第8話(グレン視点)
調子が狂う。
プリシラが大勢の前でやらかせば、慰謝料など何もなしでエルンスト侯爵家が悪いと大手を振ってグレンの方から婚約解消するつもりだったのに。
どうして今日に限って、令嬢に囲まれていても何も言わずにひたすら食事をしているのか。なんだ、そのエビの山盛りは。一人でエビ全部食べる気か。
やっと一人の令嬢を人気のない場所に連れ出したからチャンスだと思ってこっそりついて行ってみれば。なんと、令嬢におねしょの話をしていた。
ピーターって誰だ。そしてなんでその令嬢に親身になってるんだ。意味が分からない。
目が点になっているとエルンスト侯爵に見つかり、初めてあの女とダンスをする羽目になった。
やらかしてくれそうなら何でもいいと引き受ける。
それなのに。
あの女は、ダンスの前に俺を見てへらりと笑った。それを見てみっともないほどに動揺してしまった。あの女の顔なんてマジマジ見たこともほとんどない。それなのにダンスのために近付いて見えたのは、彼女の目の奥にあった諦めと若干の怯え。
なんで、お前がそんな目をしているんだ。ワガママで好き放題生きているお前が。そんな目をしたいのは世間体を気にして婚約解消できない俺の方だ。
運動神経は悪くないはずなのに、自分でも落ち込むほど無様なダンスだった。動揺と震えで足がうまく動かない。よりによってあの女ではなく、俺が先にやらかすなんて。
腹が立って、ダンスの酷さはあの女のせいではないが終わってすぐに立ち去ってしまった。ダンス中はあの女に酷く気を遣われていた。何度かつま先を踏んでしまったが少し体を震わせただけで、むしろ俺をリードしようとした。最悪だ。
ふと手を見るとまだ震えている。情けない。
十を過ぎた頃、夜中にメイドに襲われかけてから家族以外の女性の側にいるとこういう震えが時折やってくる。ぐっと強く拳を握りしめると、震えはやがて止まった。
いくら腹が立っていたとはいえ、そしていくらあの女がワガママで令嬢とはいえなくともさっきのダンスやダンス後の行動は俺が明らかに悪い。あの女に謝るのは癪だが、謝らないとあの女と同じ穴の狢になってしまう。
頭に上った熱が冷めてからあの女を探すと、平気な顔をして食事をしている。しかも視線の先にはエビ。なんであいつはエビばかり食べているんだ。
やがて侯爵夫人に呼ばれてあの女はどこかへ行った。悪趣味なドレスでも着替えるんだろう。着替えたって悪趣味なことに変化はない。
あの女と同じになるのが嫌で、謝罪は今日のうちにしておこうとゆっくり追いかける。途中で何人かに捕まって話をしていたからあの女を見失った。
「本当に申し訳ございません」
扉越しに聞こえる、謝罪の声。
ふと気づく。そういえば、あの女の声はこんなだっただろうか。思い出せない。癇癪を起こされてキィキィ喚かれるのが面倒であまり話も聞いていなかった。この十カ月ほど会わずに済んで完全に声など忘れた。あの趣味の悪いドレスを着ていなかったらプリシラの顔さえ覚えているか怪しい。髪色が珍しいから銀髪で判断している節もある。
「よくもあんな無様なダンスが踊れたわね」
「はい。申し訳ございません」
話の内容からしてエルンスト侯爵夫人とプリシラだろう。
どういうことだ? これはあの女が叱責されているのか? 夫妻に溺愛されてワガママ放題のあの女が?
混乱していると勢いよく扉が開いて夫人が早足でどこかへ行ってしまった。ちょうど夫人は反対側に向かって行ったのでグレンが立っていたことはバレなかった。
部屋の中では使用人とでも会話しているのだろう、少し聞き取りづらい。
「素敵! チョコレートって見た目あんな色でしょう? なのにどうしてあんなに甘くて素敵な味がするのかしら。だってあの茶色ってあんまり食欲湧かないじゃない?」
当たり前に食べていたが、言われてみればチョコレートのあの色だけ見れば食べたいとは思わない。中からあの女が笑いながら出てきて俺に気付いてハッとした。
「あら、お帰りになったかと思ったわ」
やらかすのを待っていたからいつものように帰らなかったとは言えない。
「先ほどは申し訳なかった」
「お腹でも痛かったの?」
謝罪したが、腹痛のあまりダンスの後にほったらかしたと思われている。そもそも腹痛になるべきはあれほどエビを食べていたこの女の方ではないか。
「いや……確かに調子は悪かったが」
「そう。ねぇ私、チョコレートケーキが食べたいわ。今すぐに」
チョコレートケーキに遮られて言い訳は聞いてもらえなかった。さっさと会場に戻るあの女の後を追いながらカチンとくる。頭を打って少しは大人しくなったのかもしれないが根本は変わっていない。
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