♢9ー《不穏》ー9♢
「本当に行かないのね…」
悲しそうな顔でアレクサンダーの妻、アンナが言う。
「あぁ。楽しんできてくれ」
アレクサンダーはそう言った後、アンナの後――マリー号の上を見る。
豪華な飾り付きの船の上から、赤ん坊を抱えた女性がこちらを見下ろしていた。
「では、お気をつけて」
ヘンリーは一礼をする。アンナは名残惜しそうにアレクサンダー達を見ながら、船に乗るのだった。
♢♢♢
「では、行きましょうか」
船が見えなくなってきたころ、ヘンリーが言った。
「結局どこへいくんだ」
今だにアレクサンダーはどこへ行くのか分かっていなかった。
「もう予約はとってありますよ」
そう言いヘンリーは足下に置いてあった袋を持って歩き始める。
特に会話もしないまま、ただ二人の足音だけが響いた。
「こちらです」
「……は?」
ヘンリーが指し示したのは、小さなボートだった。
「さぁ、行きましょうか」
ボートに乗ったヘンリーは、勝手に流れないようくくりつけてあった縄を外す。
「いや、だからどこへ行くんだ」
ディナーをするつもりだったアレクサンダーは困惑する。
川の向こう岸に行くつもりなのだろうか?
「どうぞ、旦那様のぶんです」
アレクサンダーを無視して、ヘンリーは釣竿を渡してきた。
「……」
アレクサンダーが自分の手で握っている釣竿を眺めていると、ヘンリーがボートを漕ぎ出す。
「早く行かないと、旦那様の分が無くなってしまいますよ。今日は屋敷に誰もいませんからね」
今日はもともと結婚式の予定なので、屋敷の者は皆船に乗っていっているか休みを取らせている。
アレクサンダーが一人で帰ったところで、食べるものは何もないだろう。
ヘンリーはそう言いながらもボートを漕ぎ続ける。
もう10メートルほど距離があり、乗せるつもりがあるのか怪しくなってくる。
「はぁ……全く」
アレクサンダーはため息ををつきながらも顔が綻んでいた。
そして少しだけ後ろに下がり、思いっきり助走をつける。
自身の最高速度に達した時、足に力を入れて高く飛び上がった。
しかし、そうしている間にもボートは離れていく。
あと少しというところだが、届きそうにない。
そう思われた時、アレクサンダーが空中で身を捩った。
倒れ込むようにして、なんとかボートに乗る。
「お見事です」
まるで当然のことだといわんばかりに、ヘンリーは称賛した。
「もう昔みたいにはいかないんだ。悪ふざけもほどほどにしてくれ」
釣竿をボートの端に置き、ぐったりと仰向けになる。
「はっはっはッ! 何を言ったかと思えば……。昔の旦那様にあの距離は飛び越えられませんでしたよ。心なしか、若き日の頃よりも強くなられている気がします」
……そんなわけがないだろう。
私はもう57歳。いつ死んでもおかしくはないような歳だ。
この時のイギリスの平均寿命は約50歳。70年も生きれば大往生といった感じだった。
アレクサンダーは気だるそうに帽子を顔に乗せると、手を組んだ。
「……少し寝る。着いたら起こしてくれ」
「かしこまりました」
昨日は思うように寝れなかった上、今朝は見送るために早起きだったアレクサンダーは、波に揺れるボートが心地良いと感じながら眠りについた。
♢♢♢
「――さま、旦那様」
ヘンリーの声により、目が覚める。
「着きましたよ」
体を起こし、辺りを見渡す。
――そこは地平線まで広がる海だった。
いや、海ではない。
左右には微かにだが港が見える。
恐らくまだテムズ川の最中だろう。
エミリーが見た茶色く濁っていたこの川は、今はまだ透き通るほどに綺麗だった。
「……」
太陽が二人を照らす。今は昼ぐらいだろうか。
「ほいっと」
ヘンリーが釣竿に餌をつけて川に投げ込んだ。
「餌はこちらですよ」
そう言ってアレクサンダーにも餌の入った袋を差し出す。
「……私達で取るのか?」
釣竿を差し出された時点でなんとなくは察していたが、改めて見るとやはりおかしく思えてしまう。
「なにを仰いますか。昔はよく二人でパンを盗んでいたでしょう。食べ物ぐらい、自分達で取らなければ」
それとこれは違う気がするが……
そう口には出さず、黙々と餌を釣り針に付け、川に投げ込む。
風が二人の間を通った後、アレクサンダーが口を開いた。
「ヘンリー」
「はい、なんでしょう」
「お前の息子は元気か?」
「はい。今年には孫が生まれる予定です」
ヘンリーには25になる息子がいる。
その息子も3年前に結婚し、今年には孫が生まれるのだ。
主人に仕える立場のヘンリーからすれば、これで心置きなく仕えられると安堵していた。
「お前の息子は、孫に触らせてくれるのか?」
アレクサンダーは2ヶ月前に起きたことをまだ気にしていた。
「私も最初の頃は息子に拒絶されていましたよ。しかし、義理の娘にこっぴどく叱られてからは、酒を一緒に飲むような仲になりました」
「そうか……私もそうなりたいものだ」
「なれますよ。血が繋がっている限り、その絆が途絶えることはありませんから」
二人はもう何十年と一緒に生きてきた。
共に過ごし、共に苦楽を味わってきた仲だ。
お互いのことは全て知っているつもりだ。
もの思いにふけながら、針に引っかからない魚を待ち続けた。
♢♢♢
「ヘンリー」
「はい、なんでしょう」
「もう日が暮れたぞ」
「おや、いつの間に。ですがご安心を。ランプを持ってきております」
ヘンリーはマッチに火をつけ、ランプを灯した。
「もう今からでもレストランに行かないか?」
もはや針に引っかかる気がしない。
朝から何も食べていないので、腹が減ってしょうがなかった。
「これは異なことを。ここは天然のレストランでしょう。おまけに、食事代もタダだ」
「いやボートに釣竿、それに餌代なんかも含めると、そこら辺のレストランの方が――」
「Good things come to those who wait《待っている人の下に幸運は訪れる》」
「私が好きなことわざです」
「……そうか」
再び静寂が訪れる。
耳を通り抜ける風の音が心地よい。
すると、ヘンリーの釣竿が動いた。
「おッ!?」
どこまでも続く海を眺めていたヘンリーは、不意を突かれて慌ててしまう。
「どっせい!」
しかし、持ち前の力で無理やり引っ張り上げると、一匹の小魚が釣れた。
「これは……ヨーロピアンパーチですね」
これだけやって小魚一匹しか釣れないのかと、二人は肩を落とす。
「まぁ、この川の魚は絶滅したのかとでも思ってきた頃ですから、ここで確認できて良かったですね」
ヘンリーはコクコクと頷く。
「ポジティブに考えているところ悪いが、いつまでこんな無謀なことを続けるんだ?」
「一匹釣れたのです。無謀なんてことはありませんよ。……しかし、そうですね。これを食べたら戻りましょうか」
そう言ってヘンリーは袋からまな板や包丁、お皿など、調理に必要な物を取り出していく。
「極東の国では、魚は生で食べるらしいですよ」
ボートにまな板を置き、流麗な包丁捌きで魚を一瞬にして身と内臓に分ける。
「どうぞ、旦那様のぶんです」
身を二つに分けて差し出すが、手のひらサイズぐらいしかなかった魚を身だけにしてさらに小さくし、そこからさらに半分にした身はもはや中くらいの皿が大きく見えるほどだった。
正直足りるとは到底思えないが、文句を言うわけにもいかないので黙々と食べようとする。
「旦那様、お祈りはしましたか?」
刺身をフォークで刺した時、ヘンリーが口を出してきた。
「……別にいいだろう。祈ったところで満腹になるわけでもない」
「いいえ。こうやって食べ物を食べられるのは神様のおかげなのです。いつも感謝をしておかないと、いつか食べられなくなってしまいますよ」
「この魚を釣ったのはヘンリーなのだから、感謝するのはヘンリーになんじゃないのか?」
面倒くさい屁理屈を言うアレクサンダーに、ヘンリーはジト目になる。
「分かった分かった。祈ればいいんだろう」
ヘンリーは満足そうな顔で頷いた。
私と一緒で孤児だったのに、変なやつだ。
「「日々の糧に感謝いたします。アーメン」」
そう言って一口で刺身を食べる。
やはり、朝から何も入っていない胃袋にとっては少なかった。
「では戻りましょうか」
ヘンリーも刺身を一口で食べた後、ボートを漕ぎ出した。
♢♢♢
「旦那様」
ヘンリーが喋りかけてくる。
「気は晴れましたか?」
そう言われて、アレクサンダーは吹きそうになる。
「くくっ」
堪えきれず、少しだけ吹き出したアレクサンダーをヘンリーは懐疑的な目で見た。
「なにかおかしいことでも?」
「もしかして、これは慰めてくれていたのか?」
これというのはボートでのディナーのことだ。
「それ以外になにかあるとでも? 旦那様は人の心が分からないのですかね」
笑ったことが気に障ったのか、ヘンリーはため息をつく。
「ふふ、すまない。しかしまぁ、ありがとう」
正直もっと違うやり方はあったと思うが、おかげでだいぶ気分は晴れた。
「ええ、どういたしまして」
ヘンリーは少しだけ川の向こうを眺めた後、アレクサンダーを見据える。
「旦那様」
意を決っしたような顔で見つめてくる。
「一度、ソフィー様と話してみましょう」
「ッ!」
それはアレクサンダーにとってかなり難しいことだった。
ソフィーとの仲は極限まで悪く、今では顔を合わせるのも躊躇ってしまうほどだ。
「話さなければ、なにも解決しません。それともこのまま一生、口をきかないでいるつもりですか?」
そういう訳にはいかない。
分かってはいる。分かってはいるが、行動に移せない。
「……私は旦那様に魚を分けてあげましたよね」
……脅しのつもりだろうか?しかし、そんなことで――
「旦那様が銃で撃たれた時は、看病もしてあげました」
「………」
「私に借りがあると思うのならここで返してください」
借りを返せと言われても、これではヘンリーに利がない。
これでいいのかと聞こうとも思ったが、ヘンリーの目を見たら何も言えなくなった。
「……分かった」
ヘンリーは満足そうな笑顔で頷く。
本当にいい友を持ったと、アレクサンダーは思った。
「しかし、恐らくこれでは返しきれませんよね。なので、ここからは旦那様が漕いでください。疲れてしまいました」
そう言ってヘンリーはオールをアレクサンダーに持たせる。
「あと30分ほどでしょう。着いたら起こしてください」
そう言うだけ言って、仰向けに寝てしまった。
「……本当に自由な奴だな」
しかし、悪い気はしなかった。
むしろ感謝しながら、アレクサンダーは2時間ほどボートを漕ぎ続けた。
♢♢♢
「いやぁ〜よく寝れました」
ヘンリーは背中を伸ばす。
「おい」
「はい、なんでしょう?」
「なにが30分だ。2時間はかかったぞ」
30分漕いでも目的地が見えなかった時は、遭難したのかとでも思ったほどだ。
「おや、そうだったのですか。私にとっては10秒ぐらいでしたけどね」
寝ていたからな。
「はぁ、もういい。レストランに行くぞ」
そう言うが、ヘンリーは動かない。
「どうした?」
振り返ったら、ヘンリーはこれ以上ないほど青ざめていた。
腹でも下したのだろうか?
「旦那様、嫌な予感がします」
「嫌な予感?」
「はい。ソフィー様達になにかあったのかと」
「……」
ヘンリーは昔からこういう突拍子のないことを言う癖があった。
しかし彼の勘は外れたことがなく、その勘のおかげで過去に何度も命拾いをしたほどだ。
「どれぐらいだ?」
どれぐらいとは、どの程度のものなのかということだ。
命の危険なら黒、それほどでもないなら赤、もう手遅れな時は白だ。
「限りなく白に近い黒です」
そう言われてアレクサンダーの顔も青ざめる。
「時間がないな。マリー号の航路は?」
「今すぐ持ってきます」
全力で会社に駆け込む。
「しゃ、社長!?どうされましたか!?」
ヘンリーとアレクサンダーの形相に驚いたのか、近くにいた船員が驚きの声を上げる。
「今すぐ船を用意しろ‼︎1番速い船を選べ‼︎」
そう聞いた社員達は慌ただしく準備をする。
「旦那様! ありました!」
ヘンリーが巻き込まれた紙を持ってきた。
「よくやった! 出航するぞ‼︎」
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