第54話 弱肉強食
パンプスをくわえて、事故現場へ無我夢中で走る。もう自動車も遺体も撤去されたその場所に、今更遺留品の差し替えに行くなんて不可能で無意味だ。動物思考に染まってしまったのだろうか。単純で笑える。
それでも足を止めなかった。その交差点まで。
黄色いテープを掻い潜り、電信柱に向かったところで、私は衝撃に襲われる。
「ギャウッ」
乱暴にぶつかった上に、体に噛みついてきたそいつは、よくいる警察犬だ。現場の調査にでも駆り出されたのだろうか。
立ち上がれずにいるのに、「グルルル……」と私を威嚇してくる。これだから犬は嫌だ。謂れない罪を被せられているみたいだ。
よく語られることだが、犬と猫ではどちらが強いか、というものがある。普段の運動量の違いから考えて、犬の方が圧倒的に勝っていることは想像に堅い。そして私は今それを実感している。
人間であっても、「犬に噛まれる」ということは一つの畏怖の対象として見られる。狂犬病がどうとかいう話もあるが、純粋に怖いという理由が大半を占めるだろう。
何故ちょっと出ただけでこうなるのか。人間時代から自分を多幸だと思ったことは一切ないが、それにしたって、薄幸が行き過ぎていやしないか。
人間時代より嫌いだった犬と対決することになろうとは……予想だにしなかった。人間だったなら、カッター片手に解体してやるところだが、今は生憎と猫だ。猫の手とは頼りにならない印象の言葉だが、実際こういう険悪な場で頼りにならない。猫のいいところは肉球だと猫好きは豪語するが肉球などこんな場面で役に立たない。
なんとかふらふら立ち上がるが、すぐに体当たりされる。速い。そういえばなんでこいつ、私にこんなに害意を持っているんだろうか。
無意味な対決を悟った私は撤退を試みるが、そう簡単にはいかなかった。犬は私に噛みついて、そのまま私をぶんぶんと振り回す。脳が揺れるし、目が回る。勘弁してくれ。
そう思ったとき。
ずさっ
犬の腹に極限まで刃を出したカッターが突き刺さる。犬は驚いたのか、一瞬私に歯を食い込ませ、それからどさりと倒れた。地面に黒い染みが広がっていく。私はそれに浸食される前にどうにか犬の口から脱出した。足はもう生まれたての小鹿のように震えているが。
カッターが飛んできた先を見る。月明かりにそのシルエットが照らされ、映えた。灰色の髪が月明かりに冴えて銀にも見える。刃の色だ。同じ色がその人物の瞳にも宿る。燃えたぎるような憎悪を灯し、骸と化した犬を冷淡に見つめていた。
──ナガラだ。
「弱肉強食という言葉が、僕はこの世じゃ一番嫌いだ。ご都合主義に似ているだろう?」
そう謳いながら、犬に近づく。やけに人気のない夜にその足音が響いた。
犬の前で屈むと、ナガラはカッターを一気に引き抜いた。血が更に溢れ出す。ナガラはその色に塗れた。血の色はナガラの白い肌に映えた。
それをぼんやりと見ていると、向こうの方からぼんやりとした灯りが近づいてくる。私がそちらに目を向けると、ナガラも興味がなさそうにそちらを向いた。
近づいてきて、正体がはっきりする。
「何やってるんだ、君!」
そう叫んだのは、警官だった。
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