ラ・フランス

増田朋美

ラ・フランス

2月だというのに3月並みに暖かい日が続いていて、なんだかそれは嬉しいんだけど、それでは、なんだかおかしいなと感じさせられるような日であった。そういうことが当たり前になっているというか、もう日常生活で普通の事になってしまうのも遠くないなと思われる。それでは、なんだか予想もしないことだって、起きてしまうこともあるのかもしれない。

「おい、姉ちゃん。俺、行ってくるからな。それでは、穏やかにゆっくり過ごしてくれよ。くれぐれも変なことはしないでくれよ。それは約束してくれよな。」

ブッチャーこと須藤聰は、姉の有紀の部屋のドアを叩いた。有紀は、テレビの映像を見てパニックを起こしてしまい、ブッチャーの茶碗を割ってしまったのだ。薬を飲んでくれたおかげで、とりあえず落ち着いてくれたのではあるが、ブッチャーの茶碗を壊してしまったということで、また自分の手を怪我をするまで殴り続け、とりあえずブッチャーが、彼女を部屋まで連れて行ったのであった。それのお陰で、ブッチャーがするべきことは全部できなくなってしまったけれど、ブッチャーはそれは言ってはいけないことはちゃんと知っていた。それでも、製鉄所に行かなくてはならないということで、ブッチャーは、とりあえずでかけることは知らせなければならないと思った。

「いってくるからな。それでは、でかけてくるから、留守番をよろしく頼むよ。一応、鍵は閉めておくから、お客が来ても出なくても良いようにしておくけどさ、なにかあったらちゃんと応じてくれよ。」

ブッチャーはそう言うが、部屋から返事は帰ってこなかった。それでも、早くしなければ約束の時間に間に合わなくなるということで、ブッチャーは、急いで、家を出ていった。

ブッチャーが、バスに乗って製鉄所にたどり着いたところ、段差のない玄関で誰か知らない人の靴が置いてあるのが見えた。

「失礼致します。これ誰の靴ですか。誰か新人の製鉄所の利用者でも来たんですかね。それにしては馬鹿に高級な靴だと思うんですが?」

とブッチャーが、そう言いながら、製鉄所に入ってみると、応接室のドアが閉まっていた。新入りの利用者にしては、それにしても、なんだか変だなと思うのであるが。

「あれ、理事長さんどこに行ったんですかね?あの、どこへ行ったんですか?」

ブッチャーは、応接室のドアをたたこうとしたところ、

「見習うって何をですかね。僕たちは、彼女たちを矯正するとか、そういうことをしているわけではありません。彼女たちが居場所をなくしていて、それを提供しただけのことです。それを表彰しようなんて、おかしいんじゃありませんか?」

と、ジョチさんがそう言っている声が聞こえてきた。ブッチャーは、それを聞き取って、何だ、理事長さんが、表彰されたのならすごいことでもあるじゃないかと言おうとしたところ、

「でも、理事長さんは、そうやって何人もの女性を立ち直らせてきたわけじゃありませんか。それでは、表彰されても良いのでは無いですか?それに、女性たちは理事長さんたちのお陰で、新しく居場所を見つけたり、新しいステップに立てるようになったじゃないですか。そこを、表彰されてもいいと思いますよ。それは、すごいことでもあります。」

と、別の男性の声が聞こえて来る。

「それで、見習うって何を見習うのですか?」

ジョチさんがそう言うと、

「いやあね、理事長さん。何を見習うとかそういうことではなく、理事長さんが、すごいことをしてきたのを、表彰したいのですよ。だっていろんな女性たちが、理事長さんのお陰で助かってきたんですから。今までだって、何人、立ち直らせてきたんですか?」

と男性はそう言っている。

「勘定したことはありません。そんな事、意識したことはありませんから。」

ジョチさんはすぐ返した。

「そうならなおさらですよ。そういうことなら、一度は褒められたっていいじゃありませんか。ぜひ富士市で表彰させてくださいませ。あの、市長もぜひお会いしたいと言っておりましたので。」

そう言っている男性は、多分富士市の市議会とか、市長さんの秘書とかそういう人だったんだなとブッチャーは思うのであるが、ジョチさんも、こういうことは、すぐには引き受けない様子でもあった。そういうことは、なかなか引き受けないのが、ジョチさんの性質というか、欠点なのかもしれなかった。

「そうですが、僕はそのようなことは一切引き受けません。表彰とか、そういうことは、誰か他の人を頼んでください。僕は決して表彰台にふさわしい人物ではございません。もっと優秀な人は他にもいるでしょう?」

と、ジョチさんは、そう言っている。なんでそういうことは、簡単に断ってしまうんだろうなとブッチャーは思った。なんでか知らないけど、そういう称号とか、表彰とか、そういうことはみんな断ってしまうのがジョチさんであった。ブッチャーもやってきた男性と同じ考えでいた。だから、受けてもいいと思ったのに、なんだかもったいないなと思ってしまうのであった。

「それでは受けたらどうなんですか!俺、立ち聞きしちゃいましたよ!それでは、良いじゃありませんか。素直に表彰されればいいじゃありませんか!それでは、すごいことをしたとして、自信持って良いんじゃありませんか!」

ブッチャーは、でかい声で言いながら、応接室のドアを開けてしまった。確かに、応接室の中にはジョチさんがいた。それにスーツ姿の男性が、ジョチさんと話をしているのが見えた。多分その男性が、ジョチさんを表彰したいと言ってきたのだろう。そういうことなら、素直に嬉しいとか、受ければいいのに、ジョチさんと来たら。そのスーツ姿の男性は、首に名札をかけていた。それを見て、多分市役所の人だなとすぐわかる。

「いいえ、須藤さん。こんな不良を表彰してはいけませんよ。」

ジョチさんは、すぐに答えた。表情一つ変わらないで、普段と変わらない顔つきをしているのが、ジョチさんのすごいところでもあった。おだてられれば良い気になるとか、そういうことが一切ない人なんだろう。

「それでは、今回の話は終わりにしてください。もうこんな人間を、表彰しても困るだけです。それでは、お帰りくださいませ。」

と、ジョチさんは、市役所の人を立ち上がらせようとしたが、

「ちょっとまってくださいよ!一体どこで表彰しようと言うんですか。その顛末をしっかり話してくれませんか!」

ブッチャーはすぐに言った。市役所の職員はすぐに、

「はい。富士市の福祉賞にて、製鉄所さんを表彰することが決まりました。それで、こちらの施設の責任者の方に話をしたいと思ったのですが、断固として断ると言われてしまいましてね。表彰式に出てくれるどころか、表彰すら辞退するというのです。そんな事言われてもこちらは困るんですけどね。」

と、ジョチさんに言った。

「そうでしょうそうでしょう。俺だって、理事長さんの立場だったら、すぐに受けて立ちますよ。俺はそういうふうに褒め合っても良いのではないかと思いますよ。理事長さんは、ただ、謙虚すぎるというか、それだけなんですよ。全くそれだけなんです。」

ブッチャーはすぐそういうのであるが、

「それでもね、須藤さん。なんで僕が表彰されなくちゃいけないんですか。そもそもね。僕が表彰されるのがおかしいんです。そもそもですね。こんなところで、表彰をされるというタイミングがおかしい。なんで大した実績も無い僕が、表彰されなくちゃならないんですか?そもそも、僕たちがしていることは、ただ、居場所の無い女性に居場所を提供しているだけのことでしょ。それが、何か表彰されることに繋がりますかね。それがおかしいと言っているのです。」

ジョチさんは冷静に言った。

「どうせ、役所の人がネタがなくて、僕らを適当に表彰して格好つけたいだけでしょ。それでは、何も意味がありませんよ。それなら、もう少しお役所に都合のいい、団体やNPO法人などを表彰すれば良いのではありませんか?」

「そうですけど、俺は、理事長さんがすごいことをしたと思いますがね。俺の姉ちゃんだってそうだけど、精神の障害のある方を動かすなんて、本当に難しいんですよ。俺の姉ちゃんは、俺が、いくら黙らせようとしてもそういうことはできないんですから。今朝だってすごい大変だったんですよ。俺が普通にテレビつけたら、いきなり怖いからやめても言えないで叫びだすんですから。」

ブッチャーはそうジョチさんに言うのであるが、ジョチさんは態度を変えなかった。

「いいえ、こういうところが賞状をもらうとか、そういうことをするのは奈落の始まりです。そうなってしまうからこそ、没落してしまう施設を何度も見ましたから、そのようなことはしたくありません。良いですか、施設が没落してしまったら、困るのは僕たちではありません。それは、利用者さんたちです。」

「まあ、理事長さんの言う通りでもありますけど、、、。」

ブッチャーはそう言うが、でもなんだか表彰を辞退してしまうのはもったいない気がしてしまうのであった。

「そういうわけですから、お帰りください。もう二度とこのような、事態をしないようにしてくださいね。僕たちは、医者でも無いわけですし、専門の知識を持っているわけではありません。ただ、僕たちは、部屋を差し出しているだけのことですよ。それ以外何もしてはいませんから。そのような人間を見習ってはいけませんよ。それはおわかりになりますね。」

ジョチさんはそう言って市役所の人を追い出してしまった。市役所の人はすごすご帰っていく。ブッチャーは、なんだか表彰を辞退してしまうのは、どうもなあと思ってしまうのであった。

「ジョチさん。俺、一緒に手伝ってきましたけれど。」

と、ブッチャーは、ジョチさんにいう。

「俺は、表彰されることを引き受けてくれてもいいと思ったのですけどね。それに一応、製鉄所だって商売でもあるわけですから、それなら、製鉄所の宣伝効果もあるわけで、そのためには、表彰された実績があっても良いのではないかと思うんですけど。それでは、いけませんか?」

ブッチャーは改めて自分の気持ちをジョチさんに言ったのであるが、

「いいえ、こういう人間が、賞状などもらうのは、奈落の始まりだと言ったではありませんか。」

と、ジョチさんは涼しい顔をしている。

「そうですけど、俺は、そうは思いませんですけどね。俺は、表彰されたって良いと思いますが、俺の気持ちはどうなりますか?」

ブッチャーは改めてジョチさんに気持ちをぶつけた。

「そうですね。そういうことなら、別の人間が表彰されるべきではないかと思いますけどね。僕はただ、この製鉄所を管理しているだけの立場ですから、僕が賞状をもらうべきでは無いんですよ。例えばほら。」

ジョチさんは、そう言って、中庭を指さした。ブッチャーに見えたのは、中庭だけであった。ただ、中庭に池があって、その周りを露天風呂みたいに敷石が囲っていて、近くには、石燈籠と、イタリアカサマツの大木があるだけである。

「ほらなんですか。中庭を見てもしょうがないでしょう。」

ブッチャーが言うと、縁側には水穂さんが座っていた。その周りに二人の女性がいる。二人の女性たちは、2月になってから、利用をし始めた女性たちで、一人は通信制の高校に通っており、もうひとりは工場で事務をしているが、結構仲の良い二人組で、一緒に勉強したり仕事をしたりしていた。ブッチャーがそれが何だと言おうと思ったとき、

「ほら、おやつができましたよ。食べてください。」

と水穂さんの声がして、同時に人間の声ではない声がした。

「水穂さんありがとうございます、おかげですっとしました。確かに、腐らせて放置するより、二匹に食べてもらったほうが良いですもんね。」

と、女性の一人がそう言っている。同時に甘い匂いがしてきたので、水穂さんが、ラフランスを切ったのだとブッチャーもわかってしまった。食べているのは、二匹の歩けないフェレットたちだった。ブッチャーはなんでそんな高級な果物をフェレットにあげてしまうと言おうとしたが、

「本当ですよね。あたしからしてみれば、こんなラフランス、いらないと言ったほうが良いんです。だってあたしは、母のしていることにどうしても感謝できないというか、嫌な気持ちになってしまうのです。母は私がやることなすことに、みんな申し訳ないからなにか持っていけというのですけれども、私としてみればいい迷惑ですから。それが毎回毎回ですからね。それでは気持ちが滅入りますよ。そんな母から、ラフランスを持たされて、私はどうしようかと思ったんですが、水穂さんがそうやってくれたから、本当に嬉しかった。ちょっと、母の呪縛から解放された気がしました。」

と、利用者の一人はそう言っているのだった。たしかに、もらったラ・フランスを、動物にあげてしまうのは失礼な話だが、それを母親のおせっかいというか、束縛から解放させるためだと考えると妥当な選択肢かもしれなかった。

「いいえ。良いんですよ。ラ・フランスを食べないで捨ててしまうより、正輔くんたちに食べてもらったほうが、そのほうが良いと思っただけですからね。」

水穂さんは、にこやかに笑って彼女に言った。そういうふうに精神疾患を持っている女性たちの立場に立って考えられる人物はなかなかいないのだった。精神疾患を持ってしまうと、正しいと思っていることが、間違いだと解釈しなければならないこともある。

「それでは、もう少しで植松聡美さんが来ますから、準備しておいてくださいね。」

水穂さんに言われて二人の利用者は、ハイと言った。そうやって素直に利用者が、水穂さんに従ってくれるのもある意味奇跡的であった。利用者の中にはまず初めに、人間を信じさせることから始めなければならない利用者もいる。水穂さんが指示することには従ってくれる人が比較的多いのは、水穂さんが、単に外国の俳優さんみたいに美しいだけでなく、それ以外に理由があるのかもしれなかった。

「こんにちは。」

玄関先で女性の声がした。予想した通り、植松聡美さんだった。植松さんは、ブッチャーと同業者というか、着付け講師の免許を持っている。それを生かして、今では着付けの教室をやっているという。着付け教室というと、余分なものを買わされるとか、強引に販売会に参加させられるなどの苦情が相次ぐ業種なのだが、利用者たちは、不信感を示すことなく、聡美さんに来てくれてありがとうと言っている。

「じゃあ、いつも通り、着付けのレッスン始めましょうか。それでは、まず初めに、皆さんで、長襦袢の着方をおさらいすることから始めましょう。」

聡美さんは、製鉄所の居室の一つを使い、利用者二人に着物を出すように言った。製鉄所では、こういうレッスンも行われる。それも日常生活では体験できないことをレッスンすることもある。心理学とかの講座もやるけれど、こういう着付けや裁縫などの講座を行うこともあるのだった。二人の利用者は、わかりましたと言って、聡美さんと一緒に、居室へ行った。実は、ここだけの話、あの二人の利用者が人の話を素直に聞くというのは並大抵なことではなかった。たしかに、高校へ通っていたり、工場で事務をしているなど、一見居場所があるように見えるけれど、彼女たちは相当な人間不信に陥っていて、まず初めに、指示に従ってもらうというのが非常に難しかった。だから、フェレットにラ・フランスを食べさせるようなことをさせて、やっと人間に従ってもらうようになったのだ。人間に従わない女性たちが最近増えている。まあ確かに、昔であれば、叱責されたことを、教訓として前向きにしようと解釈してくれる女性のほうが多かったのかもしれないが、今はセクハラとかパワハラなどと言われて、人間不信に陥ってしまう。そういう女性に指示に従ってもらうようにするためには、何よりも、女性たちの望んでいることを、叶えなければならない。それが、たとえ常軌を逸したことでもだ。

だから、水穂さんは、正輔くんたちにラ・フランスを食べさせていたのだとブッチャーは思った。考えてみれば俺の姉ちゃんもそうだったとブッチャーは思う。そういう常識的な事と正反対なことをしないと信頼が得られないことは、いくらでもある。それは百円入れればマッサージをしてくれる機械ではなくて、人間だから、そうなってしまうのかもしれない。

「じゃあ、腰紐を、襟を合わせた部分に重なるように巻き付けてください。それで、一周回して正面で縛って結んでください。そうすれば長襦袢の着付けは完了よ。」

植松聡美さんがそう指示を出しているのに、女性たちはわかりましたと素直に従ってくれているようだ。一度、この人は信頼できると思うことができたら、人間は変わっていくことができる。でも、それは信頼が得られるまで、ずっとかわれないということでもある。

「ありがとうございます。早く着物が着られるようになって、外へ行きたいわ。」

そういう女性たちに、フェレットにラ・フランスを食べさせていた水穂さんが、大きなため息をついた。製鉄所の目標はそこだ。外へ出てみたいという、気持ちにさせること。長年引きこもってしまった人だけではなく、居場所があっても外へ出たがらない人も最近は多い。そういう人たちに、外へ行きたいという気持ちにさせるのは、並大抵の努力ではない。そのためにはまずこちらからへりくだって、焦らずゆっくりと説得しなければならない。

「そうだよなあ。それでは、俺たちが賞状をもらうのは、やっぱりだめだよな。」

ブッチャーは、そう考え直した。そして、家に残してきた姉の有紀に、どうやって、外へ出てもらうように持っていったらいいかを考え始めた。精神障害のある人に付き合うことは、お金も何ももらえない、重労働なのだ。それでは、解決できないことだからこそ、非常に難しいことなのだとブッチャーは思った。

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ラ・フランス 増田朋美 @masubuchi4996

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