♢7ー《新聞局》ー7♢
マリーにとって、エミリーは不思議な子だった。
見たことのないほど整った綺麗な顔に、どこからか溢れ出る品位。
初めて会った時は、どこかの貴族様と勘違いしたほどだ。
けれど、彼女の祖父が気軽に接している時点でそうではないことを悟ったマリーは、この子と友達になりたいと強く思った。
マリーには友達が1人しかいない。
彼女には両親がいないことや、それなりに規模の大きい貿易会社の孫娘ということも相まって、本音を話せる友達など1人しかいなかった。
けれど、エミリーは違った。
いつもだったら、祖父や屋敷以外の人と喋るとどうしても気を遣ってしまうが、エミリーに対しては自然と、そして明るく話すことができた。
なぜかは彼女にも分からない。
けれど、エミリーと一緒にいたら毎日が楽しい。そう確信できた。
「エミリー、昨日は大丈夫だった?」
屋敷の階段前で、マリーが心配そうな顔で尋ねてくる。
「その節は大変お騒がせしました……」
他人の家のお風呂で気を失うとか、本当に恥ずかしい……しかもその原因がのぼせただけだなんて……
私が恥ずかしがっていると、階段からラウルが降りてきた。
「エミリーのカスタネット顔がまた赤くなってるぞ」
朝から早々に茶々を入れてくる。
「うるさい。そんなことを言っている暇があるんだったら、ダイナモの解読を進めてよ」
「うッ、い、今からやるの!」
そう言ってラウルは私からダイナモを受け取った。
「はぁ。全くなんで僕がこんなことを……」
文句をぶつぶつと言いながらダイナモを首に下げ、再び階段を上がって行った。
ちなみにアレクさんは私達が起きた頃にはもう仕事へ向かっていたらしく、なんでも港でなにかがあったとかなんとか。
「さて、じゃあ出かけますか」
私達はハートホード邸を後にし、商店街へと降りて行った。
♢♢♢
「臭ッ」
街を歩いている最中、思わずそう声を上げてしまう。
鼻を貫くような悪臭が、急に匂ってきたからだ。
「ほんとに鼻が曲がっちゃいそうだわ。前から臭い始めていたけど、最近は特に酷いわね」
マリーも顰めっ面をしている。
現在のイギリスは大悪臭という悪臭が広まっている時期であり、原因は主にテムズ川の下水処理がうまくされていないためらしい。
「きっと、朝おじいちゃんが忙しそうだったのもこの悪臭のせいよ。テムズ川で仕事をしているのに、その肝心の川からこんな匂いが出るだなんてたまったものじゃないわ」
マリーはずいぶんと怒り心頭のようだ。
「あっいけない! せっかくお出かけしに来たのに、これじゃあ台無しになっちゃうわね」
マリーがあたふたとし始めたため、私は気にしないでとだけ言う。
「でも、私が昨日ここを通った時はこんな匂いしなかったんだけどなぁ……」
昨日もこの道を通ったけど、こんな酷い匂いはしてなかったはずなのに……
……色々とありすぎて、嗅覚が鈍くなってたのかな?
不思議に思いつつも、ロンドンの街並みを見渡す。
本当に過去に来ちゃったんだなぁ。
結局、何がなんだかよく分からないまま来てしまったため、エミリーはどこか不安がっていた。
いや、いつまでもくよくよしていたら何も始まらないよね。
こんな時だからこそ、しっかりとしないと……!
自分に喝を入れる。
「ところでマリー、結局今日はどこに行くの?」
屋敷を出てからもうしばらくはたつというのに、私はいまだに行き先を知らなかった。
「新聞局よ」
「し、新聞局?」
思わず聞き返してしまう。
そんなところで一体何をするのか、あまり想像ができない。
……正直つまらなさそう。
「あ! 今つまらなさそうと思ったわね!」
図星を突かれてギクッとしてしまう。
「そう思う気持ちは分かるけど、あそこはエミリーが思っている以上に面白いところよ。少なくとも、退屈な劇場やお茶会よりはよっぽど楽しめるわ」
マリーがずいぶん楽しそうにそう言う。
確かに今の時代、どう新聞を書いてるのか気になるかも。
まあ、私がいた時代の新聞の書き方も知らないんだけどね。
「確かに、私も実際に記事を書いているところを見てみたいかも」
「……ふふっ。やっぱりエミリーは変わってるわね」
「……興味を持っただけじゃん」
エミリーは拗ねたようにそう言う。
ただ、マリーの言っていることも間違ってはいなかった。
この時代の女性――といっても現代もそうだが、新聞に関心を持つ女性なんてそうそういない。
マリーだってアレクサンダーに連れられてようやく興味を持ったのに、新聞を見たことがあるのかすら分からない子が興味を持つなんて思えなかったのだ。
「そう拗ねないで。ただ、新聞に興味を持つ子が珍しかっただけよ」
そんなことを話し合っていると、ベレー帽を被った青年がこちらに向かって走って来た。
「おじょ〜う!」
「あ、ロバートじゃない」
そのロバートという青年は、私達の前でピタリと止まった。
「お嬢、お久しぶりです! もう来ていただけないのかと――って、そちらの女性は?」
ロバートは私の方を見て尋ねる。
「彼女はエミリー・スミスよ。つい先日から家で居候することになったの」
マリーが華やかな笑顔で言う。
「エミリーよ。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします……」
……なんか、よそよそしいな。
ロバートはなんだか落ち着かない様子で体を縮める。完全に萎縮していた。
私って萎縮されるほど顔怖いかな?
そう不安に思っていると、急にマリーが笑い出した。
「あっはは! そんなに畏まらなくても大丈夫よロバート。エミリーも私達と同じ平民らしいから」
ねっ? とマリーはこちらを見てくる。まぁ、本当に平民なんだけど……
「え? あ、そうなんです……そうなの?」
「うん。マリーの言う通り私も平民だよ」
ロバートはマリーを凝視する。
本当か? という目だ。
「ま、そう言うなら普段の口調で喋らせていただきますよ」
ロバートは先程の取り繕った口調はやめて、いつも通りの口調になる。
「そういえばロバート、今日は私とエミリーに新聞を書いているところを見せてもらいたいんだけど……」
「あっ! そうだお嬢! そのことで、是非とも相談があるんです!」
「相談?」
マリーは首を傾げた。
「はい。テムズ川のことで、ちょっと変なことが分かってきたんです」
ロバートはついてきてくださいとだけ言い、歩き始めた。
「説明するよりも見てもらった方が早いですね」
そう言うと彼は曲がり角を曲がり、とある建物に入った。
「こちらです」
ドアを開け、私とマリーが入るのを待ってくれる。
入ろうとしたその時、建物の奥から怒鳴り声が飛んできた。
「お、ロバートてめぇどこに行ってやがったんだ! 川の水を取ってこいっつったろ!」
建物の奥に座っている、無精髭を生やした男性がそう怒鳴る。
「なにもそんなに怒鳴ることないでしょ、親父さん」
ロバートがそう嗜めるが、男の顔は真っ赤に震えているままだ。
「お前はことがどれだけ重要か理解していねぇ! 他の新聞局が気付く前に――って、ハートフォードさんのとこの嬢ちゃんじゃねぇか」
ゆでたこのように真っ赤に染まっていた顔が、マリーを見てみるみる元の肌の色に戻っていく。
「お邪魔してます。ビルターさん」
「おうおう。騒がしくして悪かったな。ところで、そちらのお嬢様は?」
ビルターと呼ばれた男はエミリーを見る。もうすっかりと怒気は抜けたようだ。
「エミリー・スミスです。よろしくお願いします」
「エミリーは昨日から私の家に居候しているんです。せっかくなので、一緒に見学しようと思ったのですが――お邪魔でしたか?」
ビルターさんは慌てて手を振る。
「いやいや、そんなことねぇよ。むしろお嬢ちゃんなら大歓迎だ。ほらロバート、さっさとお嬢様達を案内してやれ」
「……へい」
先程との態度の変わりように、ロバートは少しだけげんなりする。
「ところでロバート、見せたいものって何?」
マリーがそう尋ねるが、ロバートは難しそうな顔をした。
「うーん。実際なんて言えばいいか……と、とりあえず、2階に来てください!」
そう言ってロバートはマリーの手を握る。
すると、2人は少しだけ頬を染めた。
……ん?
その光景に、周囲は生暖かい目を向けている。
あー、なるほど。そうゆう感じね。
色々と察っし、邪魔にならないよう2人の一歩後ろを歩くようにする。
「ここの部屋です」
そう言われて数ある部屋の内の一室に案内される。
そこはテーブルの上に様々薬品や液体が置かれてあり、まるで研究室のようだった。
うわあ……まるで魔法使いの部屋みたい。
興味深げに見ていると、ロバートが話しかけてきた。
「これを見てください」
そう言ってロバートは一つの容器を持ち上げた。
「それは?」
その容器の中は白く濁っており、透明さがまるでない。
石灰水かな? でもこれがなんだ――
「テムズ川の水です」
「え!?」
それが川の水……? 川の水って、もっとこう……茶色じゃなかったっけ?
そんな私の疑問に答えるかのように、ロバートが口を開く。
「今のテムズ川は茶色く濁っていて、とても飲めるとは思えません。なので、『テムズ川の水を飲む方法!』という見出しの記事を書こうとして、一度ここで綺麗にしてみたんですよ」
ロバートは再び液体を見せる。
「それで綺麗にしたのがこれです」
……え? 全然綺麗になってないじゃん。失敗しちゃったのかな?
マリーも同様のことを思っているようで、どこか難しい顔をしている。
「俺達は手始めに濾過をしたりと様々な方法で水を綺麗にしたんですが、その過程であることが分かったんです」
ロバートは疲れたかのようにため息をつく。まるで現実を信じたくないかのような顔だ。
「なんと、あの川には大量の唾液が含まれていたんですよ」
その衝撃の一言に、私達は思考をフル回転させる。
「……」
脳をフル回転させても、何も考えられなかった。なぜ唾液が入っているのか、なぜそれが川に流れているのか。
様々なことが脳裏をよぎるが、結局のところ何も思いつかなかった。
そんな私達の姿を見て、ロバートは苦笑する。
「俺達も最初は訳が分からなかったんすよ。唾液が入ってるなんて想像もしていなかったし、そもそも唾液だって分かっちまう時点でどれだけの量が入ってるんだって話っすよね」
そこでロバートはマリーを見つめた。
「そこで、どうかお嬢に頼みがあるんです」
「……頼みって?」
正直、ここまで聞いても何を頼まれるのか、マリーは想像もつかなかった。
「アレクサンダーさんの船を使わせて欲しいんです」
マリーは目を丸くする。
祖父の名前が出てくるとは想像もしていなかったからだ。
「船って……何に使うの?」
「川の水の採取です」
ロバートは机の端に丸まっていた地図を広げる。
そこにはイギリス本島が描かれており、私が想像していたこの時代の地図のものよりもずっと正確だった。
「俺達が川の水を採取した場所がここ」
そう言ってロバートは地図を指し示す。
「ここで唾液が取れることは分かったんですが、川の上流に行き、どこまで唾液が取れるのかを調べたいんです」
「なるほど。唾液の発生源を調べたいってことね」
確かにこの方法なら船が最適だし、川の水を汲むだけだからそう長くはかからないよね。
「はい、その通りっす!」
「でも、それならおじいちゃんじゃなくても漁師さんとかに頼めばいいじゃない? 今なんて商売上がったりな時なんだから、安く調べさせてくれると思うわよ?」
流石は商人の子だな。と私は少し感心する。
目の付け所が私とは違う。
「いやー。それも考えたんすけど、他局に知られるかもしれないからダメだって親父さんが……」
新聞局にとって一番大切なことは、他の局よりもインパクトがあり、多くの人が見るような見出しを作ることだ。
自分達が苦労して突き止めた情報を他の局に取られてはたまったものではないのだろう。
マリーは少しだけ考えた後、首を縦に振った。
「……分かったわ。おじいちゃんに相談してみる」
それを聞いて、ロバートの顔は花が咲くような笑顔になった。
「ありがとうございます!」
そう言って頭を下げる。
「大丈夫よ。むしろ今まで仕事の邪魔をしてしたんですもの。頼むぐらい100回でもやるわ」
「邪魔なんて……むしろお嬢がいた方が仕事がはかどりますよ」
ロバートの言葉に、マリーは顔を赤くする。それを見て、ロバートまで頬を染めた。
私は完全に二人の邪魔をしているようで、少しだけ申し訳なくなった。
「そ、それよりも、記事を書くところを見たいんでしたよね! ささ、こちらです」
ロバートは顔を赤くしたまま別室へ案内する。
「ここで新聞を書いてるんですよ」
そう言って先程よりも大きな部屋に案内された。
机が8つほど並んでいるが、散らかっておりその席にはだれも座っていない。
「あれ? 皆は?」
マリーが不思議そうに尋ねる。
彼女はこれまでに何回もここに来たことがあるが、いつもは皆慌ただしく記事を書いており、誰もいないなんてことはなかったからだ。
「テムズ川の水を取りに行ったんすよ。……走ってね。まったく、何日かけるつもりなんだか」
ロバートは呆れたようにため息をついた。
「今はさっきのテムズ川を中心に記事を書いているんですけど、こちらも中々興味深いですよ」
机の上にあった新聞を私達に渡す。そこにはこう書かれていた。
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[ネズミが大量発生!?食い尽くされる食糧達]
今朝、ネズミ達の集団が54件も確認された。ネズミが大規模な集団で発見されること自体異例だが、それが今朝だけで54件も確認されたのだ。
テムズ川の瘴気に魅了されて増えたのかは分からないが、ここまでの増加スピードは恐らくイギリス史上初。巷ではカラスにゴミを食い尽くされる事例も出てきており、朝から混乱を極めている。
とあるネズミ取り業者は仕事が増えたと満面の笑みで語っており――
♢〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜♢
へー。そんなにネズミが増えているんだ。ラウルが喜びそう。
私はそんな感想しか出てこなかった。
山の中の食べ物が減っているのかな? 田舎だとよくそれで熊が出るっていうし。
そんなことを考えるけど、ロバート達の意見は違うようだった。
「多分っすけど、やっぱりテムズ川関係だと思いますね」
え、そうなの!?
「まぁ、それしか考えられないわよね」
マリーも同意見のようだ。
……そうなんだ。川が原因なんだ。
………いやなんで?
「テムズ川の汚水問題なんて数年前から起きているって言うのに……政治家の連中は、あの膨れ上がった腹のせいで腰がなかなか上がらないようですね」
ロバートは眉間に眉を寄せる。
余程怒っているようだ。
「全くよね。イギリスの父なる川があんな状態で、国がより良くなるわけなんてないのに」
私からしたらあまり関係のない話かもしれないけど、マリー達にとって生活の基盤とも言える川があの状態では怒るのも無理はないだろう。
私だって、家の周りがこんなに臭くなっていたとしたら絶対に嫌だ。
すると、ロバートはまた忘れてたと言わんばかりに声を上げる。
「ああ!記事を書く方法でしたね!まずはこれをこうして――」
その日は新聞の書き方や仕組みなどを詳しく聞いた後、私達は新聞局を後にした。
ーーーーーー
カクヨムは、なろうに投稿されている内容と一切変わりません。せいぜい、筆者の後書きが追加されるだけです。
ヒントも無しに、ガチで考察したいんだ!!!という方はなろうを、ゆっくりと、そして筆者の後書きも読みたい!という方はカクヨムを使って読むと良いですよ。
早く読んで、筆者の後書きも読みたい!!!なんていう良い子ちゃんはどちらも読みましょう。
………今思ったんですけど、このシステム天才じゃないですか?(もう他の人がやっているのかもしれないけど)
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