第10話 血の一年のひととき

 腕の中でようやく眠りに身を委ねた少女の姿に、ほぅ、と息を吐く。

 彼女を横たえ、人というにはあまりにも整いすぎたその横顔が安らかであることに安堵した。彼女の記憶をぼくは自分の力で見たけれど、その華奢な肩に負うには重すぎる業だった。自分の過去など比にならない。ぼくには心の支えとなる弟妹たちがいた。最初は帝や他の同志たちなど、信頼してくれる者たちがいた。けれどこの少女には、最初からそんなものはなかった。

「信頼……」

 そういえば、唯一、彼女が信頼に似た感情を抱いていた人物が記憶の中にいた。

 彼は、誰なのだろう?


「もう"普通"の中で無理して生きることないよ。いっそ、"本物"になっちゃえばいいじゃん」

 絶望の中にある彼女に、そう言って刃を手渡したのは、彼女にそっくりな──同じといっても過言ではないほど似通った容姿の少年。

 悪魔の囁きに、彼女は手を伸ばす。

 そしてしっかりと、その刃を受け取った。握りしめる手は力強く、確固たる意志が存在している。

 ──悲しいことに、この少女は自らの意志で殺戮の道を選んだのだ。

 少年に操られているのかとも思ったが、少女は殺す相手を自分で決めている。世界中を蹂躙する間、少年と共に行動していた期間は短い。

 最初の脱獄時と、最期のとき以外は、少年と直接会ってはいないのだ。連絡は取り合っていたようだが、ほとんどが少年からの一方的な世間話だった。

 少女は殺人を繰り返した。あるときは大国の首脳を、あるときは名もなき民間人を、またあるときは公共機関の職員を。その活動範囲は祖国のみに留まらず、故に全世界に名を馳せた。

 「血の一年」。そう呼ばれる時間を刻み、彼女は若くして死す。他でもないあの少年の手によって殺された。

 けれど、何故だろう? 自分を殺戮ばかりの道へ引きずり込んだ人間で、最期に自分を殺した相手であるのに、この少女は何故か、少年とやりとりをしているときが、一番安らいでいるように感じた。


 彼女がある国の貧民街の住人を殺し終えたとき、近くに落ちていた通話機器が唐突に鳴り出した。

 彼女はそれが当然であるかのように、電話を取る。

「もしもし」

「あ、ミライ姉? ボクだよ」

「オレオレ詐欺みたいな名乗り方やめてくれる?」

「でもミライ姉ならわかるでしょ?」

「……まぁ、そうだけど」

 電話の向こうの少年の言いように呆れたように溜め息を吐く。しかし、直前までぐちゃぐちゃに切り裂かれた赤ん坊の死体を映して、仄暗く沈んでいた瞳が、僅かながらに光を灯す。

「で、何の用? っていうか、いつもながらに不気味なタイミングで、赤の他人の番号によくかけるね」

「そりゃ、ミライ姉のことなら、なんでもお見通しだもの」

「まさか、ストーキングなんてしてないでしょうね?」

「そんな俗物変態と一緒にしないでよ。ミライ姉のいけず」

 そんな軽口を叩き合う仲。その場が血肉にまみれた殺戮現場であることを忘れているかのような朗らかな雰囲気が流れる。

「で、ミライ姉。今日は誰を殺ったの?」

 和やかな声音に全く合っていない質問をする少年。その問いに少女は身を固くする。その目が目の前の赤ん坊の残骸を見下ろした。

「ある国のスラムの人間。全員」

「ワオ! 全員とは、いつになく気合いの入った殺戮だねぇ」

「気合いなんて、入れてないけど」

「そう? あはは〜ミライ姉はダウナーだもんね」

 少女は何も返さなかった。ただ唇を少し噛む。──何も感じていないわけではないのだ。

 人を無差別に殺し続けた一年間、彼女は何も感じていなかったわけではない。ずっと、後悔を身に纏いながら、それでも殺り続けた。目的があったかどうかは知らない。けれど、罪の意識は確かにあった。

「話はそれだけ? なら切るよ」

「わわ、ミライ姉ってばつれないのー。皆殺しなら、もう少し長電話しても大丈夫でしょうに。次はどこ行くの?」

「貴方に教える義理はない。貴方こそ、どこにいるのよ?」

「えっ? 教えたら来てくれるの?」

「あー、やっぱ興味ないからいい」

「わーん、ミライ姉、酷いー」

「じゃあね」

「え、ちょ、ま」

 そこでぶつりと電話を切り、少女はしばらくその画面を見つめる。その口元は僅かながら、微笑んでいた。

「どうせあいつは次の現場でもかけてくるんだ」


 二人は端から見て、よくわからない関係だった。

 彼女自身は、時事情報で身に覚えのない虐殺を少年の犯行と判断していたようだが、いつも彼女とはあまりにも遠い場所での出来事である。その上、遠くにいるにしては、いつも計ったような時期に連絡を入れてくるのだ。彼女はそれを不気味と言いながらも、どこか嬉しそうにやりとりを楽しんでいた。

 少年の方も楽しげだ。元々そういう性格なのかもしれないが、彼女を呼ぶ声はいつも弾んでいる。


 ミライ──


 ミライというのが、この少女の名だ。唯一、親から与えられたというもの。

 今ここにいる少女にとって、これほど皮肉な名前もないだろう。あまりにも早く未来を失ってしまった少女に対して、"ミライ"とは。

 穏やかな寝顔。今はどんな夢を見ているのだろうか。せめて今くらいは過去から解放されていてほしい。

 彼女の記憶の中で見た後悔に滲んだ顔など見たくはない。

 見ていられないのだ。

 ……そのためには、ぼくのこの力は邪魔でしかない。

 ぼくは彼女を起こさぬよう、そっと部屋から出た。



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