第13話 調教師の先生

 馬は揃った。あとはデビューさせるだけだ。


 2000年秋。

 しかし、そんな彼らに大きな問題が直面する。


「圭介。さっさと調教師の先生を選んで。来年には2頭ともにデビューよ」

 と、圭介が美里に言われていた。


「調教師? 当てがないぞ」

「まあ、どうせそう言うだろうと思ってたわ。ちょうどいい。私の父の知り合いの先生が美浦みほにいるから、あんた、ちょっと行ってお願いしてきて」


「なんで俺が? 美浦って、茨城県だろ? めんどくさい」

「いいから! 私は今、事務関係で忙しいんだから」

 どっちがオーナーかわからないまま、圭介は渋々ながらも、秘書や厩務員を残して、一人で美浦に向かうことになり、慌てて飛行機のチケットを入手した。


 競馬界では、「東の美浦」、「西の栗東りっとう」と呼ばれる、二大拠点があり、それぞれにトレーニングセンター(以下、トレセン)があった。

 つまり、中央競馬に所属する馬は、このどちらかに所属しなければならない。


 そのうち、美里の父の知り合いがいるのが、美浦だった。


 圭介は新千歳空港から羽田空港へ飛び、そこから電車とタクシーを乗り継いで、ようやく美浦トレセンに着いた。


「デカいなあ」

 美浦トレセン。茨城県美浦村。


 この巨大なトレセンは、約224万平方メートル(東京ドーム約48個分)の広大な敷地を有し、トラック型調教コース、1200メートルの坂路調教馬場、競走馬スイミングプール、森林馬道といったさまざまな調教施設が存在する。


  また、約100の厩舎で、約2000頭の競走馬が、レースへの出走へ向けて毎日トレーニングを行っている。


 従業員は、騎手が約70名、調教師が約100名、調教助手が約750名、厩務員が約460名、計1400名近い。


 もはや一つの「街」に近いくらいの規模の巨大な施設だった。


 そんな中、圭介は実際に競馬中継で見たことがあるような、名馬を間近で見れるという感動を味わいながらも、所在なさげに、広い敷地内を歩いた。


 約束は、14時。敷地内にある厚生会館本館で行われる。


 そこに10分前に到着した。


 指定された部屋で待つこと、5、6分。


「いやあ、お待たせして申し訳ない」

 ドアを開けて、入ってきた男は、親しみやすそうな笑顔を浮かべて、名刺を差し出してきた。

 一応、サラリーマンのようなスーツ姿に、名刺も用意していた圭介が名刺交換をする。


(関一朗太。1951年生まれか)

 もうすぐ50歳になる49歳の男。調教師にしては比較的若いとも言えるが、屈託のない笑顔が特徴的な短髪の男だった。


 早速、座って向かい合う。

「お忙しいところ、ありがとうございます。私、本年からオーナーブリーダーとして開業しました、子安圭介と申します」

「はい。宮村さんから伺っています。私は関一朗太。約25頭の馬を管理しています」

 という社交辞令的な挨拶から始まった。


 そんな中、先日落札したミヤムラジョオウや、同じく入手した、ミヤムラボウズの預託先を探しているという話をした。


 すると、関は、

「ウチとしては構いませんよ。預託料はいただくことになりますが、宮村さんにはお世話になりました。恩返しの意味合いもありますから」

 圭介には意外な答えが返ってきた。


 聞くと、彼、関は若い頃に、北海道の三石町で厩務員をしていた時、宮村美里の父の世話になったという。

 人間とはわからないもので、どこで「縁がつながっている」かわからないのだ。まして、競馬界も競走馬も、所詮、この「縁」に縛られる世界だ。


 内心、圭介は美里に感謝していた。

 彼女という「縁」がなかったら、こうして調教師を紹介してもらえなかっただろうから。


 しかもこの関という調教師は、この道が長いベテランで、それなりに所属の馬が勝っている。何頭かはGⅠレースにも勝っていた。

 その上、「先生」というには、気さくでフレンドリーな性格だったから、話しやすい相手でもあった。


「では、その際はよろしくお願いします」

「わかりました」

 いずれ来たるデビューの時には、預けることを約束して、圭介は関と別れ、美浦トレセンを後にする。


 数多くの騎手、調教師、厩務員などを目にするのは新鮮な体験で、北海道の牧場にいては、体験できないことだった。


 トレセンを出た彼は早速、携帯電話を手に取り、子安ファームに連絡する。彼自身が決めて引いた、牧場の固定電話だ。


「はい。子安ファームです」

 電話口に出たのは、予想通り美里だった。秘書として、大体の外部からの電話は彼女が出る。


「ああ、俺だ」

「圭介。どうしたの?」


「あのな。何とかなったよ」

「そう。それは良かった」

 電話越しに、安堵の声が聞こえてきた。


 圭介は、一瞬、言い淀んだが、意を決して口を開いた。

「美里。その、ありがとう」

「何よ、改まって」


「いや、お前がいなかったら調教師の先生に当てがなかったからな。お前、怖いだけじゃないんだな」

「なっ。怖いって何よ。あんたは一言多いのよ」

 明らかに怒気をはらんだ声が聞こえてきたが、それが本心からの怒りではないことに、圭介は経験として気づいていた。


「まあ、とりあえず今から帰るよ。土産は東京名物の『ヒヨコ』でいいか?」

「いや、いいけど、あんた美浦トレセンに行ったのに、何で『ヒヨコ』なのよ」


「だって、時間ないし、茨城県の土産なんてよく知らないし」

 不服そうな声を上げる圭介の耳に、美里の呆れたような声が響いてきた。

「わかったわかった。さっさと帰ってきて」

 こうしてようやく、調教師の先生が決まる。

 若駒のデビューは間近に迫っていた。

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