第21話 婦人部隊

 侍大将になった以上、亜蓮の家臣団の規模も大きくなる。

「さてと」

 井伊直虎からの報告書を読みつつ、亜蓮はM16の手入れを行う。

「「「……」」」

 それを眺めているのは、

・大宮(11)

・右近(10)

・浮舟(9)

 の3人。

 残りの7人———

・桐(18)

・藤(17)

あおい(16)

・明石(15)

空蝉うつせみ(14)

夕顔ゆうがお(13)

おぼろ(12)

 は、現在、幸姫から初任者研修を受けている。

 御所と武家屋敷での侍女(女官)としての仕事は、其れほど違いが無いのだが、それでも『念には念を入れよ』での初任者研修だ。

 浮舟が言う。

「わかとの、それは何ですか?」

「あー、これはね。銃だよ」

「10?」

「数字じゃなくて武器の方。鉄砲てっぽうだよ」

「「「おー……」」」

 関心があるようで、3人はM16から目を離さない。

「興味ある?」

 3人は、同時にうなずく。

「「「うん」」」

「触らせたいけど、暴発したら駄目だからね」

 ちょっと待って、と一度待機させた亜蓮は、M16から箱型弾倉マガジンを抜く。

 弾が1発も無いことを確認後、亜蓮は、M16を渡す。

「はい」

 この中で最年長の大宮が微笑む。

御優おやさしいですね」

「当然だよ。虎松」

「は」

 傍に控えていた愛息あいそくを呼ぶ。

 呼ばれた直虎は、笑顔で亜蓮の膝の上に座った。

「M16触るの初めてだっけ?」

「そうですね。今までは観るだけだったので」

「まぁなぁ」

 亜蓮は、在日米兵の父親から銃の管理方法について厳しくしつけられた過去を持つ。

 こうも厳重に管理しているのは、アメリカが銃社会だからだ。

 非営利団体(*1)によれば、2023年6月19日時点で、2023年の銃乱射事件の発生件数は311件(*2)。

 これは、同団体が調査開始した2014年以降、どの年よりも早く300件突破したという(*2)。

 2024年に入っても銃乱射事件は無くなることはなく、


 2月12日、ニューヨークの地下鉄で銃乱射事件(*3)

      被害者:少なくとも死者1人、重体1人、重傷4人

      動機 :警察関係者「電車内の喧嘩が発端」

      容疑者:2人の可能性

 2月14日、スーパーボウル優勝行進パレード銃乱射事件(*4)

      被害者:死者1、怪我人22

      動機 :警察「数人の口論が発端」

      容疑者:2人(銃撃で負傷し、入院中)


 と、悲劇が起きている。

 特に後者は祝いの最中さなかの事件であった為、日本でも盛んに報じられ、見聞きした人は多いことだろう。

 銃乱射事件には、何時いつでも何処どこでも起きる時は起きるのだ。

 そういった現実から父親は、亜蓮が幼少期の頃から銃の危険性を教え、一定の年齢に達するまで、銃器に一切触らせることは無かったのである。

 の教えを亜蓮は引き継ぎ、直政等が扱う際には必ず一緒に居て、暴発対策を講じていた。

「自分も撃ってみたいです」

「元服してからな」

「分かりました……」

 しょぼんとした顔だが、我儘わがままは言わない。

 直虎の教育の賜物たまものだろう。

 一方、3人娘は、べたべたと銃身じゅうしん引き金トリガー弾倉マガジン等を触れていく。

「凄いかたい……」

「これ、引くの重いね……」

「たま、いっぱい……」

 その様子を見つつ、亜蓮は考える。

(婦人部隊でも創るか?)

 歴史上の婦人部隊は、以下の通り。 


   ポーランド

女性志願兵軍団OLK

・エミリア・プラテル独立女性大隊

   イギリス

婦人補助空軍WAAF

王立婦人陸軍WRAC

・王立婦人空軍 《WRAF》

・王立婦人海軍 《WRNS/WRENS》

・補助地方義勇軍 《ATS》

   アメリカ

婦人陸軍部隊WAC

   クルド人

クルド女性防衛部隊YPJ

   インド

・ジャーンシー王妃連隊

 ……

 日本では、古代から幕末まで女性兵士の活躍が文献によって示されている。


 戊午ぼごの年

 9月5日

 神武天皇、神武東征時、女軍めのいくさを女坂に設置(*5)。

 11月7日

 女軍を進ませ、敵軍は大兵が来たと思って、尽力して、これと交戦(*6)。


舒明天皇9(637)年

 武人・上毛野形名かみつけののかたな(? ~?)の妻が蝦夷に砦を包囲された際、夫の剣をき、女達に弓を持たせ、一斉に弦を鳴らすことによって、大軍がいると誤認させる機知で、蝦夷を撤退させた(*7)。


 治承4(1180)~寿永3(1184)年 治承・寿永の乱

 女武者・巴御前ともえごぜん(? ~?)が宇治川合戦で源義仲(1154~1184)に付き添って活躍。

 ※彼女の記述は『平家物語』等、後世の創作物に限られており、実在性については疑問視。


 建仁元(1201)年

 建仁の乱が勃発し、越後国にて城長茂じょうながもち(1152~1201)の妹・坂額御前はんがくごぜん(? ~?)が城資盛じょうすけもり(? ~?)等と共に反乱軍の将として蜂起。

 鳥坂城とっさかじょう(現・新潟県胎内市)にこもって弓矢で奮戦するも、両足を射られ捕虜となった(*8)。

『女性の身たりといえども、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。

 人挙て奇特を謂う。

 この合戦の日殊に兵略を施す。

 童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。

 中たるの者死なずと云うこと莫し』(*9)

 

文和2(1353年)

 6月3日

『丹波から京へ進軍する山名時氏の軍勢700~800騎の中に、女騎が多数加わっている』(*10)


天文10(1541)年

 瀬戸内海の大三島にて大祝鶴姫(1526? ~1543?)が、大内氏の軍勢を二度に渡って撃破。

 ※彼女の存在が記されたという『大祝家記』中では実在が未確認の為、その存在は疑問視されている。


 永禄6(1563)年前後

 土佐国において、吉田重康が城を留守にしている間に安芸氏の軍勢が城を攻めてきた為、彼の妻が城内の女房・下女・端女、その他の男を呼び集め、下知げぢをなして兜を着せ、または手で持たせて塀の上へ差し出し、また左右に槍薙刀を持たせ、前後に馬印を出し、大旗小旗を木の枝・塀・柱に結び付けて、まるで大勢が城に籠っているように見せた。

 安芸氏の軍勢は吉田軍は留守だと思っていたが、城中に大勢が居ると誤認し、本拠の安芸城へと撤退した(*11)。


永禄11(1568)年

 遠江国の飯尾連龍いのおつらたつ(? ~1566(*12))の未亡人で曳山城主のお田鶴(? /1550~1568)の方、徳川家康に攻められ落城、討死。

 ※最期については資料によって相違がある為、どんな最期だったかは不明。


永禄12(1569)年

 北条氏邦家臣・諏訪部定勝の妻・妙喜みょうき、居城・日尾城(現・埼玉県秩父郡小鹿野町)に武田勢の山県昌景等が来襲した際、先日の接待宴会で泥酔し寝込んだままの夫に代わって、甲冑を着込んで出陣し、武田勢を撃退(*13)。


同年10月

 大内輝弘の乱において、毛利元就の重臣で高嶺城こうのみねじょう(現・山口県山口市)番の市川経好の妻・市川局いちかわのつぼね(? ~1585)が、九州に出陣して不在の夫の留守中に攻め寄せた大内輝弘勢による攻撃に対し、10日間の籠城を指揮して耐えた(*13)。


天正2(1574)年

 三村元親家臣・上野隆徳の妻・鶴姫(元親の姉妹)、上野氏の本拠の常山城(現・岡山県岡山市)が毛利勢に攻められた際、落城寸前の城から侍女30余名を率いて出撃し、敵将に一騎打ちを申し込んだが拒否され、その後、城に戻り、夫婦と息子は自害(*14)


天正8(1580)年

 筑前長尾城(現・福岡県朝倉市)城主が端午の賀礼がれいの為、古処山城(現・福岡県朝倉市)へ出仕している隙を付いて大友勢が侵攻してきたが、甲斐守夫人が城兵を下知げぢして防戦し撃退(*15)。


天正10(1582)年

 織田信長による甲州征伐において、織田信忠軍が高遠城たかとおじょう(現・長野県伊那市)を攻めた際、

『(籠城する武田方の)諏訪勝右衛門(頼辰)の女房が刀を抜き打ち、切って回り、比類なき働き前代未聞の次第なり』(*16)


天正12(1584)年

 田尻鑑種たじりあきたね(? ~?)の女は父が兵を率いて佐賀城(現・佐賀県佐賀市)の防備に参加する際、鷹尾城たかおじょう(現・福岡県柳川市)に少ない城兵と共に留守を任された。

 9月上旬に大友軍の立花道雪が鷹尾城を攻めると、鑑種の女は部下を督して防戦したが、道雪の火攻に耐えられない城兵は城を脱出開始。

 鑑種の女は薙刀を振って突撃し、敵を斬り払って急に矢部川に飛び入り薙刀を小脇に持ち立ち泳いで対岸に至った。

 そして浜田の民家に身を匿って敵の追跡を免れた(*17)。


天正12(1584)年

 今泉永矩の娘。

 龍造寺四天王の1人、百武賢兼の妻・円久尼(俗名を藤子(斐子)と呼び、法名は因久妙月)。

 女子はかねて大刀無双の誉高く武道の達人であったばかりでなく、博く和漢の学に通じ、婦人としての修養研鑽に努め、その人格は当時衆人の敬慕する所であった。

 また、男勝りの性格と伝えられ、膂力に優れ、薙刀を携えて戦陣に向かう女傑と伝わる。

 天正12(1584)年、夫の討死を知ると仏門に入る。

 同年9月15日、大友軍の立花道雪と高橋紹運が居城である筑後蒲船津城を攻めると、自ら薙刀を携えて城兵を鼓舞して、戸口に立ち兵を指揮し、榎津城主・中野清明の援軍が到着するまでよく持ちこらえて城を守りぬいた(*18)。


天正12(1584)~天正14(1586)年

『戸次伯耆守(立花道雪)は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。

 されど娘(誾千代)ありて勇壮。

 城内の腰元女中、50名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う』(*19)


天正14(1586)年

 大友義鎮家臣で豊後国の鶴崎城(現・大分県大分市)の城主の母・妙林尼みょうりんに(? ~?)、不在の息子に代わり島津勢に対する籠城戦を指揮した。

 島津勢の攻勢を防ぎ切り、後、和睦、開城した(*20)。


天正15(1587)年

 妙林尼、寺司浜の戦いにて島津軍を背後から奇襲し、大勝した(*20)。


天正18(1590)年 小田原征伐

 3月

 上野国の妙印尼、子らの主軍が北条氏に動員され小田原城に籠る状態で、桐生城(柄杓山城ひしゃくやまじょうとも 現・群馬県桐生市)にて孫の由良貞繁ゆらさだしげ 1574~1621)を擁立し、地元の兵を掻き集めて豊臣方に与した。

 豊臣勢による松井田城(現・群馬県安中市)攻め等に参加。

 北条方であった子らは領地没収となったが、一方の妙印尼等の勲功に対し、本領安堵とはいかなかったが常陸国牛久に領地を与えられた(*21)。

 

 慶長年中(1596~1615頃)

 津軽の藤代館の女主人・藤代御前が、津軽為信に攻め込まれ戦死したと伝承(*22)。

慶長5(1600)年

 10月

 関ヶ原合戦後に筑後国の立花宗茂に降伏を促す為、柳川城(現・福岡県柳川市)を目指し進軍した加藤清正が、宗茂の妻・誾千代の武勇を警戒し、彼女の住まう宮永を避けて迂回し進軍した。

 伝承では、柳川の渡船口で鍋島水軍に向けて、誾千代の鉄砲隊が発砲したという(*23)。


慶長19(1614)年 大坂冬の陣

 大坂城に籠城する豊臣秀頼の母・淀殿、武具を着て3~4人の武装した女房を従え城内を巡回し、番所の武士に声をかけ激励していたと伝わる(*24)。


 これらの実例から女性であっても場合によっては戦うのが、この時代の特徴である。

(子供に訓練をするのは、気が引けるものがあるが……時代が時代だからな。戦えないより戦えた方が良い)

 亜蓮は決意すると、直政の頭を優しく撫でるのであった。


[参考文献・出典]

*1:非営利団体「GVAガン・バイオレンス・アーカイブ

*2:フォーブス・ジャパン 2023年6月20日

*3:テレ朝news      2024年2月13日

*4:テレ朝news      2024年2月21日

*5:『日本書紀』戊午の年 9月5日条

*6: 同         11月7日条

*7:『日本書紀』舒明天皇9年条

*8:高橋永行「国語辞書における「板額」の語釈に対する疑義」

  『山形県立米沢女子短期大学紀要』第39巻 山形県立米沢女子短期大学

  2003年12月26日

*9:『吾妻鏡』

*10:洞院公賢の日記『園太暦』6月3日

*11:『土佐物語』巻第五「吉田伊賀介妻女の事」

*12:編・戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館 2006年

*13:コトバンク

*14:BESTT!MES 2018年4月29日

*15:城郭放浪記 HP

*16:『信長公記』

*17:『旧柳川藩志』

*18:『北肥戦記』

*19:『大友文書』

*20: 郷土教育の理論と実際

*21:高橋浩昭「妙印尼」『戦国人名辞典』 吉川弘文館 2006年

*22: 青森県中津軽郡藤代村郷土史

*23:『柳川藩叢書』

*24:『当代記』

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