」

 圭介は、徐々にだが、確実に彼女に信頼を置いてきていたのだった。むしろこの逸材が手に入ったことが、「幸運」だったのかもしれない、とすら思っており、前から彼女を「リーダー」にすることを内心では決めていた。


 こうして、若干19歳の牧場長が誕生する。

 彼女は、相馬や結城より、立場が上になり、給料も上がった。年功序列を全く意識しない、実力主義を圭介は時代に先駆けて採り入れていた。


「何か必要なものはあるか?」

 その上で、彼はこの牧場で馬を最もよく知る彼女に質問に来たのだった。


「んー。そうだね。欲を言えばキリがないけど。せめてロンギ場くらいは欲しいかなあ」

「ロンギ場? って何だっけ?」


「もうオーちゃん。しっかりして」

 年下の真尋に怒られながら、彼は説明を聞く。


「丸い柵に囲まれた馬場だよ。馬に止まる、曲がるとかの基本動作を教え込むのに使うんだよ」

「ああ。それくらいならすぐ用意してやる」

 というより、本来はもっと早くに用意すべきなのだが、杜撰な圭介は忘れていたのだった。


「あとは?」

「あとは、そうだな。坂路はんろコースかな」


「トラックコースはあるだろ」

 トラックコース。つまり人間の陸上競技のような周回コースのことで、これ自体は、最初から牧場にあったから、利用していた。

 しかし、坂路コース、つまり「坂道」のコース自体は、ここには明確にはなかった。


「トラックコースは平坦な道を、ただ回るだけだからね。出来れば、坂道が欲しいな。競走馬として鍛えるには必要だし」

「わかった。何とかする。他には?」


「欲を言えば、獣医施設とか、温泉施設も欲しいけど。まあ今は財政難ってわかってるから、いいかな。いずれは欲しいけど」

「ああ。そのうち考える」

 これも後々、重要になってくる会話だったが、2人とも意識はしていない。


 こうして、圭介はすぐに、ロンギ場と坂路コースを用意。

 ついでに、トラックコースを改善し、牧草を一部入れ替えたりして、徐々に施設を充実させていった。


 彼らにとって、「勝負の時」が迫っていたが、その前に春に、重要なイベントがあった。

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