第25話 居城決定

 亜蓮の居城の候補としては、

阿弥陀ヶ峰城あみだがみねじょう(現・東山区)

②嵐山城(現・西京区)

将軍山城しょうぐんやまじょう(現・左京区)

④船岡山城(現・北区)

⑤淀古城(現・伏見区)

 の五つが現実路線だ。

(……船岡山かなぁ)

 濃姫に膝枕されながら、織田信長は考える。

「お決まりになられましたか?」

「いいや、悩むね」

「でしたら1番近い所の方が良いのでは? その分、管理しやすいですし」

 1番近い所で言えば、五つの中で船岡山城だろうか。

「そうだなぁ」

 信長が悩んでいるのは、城郭構造じょうかくこうぞうである。

 淀古城は平城ひらじろでそれ以外は山城やまじろ

 信長としては、山に一々いちいち登るのが面倒だし、万が一反乱が起きた時、山を攻め上がるのも手間がかかる。

 そういった意味では、淀古城の方が良いのだが、如何いかんせん距離があるのが問題だ。

「……悩むなぁ」

信長三郎様が相当、お悩みなら私が決めましょうか?」

 《美濃のまむし》と呼ばれた斎藤道三(1494? ~1556)の娘である濃姫のうひめは、父の血を受け継いでるだけあって戦国大名並の決断力を有していた。

 ちょうを模したかんざしを装着し、切れ目スリットが入った和装の濃姫は、大凡おおよそ同時代の女性の服装とは思えない服飾ファッションである。

 そんな煽情的せんじょうてきな服装の美女にささやかれたら、者は居ない。

「……決めてくれ」

「では、船岡山城で」

「理由は?」

「近いからです」

 船岡山は、300年後の明治3(1870)年に信長とその息子、信忠を主祭神とする神社が創建される為、そういった意味では織田家と関係が深い場所だ。

「単純だな」

「単純ですよ」

 濃姫は微笑むと、信長にかぶさるのであった。


「船岡山城か」

 引っ越し先が決まり、亜蓮は呟く。

 御所と船岡山城の距離は、


・徒歩  堀川通/鞍馬街道/府道38号 経由        2・7㎞ 40分(*1)

・バス  京都市営地下鉄 京都市営バス             36分(*1)

・自動車 今出川通り/府道101号 と 千本通/府道31号 経由 3・3㎞ 11分(*1)


 と現代換算で言えば約3㎞と言った所だ。

 近い分、引っ越すのも楽である。

義父上ちちうえ、船岡山に行ったことありますか?」

「神社に参拝したことあるよ」

「神社? あそこにありましたっけ?」

「あー、勘違いだ。でも、登ったことあるよ」

 井伊直政を抱っこする。

 後に《井伊の赤備あかぞなえ》で有名になる猛将を抱っこ出来るのは、数少ない好機チャンスだ。

「あそこ高いですか?」

「どうだろ? 1町(109・09m)くらいだからねぇ」

 船岡山は標高112m(*2)。

 京都府の平均標高が260m(*3)なので、平均よりかは低いことになる。

義父上ちちうえが以前登った時は、疲れましたか?」

「いや、そうでもないよ。ただ、子供には疲れるかもだけど」

 大人と子供では、体力と歩幅が違う。

 その為、大人が平気な山でも子供には厳しい場合もあるだろう。

「むぅ」

 子供扱いされた直政は、不満げだ。

「義父上はずるいです。子供扱いするなんて」

「元服前は子供だよ」

「元服後も子供扱いするんですよね?」

「そりゃあだしね」

 継父ままちちであるが、その愛は深い。

 嬉しい半分、悔しい気持ちもある直政だ。

「義父上を……超えたいです」

 なりたい、ではなく超えたい。

 直政の目標が定まった。

「その意気だ」

 亜蓮は微笑むと、くしゃくしゃになるまで直政の頭を撫で回すのであった。


 亜蓮とお市は、日々愛し合っている。

 というか、新婚から毎日だ。

 時折、井伊直虎もその交わりに混ざり、亜蓮等は妻妾同衾さいしょうどうきんといった婚姻関係と言えるだろう。

 七夕の夜。

 3人は愛し合った後、縁側から天の川を見上げていた。

 右隣の直虎が言う。

「そろそろ引っ越しですね」

「そうだね。準備出来た?」

「はい。ばっちりです」

「お市は?」

「勿論よ」

 左隣のお市がしな垂れかかる。

 数瞬後すうしゅんご、直虎も。

 2人はれまで面識が無かったが、亜蓮を通じて友好関係を構築し、彼が不在の間は女子会を行う等している。

 妻妾さいしょうが仲良しなのは、重婚じゅうこんや不倫が社会的に認められていない令和の時代には受け入れ難い行為であるが、明治時代の一時期までめかけが公的に認められていた(※1)ように。

 歴史的には、妾が公認だった時代の方が長い。

 

 ※1

 明治3(1870)年12月、『新律綱領』(布告第944)

            妻と妾を同等の二等親と決定

 明治13(1880)年7月、刑法(太政官第36号布告)「妾」に関する条項消失

 明治15(1882)年1月、施行

 ※内務省「刑法の改定は戸籍上に関係無之(関係これなし)」

     「(刑法施行前に入籍した妾は)すべて以前の通り取り扱う」

 明治31(1898)年、戸籍法によって戸籍面から妾の字消失(*4)


 この為、明治初期の28年間は、「国家が妾を公認していた」と言えるのだ。

 芸能人が不倫でCMや番組を降板するような、現在を考えると、如何いかに寛容な社会であったかが分かるだろう。

 亜蓮は2人の頬に接吻後、尋ねる。

「子供達は寝た?」

「ええ」

「幸も寝ましたよ」

 お市が頷き、直虎が答えた。

 今度はお市が尋ねる。

「亜蓮様、今後、御仕事おしごとの方は、如何どうなっています?」

「洛中から洛外に仕事の範囲が広がるよ」

「洛外は治安が悪いから心配ですわね」

 洛中はなんだかんだ御所が近い分、御所は北面武士ほくめんのぶしが守っている為、比較的治安が良い。

 一方、洛外は北面武士ほくめんのぶしの警護対象外の為、治安が悪い。

 戦災孤児や盗賊、落武者おちむしゃ等がうろつき、無政府状態のソマリアを彷彿ほうふつとさせる光景を見ることが出来る。

「最終的には神州しんしゅうを統一させるには、必要不可欠だからね。仕方ないよ」

 直虎が更に密着する。

「……統一は、何時頃いつごろになりましょうか?」

「分からんね。毛利に伊達に北条に上杉、武田、島津……強敵揃いだよ」

「あれ? 長宗我部ちょうそかべは?」

「鳥なき島の蝙蝠こうもりだよ」

 織田信長は、四国を統一した長宗我部氏21代当主・長宗我部元親(1539~1599)を「鳥なき島の蝙蝠」(*5)と表現したとされる。

 もっとも、その様に書かれている文書は、

・18世紀に成立

・鬼や大蛇等が登場

 の為、史実性は低いと考えられており、発言の信憑性の程は定かでない(*6)。

 元親自身、若い頃は《鬼若子》(*5)と戦場では猛将だったが、四国統一後は、信長や羽柴秀吉と対立し、最後は四国の役(1585)で敗れ去った。

「大きく出ましたね」

「四国は平定出来るからね。問題は九州だよ」

「《鬼島津》ですか」

「正面からぶつかると、沢山死人が出るだろうな」

 亜蓮は2人を抱き締めて、平和を祈るのであった。


[参考文献・出典]

*1:グーグルマップ

*2:建勲神社 HP

*3:都道府県別統計とランキングで見る県民性 2018年1月31日

*4:村上 一博「明治前期における妾と裁判」法律論叢 明治大学法律研究所 1998

*5:『土佐物語』

*6:ウィキペディア

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る