第35話 賽の河原
果たして今思い出していたことは偶然だったのか、予兆だったのか。私を心配そうに見てくる少女は、以前気紛れに人質にした子どもだった。
そう簡単に忘れられるものではない私の容姿が憎い。きっとこの子はあのときの私の所業を思い出し、悲鳴を上げて逃げるにちがいない──
そう思いながら見つめ合って、十秒、二十秒……三十秒が経った。
目を逸らそうとすらしないセツの様子に私が拍子抜けするのをよそに、セツはこんなことを宣った。
「わたしの顔に何かついています?」
いやいや。
まさか、まさかとは思うが。
「覚えてない?」
さして恐怖体験でもなかったのか? 人質体験が? まさか。
「あ、それよく言われます」
「どういうこと?」
「わたし、地獄に来る前のこと……つまり死んだときのこと、覚えてないんです」
いつの間にか死んでいて、親より先に死んだ親不孝者だからと塞の川原で石積みをしているらしい。なんと理不尽な。いや、理不尽な状況に追いやったやつの言う台詞ではないか。そういえば親より先に殺したのは確かだ。
しかし、ここに来ているということはつまり、石積みを投げ出しているということだ。
それで支障はないのかと問うと、セツが石を積む塞の川原というのは存外近くにあるらしい。
地獄同士は思ったより近く、ただ痛みや苦しみが短時間に凝縮されているだけだという。ちなみにセツは私が血の池地獄に落ちてきた音を聞きつけて駆けつけたのか。
覚えていないとはいえ、純真無垢な子どもとは恐ろしい。こんな地獄に落とされるなんてまともじゃないやつに決まっている。にも拘らず、私のことを心配して駆けつけてくれた。私がその命を絶った張本人かもしれないのに、迷いなく。
「血の池地獄というのは、針山地獄の剣山に貫かれてしまった人たちの血でできていると言います。そして、地獄に堕ちる人は、わりと多いのです。中には剣山で大量に血を流す人もいるでしょう。
つまりは血の池地獄は、いつの間にか深くなっていることが多いのです」
しかも地獄についての詳しい説明までいただいてしまった。なんていい子なのだから。
「油断していると、溺れてしまいますから、今回のように」
ご忠告、痛み入るが、一つ疑問が湧く。
「地獄は罪を悔いるまで死なせない仕組みになっているそうじゃないか。それなら、譬血の池に溺れようとも、溺死にならないのではないか?」
「それは、確かにそうなのですが……」
セツは言葉を濁しながら、獄卒というやつに聞いた話をぽつぽつと語ってくれた。
「溺死というのは、地獄というものの役割にとって、よくないらしいのです。地獄とは、生前の罪を悔いさせる場所。溺死に近い状態、しかも血の池なんて常軌を逸した場所での臨死体験は精神を狂わしかねません。精神が狂えば、罪を悔いる以前に、感情を抱くことができなくなります。それを恐れて、鬼さんたちは血の池に近いわたしみたいなやつに血の池に誰か来たら対処するように、言い付けているのです」
地獄らしい風習だ。こうして習わしを子どもに刷り込むのも、一種の策略と言えるだろう。
とにもかくにも、助かった。
私はセツに礼を言いながら、セツに連れられ、ぺたぺたと進む。やがて、清らかな川が見えてきた。血の池とは繋がっていないのだろう。濁りがない。
で、どうすればいいのだろう?
すると、手持ちぶさたな私にセツは、川で身を清めてください、と告げた。確かに私の血みどろのこの姿は色々とまずいだろう。一緒に来たセツも、言わないだけで、嫌な思いをしているのかもしれない。
清浄な川を薄汚れた血で汚すのはどうかと迷ったが、足を踏み入れるとそれが懸念であったことが発覚する。長閑だと思っていた川のせせらぎは、思ったよりも強く、綺麗に血の汚れを洗い流してくれた。
案外気持ちいい。心が洗われるような感覚に、私は禊という言葉を思い浮かべた。禊とは確か、親善におわす前の身を清める儀式だったはずだ。あながち間違いでもあるまい。
体を洗い終わって、セツの方に戻ると、熱心に石積みをしていた。
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