第三章 第二の道 餓鬼道

第40話 孤独

 長門未来の六道輪廻 第三章


 第二の道 餓鬼道


 所詮お前はその程度の人間なのだ。──わかっている。


 後ろは振り返らずに川を渡る。

 もう、セツはいないのだから、何も気にする必要はない。

 川は冷たくも温かくもない。もしかしたら、私にそれを感じる機構が欠如しているのかもしれない。だが、別にいいだろう。セツの言った通り、溺れる心配のない深さだ。

 ばしゃばしゃという音だけが場に響く。

 先程のセツの両親の成れの果てのような餓鬼は向こう岸からは出てこない。さっきのが特殊だったのだろう。きっとこれからも餓鬼道と地獄道はこうして分断されていくにちがいない。塞の川原を隔てて。

 ということは私ももう地獄道に戻ることはないのだろうか。……まあ、どうでもいいことか。

 私の行く末よりも気になるのは、消えた餓鬼の死体だ。確かに穴をたくさん開けて殺したが、消えたらやつらはどこに行くのだろうか。やはり天界に昇天するのだろうか。それとも餓鬼道に戻るのか?

 まあ、会ったとしても、敵ではないだろう。武器さえあれば。

 見たところ餓鬼は特徴的な体つきではあるが動きが鈍重で、強そうではない。攻撃を仕掛けられてもかわすくらいはできるだろう。

 ……いやいや、それよりも、私も餓鬼道に入るとあんな成りになるのだろうか。できれば御免被りたい。というか、あんな姿になりたいやつの方が少ないだろう。

 それが罰ということなのかもしれないが。

 まあ、地獄で浄化しきれなかった魂だ。それくらいあっても不思議はないのかもしれない。むしろ姿形が変わるだけなんて、良心的な話ではないか。






 って。

 そんなわけなかった。


 川を渡り終えた私は道の片隅に標識のようなものがあることに気づく。

 読むとそこにはこう書かれていた。


『これより先は餓えの道。生前、最も強かった欲が決して満たされなくなるだろう』


 意味がわからない。わからないがろくなことにならないであろうことはすぐにわかった。

 餓え。生きとし生けるものの世界でこれほど恐ろしいことはないと思う。何故ならそれだけで死んでしまうことがあるのだから。

 死とは恐ろしい、故に同時に餓えも恐ろしいのである。

 けれど不思議だ。一度天界を通ったからか、私はこの六道輪廻が始まって以降、"食欲"を感じることはなかった。人間的に考えたら、空腹は死への合図ですらある危険信号だ。……もしかして今の私って不死身状態なのだろうか。




 結論から言うと、それは正解だったが、その道は生易しいものではなかった。

 私は忘れていた。餓鬼道は地獄道に連なる道。地獄とは罪を悔いるまで『死なせない』道。

 譬、飢餓状態になろうと、罪を悔いぬ限り、その体は死なないのだ。




 けれどまあ、実質的には飢餓はあまり私には関係なかった。

 何せ私が生前に抱いていた最大の"欲"とは、食欲やら睡眠欲やら、普通の人間が抱くべき欲から、大いに外れていたのである。

 それを思い知ったのは、一匹の餓鬼が襲いかかってきたとき。おそらくそいつは新参の私が何か持ってくるのではないか、と待ち構えていたのだろう。

 それは間違いであった。

 私が持っていたのは、塞の川原からくすねてきた石ころ。……餓鬼にとっては天敵としかなり得ない力ある石だった。

 私はなんでもないように、その石を襲ってきた餓鬼にぶつけた。効果は抜群だ。

 が。

 餓鬼は見る間に体が再生していく。その反動かぐったりとしていたが……死んでいなかった。

 地獄の死なせない作用はここにまで来ているのか、と私は舌打ちした。





 その、舌打ちの意味は。






「チッ、殺せなかった」










 私の中に潜んでいた最も強い欲──『殺人欲』である。


 私の行動を見ていたらしい他の餓鬼たちが、私を異物と見なしたようで、追い出そうと襲いかかってくる。それを石を投げて反撃する。もちろん、石は消耗品だから、拾いながらだ。

 そんな攻防の中、私はいくら餓鬼を殺しても手応えがなかった。




 つまり、立て札にあったのは、そういうことなのだ。


 攻防の最中、何匹かが消えていく。罪を悔いて、解放されたのだろう。それこそがこの地獄道及び餓鬼道における死だった。

 しかし、餓鬼が死んだことに私の「殺した」という充足感は満たされない。餓鬼の死は私がもたらしたものではない。世界の運命さだめがもたらしたものだ。だから私が殺したことにはならない。






 ……なんて。






 惨めな攻防を続けるうち、餓鬼の数はだんだん減っていき、










 気づけば私は、一人立ち尽くしていた。


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