第53話 どこまでも
疑問がふと浮かぶ。
帰りがけだったのなら、何故家にパンプスがあったのか。
永良の母親は仕事で出ていたのではないのか?
冷静になろうとして、家に戻る。玄関には、もう履く人のないパンプスが一揃えあった。間違いない。雪さんの臭いがついている。
私は台所に向かう。そこには確か、今日の予定を書くホワイトボードがあったはずだからだ。
その途中、リビングをすり抜けようとしたところで、電話のところのメモ帳が破られていることに気づく。筆圧で写ったのであろう文字を読み取ると、そこには「お母さん 早い」と書かれていた。
雪さんの帰りがはやかった?
私が気づいていなかっただけで、雪さんは帰ってきていた?
それなら何故外に出た?
『お母さんのと一緒にいてあげてね』
ナガラがそう言って出ていったのはまだ昼間のうちだ。
それから夕方になるまで、私は雪さんが帰ってきたのに気づかなかったとして、帰ってきた雪さんは何を思うだろう?
長門家と違い、温かい家庭。優しいお母さん。
──息子の心配をするお母さん。
手がかりもなしに出ていって、その途中で事故に遭った? ……いや。
雪さんなら、ナガラがどういう存在か知っているはず。
ナガラが私と同じなのなら、私と同じく体が弱いはずだ。当然医者にかかっていただろう。
私と違い、あの医者の手元に置かれなかったナガラ。そのナガラが、迷いもせずにあの医者の元へ行ける理由は何だ?
かかりつけの病院なら、場所を知っていて当然だ。そしてナガラはまだ未成年。医者にかかるのに保護者が同伴するのも当然。
雪さんは何かを予感して、ナガラが病院に向かったと気づいた。そう、事前に早く帰ると連絡していたのに、ナガラが待っていなかったから──
ナガラに気づかれてしまったかもしれない、と思ったから。もしくはあの医者に何かされるかもしれないと危機感を抱いたから。想像は数えてもキリがない。だが、違法な人材でも子どもを欲するほど優しい母親が息子の心配をしないわけがない。
病院はあの道を辿るのだろう。勤務先から近いのかもしれない。
なんでもいい。だが、ナガラと雪さんがこんな別れ方でいいのだろうか?
ナガラは医者を殺した後、本当に通り魔をするつもりだったのだろうか。
ミライ姉、と優しく私を撫でた手を思い出す。血に染まるとは思えないような、人間らしい体温を宿した手。
もし、本当は他を殺すつもりがなかったのだとしたら?
帰ってきたナガラは、何事もなかったように、自分や母が法的に危険な状態にならない、安心できる状況で暮らせると信じていたにちがいない。
それが、不慮の事故一つで壊されたのだとしたら?
その事故の原因の中に自分が関わっているとしたら?
飼い猫でしかない私でさえ、動揺を抑えきれなかったのだ。家族として愛を注がれてきたナガラはどうなる?
まだ中学生くらいの年齢。中学生くらいは思春期と呼ばれ、心情の移ろいや機微が激しくなる時期。
そんなときに、大切なものをなくしたのだとしたら?
ナガラとの初対面、私は少なからず狂っていると思った。今では人のことは言えないが。
しかし、ナガラが理由もなく、狂っていたわけではないのだとしたら?
あのときの私のように自暴自棄になっていたのだとしたら──
一線を踏み越えるのは容易い。
ナガラのせいではない、と私は雪さんの死について考察する。
私はパンプスをくわえた。
雪さんは仕事帰りに不幸な偶然が重なって亡くなった。ナガラは関係ない。
そういうことにしてしまいたくて、走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます