第38話 怨嗟

 その怨嗟の声は、常人の背筋を凍らすには充分すぎた。何せ既にセツが縮こまって、私の濡れたままの服を握りしめているから。

 私はというと……




 言ったでしょう? 常人の背筋なら、と。

 血の一年と呼ばれるほどの世界的大虐殺を起こした人間が、普通であるはずがない。

 地獄を温泉旅行くらいの気楽さで巡るやつが、普通であるはずがない。

 まあ、つまりは。




「セツ、ちょっと下がってな」

 私は川に一歩踏み出す。

 そして、怨霊の姿を捉えた。

 それは人間に似た形をしていたが、歪だった。

 手足は痩せ細って枯れ木のよう。背丈もセツと変わらないくらいしかない。

 しかし一際目を引くのはその腹。飢えて飢えて涎まみれの口元からは想像できないほど不自然に膨れている。




 餓鬼という怪物については生前聞いたことがあったが、これほどまでに醜い生き物だったとは。

 自分もやがてそうなるのかもしれないと考えると気が滅入る。まあ、それは仕方ないとして。




「セツに触るな、殺すころすコロス!」

「おマえが殺しタ癖に」


 セツの両親だったとおぼしき餓鬼は、対岸からぴちゃぴちゃと水を跳ねさせながら近づいてくる。どうやら私を憎み、襲ってくるつもりらしい。娘の仇とばかりに。いや、仇なのだが。

 当の娘が知りもせず、ただただ怯えているのに、かまわずこちらへ来ようとする様は滑稽だった。お姉ちゃんと私を呼ぶ声は、若干涙ぐんでいる。セツ、と名前が出てから、一層怯えたような気がする。

 記憶喪失が治ってもよさそうだったが、セツの記憶の蓋は固く閉ざされているようだ……




 まるで善人のようだが、と笑えたが、私は「セツを守る」という選択肢を採ることにした。

 セツを背中に庇い、餓鬼と対峙する。ふと思ったのだが、セツの両親は何故餓鬼道にまで飛ぶ羽目になったのだろう……? ああ、もしかして、娘を助けず、自分たちだけ助かろうとしたからか。姉思いなスーだったら確かに許さなさそうな行為だ。しかも地獄を潜り抜けたということは、娘の命を引き替えに助かろうとした行為を悔いていないということだ。だいぶ読めた。

「偽りの愛か……よく騙れるものだな」

 最大の侮蔑をぶつける。するとドンピシャだったようで、図星を指された餓鬼二匹は五月蝿いときゃんきゃん喚く。そういうお前らが五月蝿い。




 あーあ。私が心のどこかで信じてきた、私が味わえなかった"家族愛"というものは、本当に存在しなかったのか。


 そんな落胆を胸に、私はセツを塞の向こうに追いやる。

「貴女の努力を無駄にするようで悪いけど、頂くよ」

 私は積まれていた石を数個手にし、塞の向こう側へ。何の変哲もないはずの石が、途端にじわりと温かみを帯びる。なるほどと頭の隅で納得する。塞とは防波堤だ。内側に害を成すのでは意味がない。だが、、効果があるようだ。

 つまりはこういう使い方もできる。

 私は塞の川原の石を投げ、餓鬼に当てる。脳天を貫いた方がスカッとするかもしれないが、コントロールにまで欲は言うまい。片方の胸に当たり、いとも容易く貫通する。

 餓鬼は件の"飢え"のためだろう。ただの一発で容易く倒れる。いや、塞の石がすごいのかもしれない。

 立て続けにもう片方に集中砲火。身体中に穴の開く餓鬼。腹からはどぷりと通常の人間より黒さを増した液体が流れ出る。やがてふしゅう、と蒸気のようなものを立て、餓鬼は消えた。

 ほざいていた割にあっけないものだ、と呆れて見ていると、塞の向こうから、あ、という声が聞こえた。セツか。

 振り向いて安心させようと微笑みかけたところで固まる。セツを光のようなものが包み始め、セツの体がこの場所から実体を失ったように透け始めていたから。


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