♢10ー《悲劇》ー10♢


 ソフィー・ハートホードはアレクサンダーの娘だ。


 アレクサンダーの実の一人娘であり、宝石のように大切に育てられてきた。


 本人も大切にされていると思っていたし、父であるアレクサンダーが大好きだった。




 

 10年前までは。

「ソフィー」


 つい先程、誓いのキスによって夫になったばかりのマイクが来る。


「マリーは大丈夫かい?」


「大丈夫よ。もう、大泣きした時はどうしようかと思ったわ」


「はは。マリーは船に乗るのが初めてだからね。こんな小さなうちから船に乗るだなんて、将来は立派な船乗りかな?」


「何十年先の話をしてるのよ。今はそれより、元気に育って欲しいわ」


 誰よりも大切な私のマリー。


 この子は絶対に元気に育ててみせる。


 ソフィーはマリーの頬にキスをする。


 幸せが体から溢れ出そうだった。


「なぁ、ソフィー」


 マイクがどこか悲しそうな顔で語りかけてくる。


「やっぱり、アレクさんに――」


「嫌よ」


 明確な拒絶に、マイクは口をつぐんでしまう。


「ソフィー……」


「分かってる。分かってるわ。あの人は私を愛してくれていたし、育ててもくれた」


 でも、とソフィーは言葉を出す。


「それでも、あの人にマリーを触らせることはできない」


 ここまで言われては、マイクもなにも言えなくなってしまう。


「おぎゃあ! ぎゃあ!」


 二人の声で気持ちよさそうに寝ていたマリーが起てしまった。

 

「おっとっと」


 マイクは暴れるマリーを落とさないように抱き抱える。


「ごめんよマリー」









 ドンッ



 二人でマリーを宥めていると、船にとてつもない衝撃が走った。


「な、なに!?」


 驚いていると、船長が顔を真っ青にして出てくる。


「船が座礁した‼︎今すぐボートに乗れ!」


 その衝撃的な言葉に、二人の顔も青ざめる。


「直せないのか!?」


「無理だ! 船底にでけぇ穴が空いちまった! 穴が空いた食糧庫の扉は閉めたが、沈むのも時間の問題だ!」


 先程の穏やかな雰囲気とは一変し、殺伐とした雰囲気が流れる。


「お嬢様! 早くボートに!」


 船上にいた屋敷のメイドがそう急かしてくる。


「え、ええ。で、でもどこにあるの?」


 船上を見渡してもボートらしきものは一つもない。


「サイドデッキにもねぇぞ!」


「そ、そんな! どうすればいいの!?」


「ちくしょう! ドックのやつら、見栄えが悪いからってボートを外しやがったな!!」


 船長がどうしようもない怒りを船の柱にぶつける。


 騒然としていた船上が静まり返り、誰もが絶望的な顔をしている。


「皆んな、くよくよしていても仕方ないわよ」


 そんな中、声を上げる女性がいた。


 その女性はアレクサンダーの妻――アンナだった。


「良い? できるだけ身を軽くするの。ドレスは全部脱いで、下着だけになりなさい」


 その言葉に、辺りにいた女性達が戸惑った顔をする。


 しかし、そんな中でもアンナは忽然とした態度でいた。


「生きたい者は必死になりなさい! ソフィー、あなたは部屋からマリーの哺乳瓶を持ってきなさい。何時間漂流するか分からないから、今のうちにマリーにミルクをあげてちょうだい」


 幸い、ここは海だがイギリス本島から近い。


 船が通ることもあるし、生存が絶望的というほどではなかった。


「わ、分かったわ」


 ソフィーはマリーを抱えてマイクとともに自室に向かって走る。


 母はもともと強い人だったが、このような状況になっても忽然として皆んなに支持を出す姿は本当に頼もしかった。


 私もお母さんみたいにならなくちゃ……


 そう思いながら、マイクとともに哺乳瓶が置いてある自室に向かう。


 マイクが自室のドアを開ける。


 哺乳瓶は机の上にあった。


「あったわ! それじゃあマリーに――」








 ドォォォォン!!!!







 強烈な音が、三人の鼓膜を強く刺激する。


 その音に酷く驚いたのか、マリーが泣き叫ぶ。


「な、なんだ!?」


 マイクがすぐさま甲板にでようとするが、すこしドアを開けたところで何かにつっかえる。


「くそッ」


 ドアを無理やり開けようとするが、ガツッガツッと突っかかって、開く気配がない。


 どうにもできないと悟ったマイクは何が起こったのかを知るため、少しだけ開いた隙間から外の様子を見る。


「………!」


 マイクが外を覗くと、目を見開いて固まってしまった。


 ソフィーは何かあったのかと、同じようにドアの隙間から外の様子をみる。




 そこは地獄だった。


 火薬でも爆発したのか、先程アンナがいた場所――甲板の中央には大きな穴が空いており、そこら中に人の肉片が散らばっている。


 炎が飛び散り、今にも燃え広がりそうだ。


 甲板にいた人は皆かなりの怪我を負っており、もう動かなくなっている人が何人もいた。


「――お母さん?」


 ソフィーは床に散らばっている、アンナのものだと思われる肉片に目を向ける。

「なんでこの船に爆発物が乗っているんだ……!!」


 マイクが声を押し殺して言う。


「お、お母さん!」


 外に行こうとするが、ドアがこれ以上開かない。


「なんで!」


 そう叫ぶと、ドアの前に船の瓦礫が落ちてきた。


「危ない!!」


 マイクがソフィーをドアから下がらせる。


 ソフィーとマリーは助かったものの、ドアは完全に塞がれてしまった。

「嘘だろ……」


 どうしようもない絶望が二人を襲う。


 泣き叫ぶマリー。


 そんなマリーを抱きしめながら、ソフィー達はこのどうにもできない状況を呆然と悲観するのだった。









 ♢♢♢








「船が出航してから約9時間。進路から考えて、恐らくここらにいると思います」


 船の先頭に立つアレクサンダーにヘンリーはそう言う。


 アレクサンダーは海を眺めながら、懸命にマリー号を探していた。


「ヘンリー、今は何色だ」


 ソフィー達の危機度を聞いているのだろう。


 ヘンリーは顔を顰める。


「……もはや手遅れかと……」


 その言葉に、アレクサンダーはがくりと膝をつく。


「旦那様ッ!」


 ヘンリーは慌ててアレクサンダーを支える。


「なぜこんなことに……」


 何が悪かったんだ。


 3日前から船の点検は完璧にした。


 万が一に備えて優秀な船員を用意した。


 それなのに、どうして……


「旦那様……」


 もはやなにもする気にならなかった。


 自分も行くのだったと、遅すぎる後悔を残しながら。

「お頭! 十時の方向に船です‼︎」


 それを聞いてすぐさま立ち上がる。


 目を向けた先には、火の手が上がるマリー号が見えた。

 

「船を近づけてボートを出せ!! 生きている者は救出するぞ!」


 船員が慌ただしく船を走り回る。


「きっと……きっと大丈夫です」


 

 自分なのか、アレクサンダーなのかは分からないが、ヘンリーは言い聞かせるようにそうつぶやいた。







 ♢♢♢







「もっと近づけろ!」


 船を近づけ、ボートを下ろす。


「頼む……生きていてくれ」


 4人乗りのボートだが、生存者を乗せるために2人分のスペースを開ける。


「行きましょう」


 ヘンリーとアレクサンダーは一足先にボートに乗り、船員達は続々とボートを下ろしていく。

「はぁ、はぁ」


 全力でボートを漕いでいく。


 マリー号は半分ほど沈んでおり、もはや時間がなかった。


「旦那様!」


「行くぞ!!」


 船の側面にまで辿り着き、ヘンリーの肩に乗って甲板に上がる。

「これはッ……」


 むせ返るような血と肉の焦げた匂い。


 あたり一面に血肉が飛び散っており、甲板の中央には大きな穴が空いていた。


「爆発……?」


 爆発するような物は持ち込んでいない。


 そもそもなぜ火の手が上がっているのか。


 様々な要因が頭に浮かぶが、そのどれもが当てはまらない。


 すると、床に散らばった血肉の中からなにやらキラリと光る物が目に入った。


「これは……」


 それは、アレクサンダーがアンナに送った結婚指輪だった。


「アンナ……」


 消えいるような声でそう呟く。


 この肉片はアンナなのだろう。


 愛する妻の変り果てた姿に、思わず涙が一筋流れる。


 だが、悲しんでいる暇はない。


 1人でも生きている者を……ソフィーとマリーを探さなければ。


「だれか……だれかいないのか!?」


 甲板にいる者はもう冷たくなっている。



 炎に包まれている者もいれば、まるで眠ったかのように死んでいる者もいた。

 煙が船を包み込んでおり、このままではアレクサンダーも危ない。



 カリッ


 後ろから、微かにだが何かを引っ掻くような音がした。


「誰かいるのか!?」


 振り向くと、そこには瓦礫で閉ざされた扉があった。


 わずかにだが、声が聞こえる、


「待っていろ!」


 急いで向かい、瓦礫をどかそうとする。


 しかし、その瓦礫は想像以上に重く、まるでてこのように動かなかった。


「くそッ!!」


 瓦礫をどかせないのなら、せめて人一人通れるような隙間を作ろうとする。


 ギギ……バキバキ


 扉がバキバキと音を立てて少しだけ開く。


 しかし開いたと言っても本当にわずかで、とても人が通れるような隙間ではなかった。


 なんとかならないのか!?


 力任せに扉を開けようとするが、これ以上はまるで開く気配がない。


 いや、ここはヘンリーと一緒じゃなきゃだめだ。


 一人では絶対に開けられないと感じたアレクサンダーは、船を登るのに苦慮しているであろうヘンリーを連れて行こうと振り返る。

「お父さん……」 


 かすかにだったが、扉の向こうから声が聞こえた。


 その声は、ソフィーの声だった。


「ソフィー! そこにいるのか!?」


 返事は聞こえてこない。


 しかし絶対にそこにいると確信したアレクサンダーは、扉へ駆け寄り僅かな隙間から向こうの様子を見る。


 そこにはマリーを抱きかかえてうつ伏せになっているソフィーがいた。


「大丈夫か!?」


 大丈夫な訳がないが、とにかく聞かずにはいられなかった。


 ソフィーがコホッと咳をする。


「煙で、もうだめかも……」


 かすれた声で、ソフィーが言う。


 マリーはまるで悪夢でも見ているかのように目をつむっている。


 マリーの命に別状はなさそうだが、それも時間の問題だろう。今はとにかく、ソフィーが危険だった。


「ヘンリー! 急いできてくれヘンリー!!」


 一刻も早く助け出すため、ヘンリーを呼ぶ。


「大丈夫だソフィー、今助けるぞ」


 ソフィーは虚ろな目でこちらを向くと、這いつくばりながらアレクサンダーの方によってくる。


「ごめんなさいお父さん……」


「なにを謝ることが――」


「マリーのこと、お願いね」


 そう言い、ソフィーはマリーをアレクサンダーに渡す。


 ドアの開いた隙間は非常に小さいが、マリー程度の大きさだったらまだ通れた。


「何を言う。マリーはお前が育てるんだろう。それに、マイクはどうした」


 ソフィーとマリーはいたが、マイクの姿は見えなかった。


「マイクは……下で燃え上がった火を消そうとして……」


 そこから先は語らなかったが、アレクサンダーには理解できた。


 マイクは、私の言った通り二人を守ったのだ。


 下から煙が出ていないことからおそらく火は消せたのだろう。


 しかし消せたとしても、それまでに大量に煙を吸い込んでいたともなれば命は危うい。


 消すために火の間近にいたのならば、生存は絶望的だろう。


「ごめんなさい。この前は、あんなことを言って……」


 ソフィーが消え入るような声でそう謝る。


 普段は気の強い娘がこうして謝ることはないが、この惨状に精神が参っているのだろう。


「お前らしくもない……それに、お前が言ったことは事実だ。私にはマリーを育てる資格が――」


「私のことは……育ててくれたでしょ…?」


 ソフィーはくすっと笑う。


 娘を一人育てているのだから、孫娘を育てる権利がないというのは通用しないとでもいいたいのだろう。


 全く、こういうところはアンナに似おって……

 


 ゴットン!!!


 船が大きく揺れる。


 もうすぐ沈もうとしているのだろう。


 もう時間がないというのに、ヘンリーはまだ来なかった。


「お父さん、十秒だけでいいから、手を握っててくれない……?」


 まるで最後の別れだとでも言わんばかりに頼んでくる。


「ああ…!何度だって、何度だって握ってやる」


 マリーを抱えたまま、右手で強く手を握る。


 ソフィーの手は信じられないほど冷たく、今にも崩れてしまいそうだった。


「ふふ、懐かしいな……」


 ソフィーがまだ小さい頃はこうして手を握っていたものだと、アレクサンダーは感慨深く思った。

「お父さん」


 ソフィーがこちらを見る。


「ありがとう」


 寒さと吸い込んだ煙でつらいはずなのに、まるで花畑の中にでもいるような笑顔をした。


 ソフィーの顔がガックリと下がる。


「ソフィー?」


 返事は来ない。


 握っていた手も、力が入っていなかった。


 きっと、眠ったのだろう。


 ソフィーはずっとマリーのお世話もしていたし、疲れも溜まっていたのだろう。


 帰ったら、ねぎらってやらないと……


 そう思いながら、アレクサンダーはとあることを思い出す。


「そうだ、まだソフィーには言っていなかったな」


 今言ってもおそらく聞こえないだろうが、時間がある内に言っておこう。


「結婚、おめでとうソフィー」


 アレクサンダーはもう二度と目覚めないであろうソフィーに言った。


 笑顔で言っているのに、その頬には涙が流れていた。


「旦那様!!」


 ようやく船に登れたのか、ヘンリーが駆け寄ってくる。


「ああ、ちょうどよかったヘンリー。向こうにソフィーがいるんだ。この瓦礫をどかして、助けてやらなければ」


 そう言って、マリーを抱えてふらりと立ち上がる。


 ヘンリーは驚いた表情ですぐさま扉の向こうを見ると、今にも泣きそうな表情になった。


「旦那様……」


「さあ、早く」


 マリーを右腕に抱えながら瓦礫をどかそうとする。


「もう、船に戻りましょう」


 ヘンリーは悲痛な顔でそう言った。


「まだソフィーがいるだろう!!!」


 思わず激昂してしまう。


 しかし、これに関してはヘンリーが悪い。

 

 まだソフィーが、娘がいるというのに船に戻るということは、自分の娘を見殺しにすることと同意義だ。


 そんなこと、許されるはずがない。


「旦那様ッ! もうソフィー様は――」


 その時、船が大きく揺れた。


 ミキミキと船のあちこちで音がなり、どんどん傾いている。


「くッ、早く瓦礫を――」


「アレクサンダー!!」


 ヘンリーがアレクサンダーのことを名前で呼んだ。


 二人は子供の頃から一緒だったが、これは初めてのことだった。


 その衝撃で、アレクサンダーは我に返る。


「行きましょう……」


 アレクサンダーからマリーを取り上げ、下に置いておいたボートに飛び乗る。


 そこには生存者を救助しようとしていた従業員たちがいた。


 恐らく、巨大なマリー号の上に登れず苦慮していたのだろう。


「ヘンリー様、それはッ」


「マリー様だ。今すぐ船に乗せ、医師に見せてくれ」


「他の人達は!?」


「生存者はマリー様だけだ。この船はもうじき沈む。今すぐにでも離れろ」


 その言葉に、従業員たちは酷くざわつく。


 泣き出し顔を覆う者もいれば、涙を堪え船から離れる準備をしていた者もいた。





 数分が経ち、従業員の乗ったボートたちは船に戻っていっていた。


 ヘンリーはアレクサンダーが戻ってくるのを待つ。


 マリー号は徐々に沈んでいっており、もう時間がなかった。


「旦那様!!」


 そう叫ぶと同時に、アレクサンダーがボートに飛び乗ってきた。


「行け……」


 今にも死んでしまいそうな顔でそういう。

 ヘンリーは口をつぐみ、沈みゆくマリー号を見ながらボートを漕いだ。



ーーーーーー


 え? 一話一話が長いって?


 こうでもしなきゃ、この「イギリス」の章が終わるまでに、割と真面目に100話はかかります。


 この章だってまだ序盤の序盤ですらないのに、そんなんで話数をかけていたら後々苦労します。


 今の所、この小説がつまらないと思っている方。せめて、この章が終わるまで見ていてほしい………ッ!


 それでつまらないと感じたら切り捨ててしまって結構です。


 私は恐らくこれ以上の作品を生み出せません。なぜならこれは、『代表作』ですから。

( ͡° ͜ʖ ͡°)

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