第52話 幻影

 ナガラを見送ってから数時間。異変に気づく。




 ナガラの母親がいない。

 ナガラの母親は仕事をしているが、さすがに日が暮れると帰ってくる……はずなのだが、現在、時計の針は七時を指している。

 水商売ではなかったはずだし、ブラック企業でもない。「みーちゃん」だった頃の記憶も存在するため、間違いないだろう。

 私は玄関に向かう。

 すると、奇妙なことに、パンプスが一足、揃えて置いてあった。ナガラの母親のものだ。

 つまり、ナガラの母親はもう家に帰ってきている、はず、なのだが……

 もう一度家中を回ってみる。台所、リビング、寝室……どこにもいない。

 何故だ、靴はあるのに。

 そう思って私は寝室を後にしようとした。

 そのとき、外から井戸端会議のようなものが聞こえてくる。

「交差点でひどい事故があったんですって」

「ああ聞いたわ。そこの美人の奥さんでしょ? かなり悲惨だったらしいわね」

「暴走した車に跳ねられた上に、壊れた金属片が腹部に突き刺さったってことですよ。怖いわねぇ……」

 確かに、恐ろしい話だ。聞くに、どうやら今日の五時頃の話らしい。時間は確認していないが、そういえばサイレンが聞こえた気がする。

 それに、五時頃というのが気になる。ナガラの母親が帰ってくるのは日暮れ頃。ちょうど、五時頃では……?

 思わず井戸端会議に耳を傾ける。

「あの奥さん、ゆきさんって言いましたっけ? 別嬪さんだったのに……」

 雪……ナガラの母親の名前だ。白い素肌によく似合うと思ったのが印象的でよく覚えている。

 まさか、まさか……

「未婚の母親で素敵な人だったのに……」

「永良くん、だっけ? 息子さん、可哀想にねぇ」

 その一言が、決定打となった。

 雪という女性は大勢いる。だが、永良という男子は、そういないと思う。更に言うと、雪という母親と永良という息子の組み合わせというのは、そう簡単には見つからないはずだ。

 つまりそのひどい事故に遭ったのは、ナガラの母親。

 そんな……




 そんな!




 信じられないという思いを胸に、開いていた窓から外に出る。井戸端会議をしていたおばさんたちの横をすり抜けた。どうやら近所の人のようで、私を飼い猫の「みーちゃん」と理解したその人たちは、口々に私を引き留めようとした。だが、私は止まらない。

 確かめに行かねばならなかった。ナガラの唯一の拠であっただろう人が、簡単に亡くなるなんて、託されたばかりなのに!!

 大急ぎで近くの交差点へ向かう。

 まだ事件から二時間しか経っていないからだろうか。現場には「KEEP OUT」の黄色いテープが張り巡らされ、電柱やその周辺に血痕やオイル洩れの跡が見られた。

 黄色いテープを掻い潜って、白いテープが人形に貼られている電柱に寄る。犬ほどではないが、嗅覚は人間よりまだましだ。血痕を嗅いでみる。

 認めたくなくて、何度も嗅いだ。雪という名前には似つかわしくないほど、温かい人の香り。






 その香りが、した。


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