第3話 オーナーブリーダーへの道
彼女の冷静かつ丁寧な説明が始まった。
少しハスキーボイス気味の彼女の声が喫茶店内に響く。ただし、事の重大さを考えて、周りに聞こえないように、声は抑えていた。
「調べたかぎり、馬主になるには条件があるの」
「何だ?」
「個人馬主は、今後も継続して得られる見込みのある所得金額が過去2か年ともに1800万円以上、所得資産が9000万円以上であること」
(※2013年からは所得金額が過去2か年ともに1700万円以上、所得資産が7500万円以上に緩和)
「つまり1億円なら範囲内ということか」
「そう。ただし、この所得金額は、収入金額ではないの。つまり、今から毎年これだけの金額を稼がなくてもいい」
「言い換えると3年も金を使うな、と言うことか。酷だな……」
「一応、1000万円は使えるじゃない」
とは言っていたが、1億円のうち、たったの1000万円では、「損」しかしないような気がして、圭介はすでに不機嫌そうに眼鏡の奥から、美里を睨むように見ていた。
それを察した賢い美里は、機先を制するように付け足した。
「ただし、これは中央競馬の個人馬主の条件。地方競馬なら直近の所得が500万円あれば馬主になれる。どうする?」
これだけ調べてくれたことに、圭介自身は彼女に内心、感謝していたが、それでも決断は、自身が思った以上に速かった。
「俺が競馬好きなの知ってるだろ?」
彼女は無言で頷いた。
実は平成17年(2005年)1月1日より法律が改正され、学生・生徒でも20歳以上であれば馬券を購入できるようになったが、この当時はまだ「学生・生徒でも20歳以上」は馬券が買えなかったし、もちろん20歳未満の圭介や美里は買えない。
買えないのが普通だったが、今より緩いところがあったため、実は馬券自体、未成年でも買うことは出来た。
圭介は、暇潰しと悪友の誘いに乗り、しばしば競馬で賭けていたし、札幌市内のすすきのには、場外馬券場があったし、毎年夏には札幌競馬場で札幌記念などが開催されていた。
彼としては、「地方競馬を否定するつもりはない」が、どうせなら「中央競馬の馬主になりたい」と思うのだった。
「じゃあ、大人しくあと3年待つことね」
答えを聞くまでもなく、美里は圭介の考えを読んで、先を呟いた。
それは、辛抱強くはない、圭介には酷な話であり、先に心が折れて、金を使うのではないかと思ったのだろう。
美里は機先を制するように言った。
「私が預かろうか?」
と。
さすがに圭介は首を振った。
「いくらお前でも、それはない」
「冗談よ」
さすがに美里は、その答えを予測していたのか、薄っすらと笑みを浮かべた。
「一応、当たったのはあんただからね。そんな大金を家族でもない私が管理するのは、おかしいでしょう。でも、これだけは言っておくわ」
「な、何だよ?」
一転して、厳しい表情になった美里を警戒するように、圭介は身構えた。
「あんたみたいに適当な奴が、適当に使って無駄遣いするより、馬主になった方が、まだ夢があるってこと」
「あのなあ」
反論しようと身構える彼に、彼女は不敵に微笑んだ。
「あんた。私の出身地、知ってるでしょ」
「ああ。
平成18年(2006年)。いわゆる「平成の大合併」により、静内町に吸収されるまで、北海道の日高地方には「三石町」という町があった。
美里は、そこの出身だった。中学卒業後、札幌に出てきたのだ。
「確かお前の親は……」
「まあ、競馬のようなサラブレッドとは直接は関係がない、観光用の牧場だけどね。それでも一応、馬は扱ってるし、関係者にコネもある」
仕方がない、と渋々ながらも、圭介は決意を固める。
競馬好きの人間にとって、「馬主になる」というのは、一種の壮大な夢で、普通は夢のまま一生を終える者が大半だ。
それが叶うかもしれないと思うと、競馬好きの圭介の血が騒ぐのは当然だった。
そして美里は、そんな圭介の性格を熟知している。
席を立った美里は別れ際に、
「良かったじゃない、宝くじで」
「えっ。何で?」
きょとんとする圭介に向かって、微笑みながら言ってのけた。
「非課税だからよ。もし、競馬の万馬券で同じ額が当たったら、税金で引かれるから、馬主なんて無理よ」
非常に現実的な事実を突きつけてきた。実際、非課税だから出来るのであって、競馬の場合、大半が税金で持っていかれるという悲しい現実があった。
こうして、圭介は、「馬主」になる決意を固め、難渋とも思える2年を過ごすことになるのだが。
「あ、それとね」
「まだあるのか?」
「悟られないように、バイトでもした方がいいわ。あと、1000万円も出来れば使わない方がいい。馬主って、何かとお金かかるからね。第一、急に羽振りが良くなったら、みんな怪しむからね」
「拷問か……」
3年もの間、1億円のお金が使えない。これは、実際、我慢強い人間にとっても、「拷問」に等しい物だ。
人間、大金を手に入れると、すぐ使いたくなるのが人情だ。
ちなみに「20歳未満」の者は、どのみち、馬主にはなれない。
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