第15話 繫殖牝馬の行方

 2000年冬。


 幼駒たちの成長は著しく、2頭ともすくすくと育っていた。


 馬の成長は当然ながら人間より早く、一般的には人間に換算すると「数え年(実際の年齢+1歳)×4」が目安だという。


 つまり、1歳なら人間で言う8歳。2歳なら人間で言う12歳。3歳なら人間で言う16歳。

 言い換えると、クラシックなどに出場する馬は、人間で言えば高校生くらいで、インターハイや高校野球に出場する生徒のようなものだという。


 若駒たちは、大抵2歳の夏から冬にかけてデビューするが、人間で言えばまだ小学生高学年か中学生程度なのだ。


 そして、2頭の馬を見守る間、ある日の夕食で。


「繁殖牝馬が欲しい」

 圭介が口に出した一言がきっかけとなった。


「繫殖牝馬ねえ。またお金かかるじゃない」

 と、秘書の美里は乗り気ではなかったが。


「兄貴の言う通りです。競馬というのは、ブラッドスポーツなんです。いい血統を残すためにも必要ですし、自家生産してこそのオーナーブリーダーでしょう」

 相馬の言ったことは、まさに圭介が言いたいことを代弁していた。


 つまり、圭介としては、「自家生産馬で大きなレースを勝ちたい」と思うことこそが、オーナーブリーダーとしての「夢」であると、熱く語ったのだ。


「いいと思うけどさ。当てはあるの、オーちゃん?」

 相変わらずオーちゃんと呼ぶ真尋が突っ込んでくる。


「当てはない」

「じゃ、ダメじゃん」


 場の空気が暗くなったところで、手を挙げたのは、無口な結城だった。

「どうした、結城?」


 みんなの注目が結城に集まる中、彼はおもむろに口開いた。

「一応、当てならあります。亡くなった父の知り合いが、静内町でオーナーブリーダーをやってまして」

「よし、それだ!」

 思わぬところで、再び子安ファームに「幸運」が舞い込もうとしていた。


 早速、その週末の土曜日に、結城が約束を取り付けてくれた。


 場所は静内町(現在は合併して新ひだか町)であり、牧場の名前は「長沢牧場」。そこに長沢春子というオーナーがいるらしく、彼女が繁殖牝馬を用意して、融通してくれるという運びになった。


 喜び勇んで、圭介は助手席に美里を乗せて、車を走らせる。


 静内町は隣町だから、30分ほどで到着した。


 「長沢牧場」はなかなか広大で、約10haの子安ファームよりも大きく、15ha以上はあった。


 その広大な牧場の自宅兼事務所になっている場所に彼らは出向き、インターホンを押す。


 出てきたのは、圭介が驚くほど若い女性だった。


 年の頃は30代くらいか。20代にも見える艶のある髪と、綺麗なまつ毛、穏やかそうに見える目元、そして品の良さそうな清楚な白いセーターにジーンズ姿というラフな格好で出迎えてくれたのは、


「ようこそいらっしゃいました。長沢春子です」

 この牧場の主でもあり、オーナーブリーダーでもある長沢春子だった。


 リビングに案内され、いかにも値段が高そうな、ふかふかのソファーに腰かけると、彼女自らが紅茶を淹れて、出してきてくれた。


「ありがとうございます。しかし驚きました。こんな若くて綺麗な女性がオーナーブリーダーとは」

 隣に座る美里から、一瞬、ナイフのように鋭い視線が送られてきた気がしたが、圭介は無視していた。


「まあ、お上手ですね」

 言いながらも、長沢春子は軽く受け流しているようにも見える。


 名刺交換をすると、「長沢春子 1970年生まれ。 馬主」と書いてあった。圭介の予想通り、現在30歳くらいだろう。


「それで、繫殖牝馬の件ですが」

 早速本題に入る。


 彼女は、あらかじめ写真を用意してあり、カメラで撮影した小さなアルバムを出してきて、彼らの前に出した。

「こちらに写真が載っています。気になる馬がいれば、教えて下さい。馬房に案内しますので」


 そこには何頭かの牝馬の写真が映し出されており、ご丁寧に四代血統表まで書かれてあった。さらにその下に売り出し価格とも言える値段が記載されていた。

 血統的にものすごくいい馬もいれば、そうではない馬もいる。


 だが、注目すべきは、その「安さ」だった。

 何しろ過去にGⅠを勝った、名牝のような牝馬が、格安とも言える1000万円以下で売られていた。


 通常、セリなどに行くと、恐らく1億円はするだろうと思われる馬もいた。


「失礼ですが、どうしてこんな金額で?」

 金額を怪しんだのだろう。美里が声をかけると、長沢春子は微笑んだ。


「この金額は言わば、応援料だと思って下さい」

「応援料ですか?」


「ええ。私は嬉しいんですよ。あなたたちみたいに若いのに、がんばってるオーナーブリーダーが増えて」

 あの憎たらしい山寺久志とは真逆の人物であることに、圭介は感動をおぼえていた。


 つまり、彼女は、「共に戦う仲間」と認識して、彼らを応援するために、格安で繫殖牝馬を譲ってくれるというのだ。


 厳しい競争社会でもある競馬界では、珍しい「お人好し」だと圭介は思うのだが、それでも今の彼らにとっては、貴重な「助け」となるのは間違いない。


 そこで、圭介と美里二人でじっくりと写真を見て、決めることになった。


 過去の実績、血統、値段など様々な観点を総合的に見て、彼らが下した決断は一つ。


「では、このサクラノキセツでお願いします」

 その牝馬は、1993年生まれの7歳。血統的には、母の父にGⅠ馬がいた。それも世界のGⅠで勝ったという世界的な名馬だった。

 母父ははちち。競馬では「ブルードメアサイアー」とも言う。

 実は競馬においては、父系(父の父)より、母系(母の父)の方が重要視されると言われている。


 実際に、ブルードメアサイアーとして活躍した馬が過去にたくさんいて、母の父から見て、「孫」に当たる世代が、大活躍してGⅠを取って、祖父の血統の良さを証明したりする。


 つまり、圭介と美里はこの「ブルードメアサイアー」の血統を重要視したのだ。


 その上、このサクラノキセツの母父のさらに父には、世界的な大種牡馬がいたことも実は大きかった。


 価格は850万円。

 正直、今の彼らにはそれでも痛い金額で、幼駒2頭を足したより高い買い物となる。


 ただし、この繫殖牝馬の仔がいずれGⅠを取ってくれるかもしれない。

 オーナーブリーダーとしては、その可能性に「賭けた」のだ。


 こうして、彼らにとって、初の「繫殖牝馬」が引き取られた。


 長沢春子は最後に、

「がんばって下さいね。でも、私も負けませんからね」

 と言って、笑顔で見送ってくれるのだった。


 車の中で、尚も鼻の下を伸ばしている圭介が、

「いいなあ、長沢さん。素敵だ」

 と呟いているのを、


「あんた、ああいう女の人が好みなの? やめた方がいいわよ。あの手の女は、ああ見えて『腹黒い』から。大体、他のオーナーなんて所詮ライバルなのに応援料ってのが怪しい」

 と美里は鋭い目線を送っていた。


 それが彼女の嫉妬か、それとも長沢春子の本性を判断したか。それは圭介にはわからなかったが。


 こうして、子安ファームに初めて「繫殖牝馬」が導入されることになる。厩舎に3頭の馬が繋がれることになった。

 なお、このサクラノキセツは、7歳ということもあるが、落ち着いた、人に慣れた馬で、人間で言えば30代前半くらいだろう。


 毛並みの綺麗な青鹿毛あおかげが特徴的な牝馬だった。


 彼らが去った後。

 実は長沢春子は、秘書になっている若い男を呼び出していた。

「オーナー。何かご用でしょうか?」

 その若い男に対し、彼女は先程、圭介や美里に見せた、柔らかい笑顔とは打って変わって、厳しい表情を作り、こう告げたのだった。


「子安ファームだったっけ。しばらくは様子を見るけど、もし私の前に立ち塞がるようなら、容赦なく叩き潰しなさい」

「かしこまりました」

 彼らが、長沢春子と対戦するのは、もう少し先のことになる。

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