第2章 馬主始動

第4話 始動

 平成12年(2000年)1月。


 世は、前年7月の「ノストラダムスの大予言」が外れたことで、安堵し、ミレニアムという話題が出ていたが、同時に「2000年問題」が杞憂に終わって、多くの関係者が安堵した頃だった。


 そして、子安圭介は。

(耐えた! 人間、やれば出来るんだな)


 必死に金を使うことを抑制。美里に言われたように、カモフラージュのようにバイトをしていた。

 1億円もあるのに、バイトをするということ自体が、馬鹿馬鹿しくて泣きたくなるような日々を送っていた。

 彼は、1億円の高額をひたすら銀行に入れて、動かさなかった。


 ただし、それでも結局、100万円程度は使っていた。もっとも、車やバイク、旅行にもあまり興味がなかった彼の性格が幸いしていた。


 美里からは、

「どうせ100万円は、すすきのでお姉ちゃんがいる店にでも使ったんじゃないの?」

 と突っ込まれていたが、彼自身、そんなことすらしていなかった。


 使った100万円の内訳は、競馬関係の本、スーツなどの洋服、家財道具、そして車などだった。車自体にあまり興味はなかったが、ここ北海道では車がないと生活すらむずかしい問題があるため、教習所に通って免許を取ったのだ。


 友人には、車はもちろん「ローンを組んで買った」と嘘をついていた。


 親にもバレることはなかった。


 徹底して忍耐を繰り返し、その「来たる日」だけをひたすら待ちわびた3年は、彼には過酷だった。


 ただし、「口が堅い」美里だけに打ち明けたことが幸いし、彼女が他に広めなかったので、誰にもバレることはなかった。


 しかも大学1年生の冬に宝くじが当たってから3年。この2000年3月に彼は大学を卒業するのだ。


「就職はどうするの?」

 当然、親に聞かれていた。


 彼は嘘をついて誤魔化すしかなかった。

「美里の実家のツテで、日高の牧場関係に就職する」

 幸いなことに、彼の親は、競馬自体に興味がなかった。バレる可能性は低いと考えていた。


 しかも、美里の名前を出すと、両親は喜ぶ始末。両親は美里のことを一応知っていたから、勝手に将来の嫁候補だとでも思っているのかもしれない、と圭介は邪推した。


 2000年3月。一応、彼は大学を卒業し、卒業証書をもらってから、美里に報告をする。それは、彼女が「大学くらいは出ておいた方がいい」と言ったからだった。


 せっかく通わせてくれた親に対する義理という意味もあるのだろう。美里はなんだかんだで、真面目なところがあった。


 圭介は、美里と共に書類を中央競馬に提出。

 審査は滞りなく行われ、無事に通過。


 晴れて、彼は馬主になる。


 そこで、美里を呼び出した。

 札幌市の大通公園近くにある喫茶店で、二人は向き合う。

 相変わらず、宝塚の男役のような美里は、ハスキーボイスを発する。


「で、これからどうするの?」

 呼び出された理由なんて、彼女にはもちろんわかっている。


「せっかく馬主になれたんだ。お前のツテで三石町あたりに、牧場を持てないか?」

 言われた彼女は、すでに予測していたのか、微笑していた。


「まあ、そう言うと思ってね。すでにツテはついてるよ」

「マジか?」


「まあね。今度の土曜日、あんたの車で一緒に三石町に行きましょう」

 頷く圭介。


 土曜日。

 3月末とはいえ、ここ北海道はようやく雪が解けてきたものの、今度は雪解け水で道路がぐちゃぐちゃになり、路面状態が非常に悪い状態になる。


 そんな中、スタッドレスタイヤを履いて、愛車の中型車を圭介は走らせた。助手席に美里を乗せて。


 札幌市街地から日高支庁(※現在の日高振興局)の三石町までは、約150~160キロ。高速道路と下道を使っても2時間半程度はかかる。


 北海道はとてつもなく広いのだ。


 その道すがら、圭介は美里から様々なことを聞いた。


 彼女曰く。

「父の知り合いのオーナーブリーダーが資金難で廃業したから、そこの牧場がちょうど、丸ごと空いてるらしいの。廃棄するにもお金がかかるから、買い取って使っていいって」

 それが三石町にあるという。


「買い取りっていくらくらいだ?」

「さあ。でも、どうせ廃棄する予定だったから、そんなにかからないんじゃない?」


「お前はどうするんだ?」

「どうするって?」


「俺がオーナーブリーダーになるのなら、その牧場を買い取って、従業員を雇わないといけない。出来れば、事情に詳しいお前に、いてくれると助かるんだが……」

 言葉を濁す圭介に対し、美里は照れたように、窓の外に目をやって、


「仕方ないわね。あんたがどうしてもって言うなら、手伝ってあげなくもないわ」

 と呟いていた。


 ―ツンデレ― という言葉すらなかったこの時代、まさにツンデレを地で行く、時代を先行する美里がそこにいた。


「ぷっ」

 思わず笑う圭介に対し、美里は、


「笑うんじゃないわよ! 仕方ないでしょ、言い出しっぺだし、乗りかかった船なんだから!」

 逆ギレしていた。


 ちなみに「馬主」は単にサラブレッドを所有する権利を有する者、オーナーブリーダーは、それに「生産者」という側面も持つことになる。彼らが目指していたのは、単なる馬主ではなく、オーナーブリーダーだった。


 三石町歌笛うたふえ。三石町の中心部は、太平洋に面した海沿いにあり、この歌笛というのは内陸に入ったところにある。


 しかもかなりの田舎だ。


 この日高地方には、鵡川むかわ町、門別もんべつ町、日高町、新冠にいかっぷ町、静内町、三石町、浦河町、様似さまに町、えりも町、広尾町、大樹たいき町などなど、それこそ数えきれないくらいの牧場が点在しており、中央競馬界でGⅠレースや、日本ダービーを制覇した、歴史的な名馬を生産している牧場もあるが、いずれも交通の便がいいところに築かれている。


 その理由は、単純で、競馬関係者が内地(北海道以外)から訪れた時、行きやすいからだ。


 逆に言うと、内陸の僻地にあるような牧場は関係者から「敬遠された」という事情があった。


 つまり、廃業した馬主は、そう言った理由も加味されていた。もちろん、廃業の理由はそれだけではなく、業績面の不振がメインだったが。


 その三石町歌笛の牧場で待っていたのは、前オーナーブリーダー、つまり廃業したオーナーブリーダーの関係者だった。


 言わば「財務整理」を行うべく派遣された人間だった。


 50がらみの太った男は、その牧場を案内してくれた。


「広さは約10haヘクタールはありまして。しかも廃業して間もないので、厩舎、放牧地、飼料を貯蔵するサイロもありますし、冬季の暖房設備も生かせます」

 通常、軽種馬を生産している中央競馬法人馬主の場合、北海道の牧場であれば15ha以上(うち自己所有7.5ha以上)、それ以外であれば5ha以上(うち自己所有2.5ha以上)あるという条件を満たさなければならない。


 もっとも、彼らは「個人馬主」であり、会社のような「法人馬主」ではないため、条件を満たす必要はないが、それでも十分な広さを持っていた。


 ちなみに、サラブレッドの産地として、北海道の日高地方は最も生産数が多く、全国のサラブレッドの80%が日高産の馬と言われている。

 その理由は、 広大な土地が安く手に入れられたことと、北海道の中では、日高地方は比較的温暖で降水量が少なく、馬の食糧となる牧草が育てやすかったためと言われている。


 幸いだったのは、前オーナーが廃業して、まだ半年も経っていなかったことだ。


 これだけの施設を入手できるのなら、安い物だろう。

「それで、買い取り金額はどれくらいですか?」

 恐る恐る尋ねる圭介に、男は、告げた。


「500万円でどうでしょう」

「高いのか? 安いのか?」

 彼はすぐに美里に耳打ちをした。


「わからないわ」

 一瞬、眉をひそめる仕草をした彼女だったが、すぐに、


「いいんじゃないの?」

 ひそひそと圭介に告げていた。


 即断即決だった。

 迷っている時間すら惜しいと、彼らはこの牧場施設ごと買い取ることを決意する。


 男から出された「買い取り証書」にサインをして、施設は丸ごと手に入ることになった。


 こうして、準備は整うが。

 さらなる試練が待ち構えていた。


 彼らは後で知ったことだが、牧場施設が500万円というのは、通常ありえないくらいの破格の値段だった。そして、その「破格」の理由に後悔することになる。

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