第6話 織田秀孝という男

大殿おおとの、報告書が出来ました」

「ご苦労、又左またざ、下がって良い」

「は」

 織田信長は、前田利家が作った報告書を黙読し始める。


『【神宮寺亜蓮】

 本名   :神宮寺亜蓮

 別名・異名:無し

 生年   :不明

 年齢   :不明(推定20代前半)

 性別   :男性

 身長   :約6尺(約180㎝)

 体重   :約21貫(約80㎏)

 足の大きさ:12もん(約29㎝)

 出生地  :不明

 経歴   :不明

 素性   :不明

 職業   :浪人?

 外見   :・南蛮(現・外国)系

       ・直毛の短髪

       ・筋肉質

       ・額に風穴のような銃創

       ・黒髪で黒い瞳

 利き腕  :両腕

 住所   :不明

 健康状態 :健康

 性格   :・寡黙かもく

       ・訓練を好む

       ・時間厳守

       ・誰に対しても低姿勢(※本心か如何どうかは不明)

 ……』


 亜蓮をていた利家の見立てである。

 全ての調査項目の内、大凡おおよそ7割が不明だ。

「……ん?」

 信長が注目したのは、交友関係の項目。


『交友関係 :・芳春院と幸姫が頻繁ひんぱんに屋敷に出入り

       ・お市が間者(現・諜報員スパイ)を使い、独自に情報収集中』


(市め。何をしている?)

 浅井長政死去後、服喪ふくも期間に入っているお市なのだが、49日も経たぬ間に妙な動きを見せている。

(後追い自殺対策の為に監視させていたが……その心配は無さそうなのが、現時点での吉報きっぽうかな)

 織田氏は時代的なこともあるのか、不幸な最期を遂げた者が多い。


[早逝]

 信秀(1511~1552 信長の父)(*1)      享年41

 栄輪院えいりんいん(1551? ~1573 信長の妹)享年22(*2)

[戦死]

 信康(? ~1544 犬山城築城主)→加納口かのうぐち合戦(*3)

 信興のぶおき(? ~1570 織田信長の弟)→長島一向一揆(*3)

 信治のぶはる(1544~1570 尾張野府城城主 信長の弟)→宇佐山城合戦(*3)

 信昌(? ~1574)       →第三次長島侵攻

 信次(? ~1574 信長の叔父) →同上(*1)

 信広(1528/1531/1532頃~1574 三河安祥城主 信長の異母兄)→同上(*4)

 秀成(? ~1574 信長の弟)→同上(*3)

 長利ながとし(? ~1582 織田信長の末弟)→本能寺の変で戦死(*5)

[暗殺]

 信光(1516~1556 守山城城主 信長の叔父)→犯人は家臣・坂井孫八郎(*6)

 信行(? /1536~1558 信長の同母弟)→犯人は信長(*7)

[刑死]

 おつやの方(? ~1575 岩村城城主)→逆磔

[自殺]

 信時のぶとき(? ~1556 信長の弟 異母兄説)→切腹(*3)

[事故死]

 秀孝ひでたか(1541頃~1555) 不届き者と誤解され、射殺(*2)


 そういったの為、こくではあるが、病んでいる暇さえ無いのが実情だ。

 そんな中、服喪期間を与えたのは、信長なりの兄妹きょうだい愛なのだが、その配慮を無碍むげにするほど、お市は亜蓮に関心を寄せているようである。

(そういえば)

 と、信長は思い出す。

(亜蓮の色白いろじろさは、秀孝に似ているな)

 弘治こうじ元(1555)年に、不幸にも14~15歳(*3)で射殺された秀孝は、


『15~16(※当時は数え年)にして、御膚おはだ白粉おしろいの如く、たんくわんの唇、柔和な姿、容顔美麗、人に優れていつくしきとも、中々例えにも及び難き御方おかた様なり』(*2)


 と伝えられている(*2)。

(奴はもしかして……秀孝の生まれ変わりなのか?)

 信長の実弟にあたる秀孝(『信長公記』では信行の実弟と明記)は、弘治元(1555)年6月26日(7月24日)に、庄内川付近の松川の渡しで叔父の守山城主・織田信次によって無礼討ちに遭い、死去した(*3)。

 これは信次が家臣等を連れて川狩りに興じていた所、秀孝が供回りもつけずに単騎で乗馬通行をした為、信次の家臣によって、領主の前で下馬せずに通り過ぎようとする不届き者と誤解され、射殺された為である(*2)。

 その後、信次は遺体を見て、初めて秀孝に気付き、主家・信長の報復を恐れて逐電した(*3)。

 信長は単騎で信次の領内を通行していた秀孝自身にも咎はあるとし、その罪を許していた(*2)。

 一方、同じく秀孝の次兄・信行はただちに末森城(現・愛知県名古屋市)から挙兵し、信次旧臣の籠もる守山城下を焼き払う報復を行うものの、信長も兵を出し、信行が出した柴田勝家等の軍勢を追い払ったという(*2)。

 1人の死で織田氏は一時、内紛のような状態になったのは、大きな話でろう。

 15年前の話だが、信長は強烈に覚えている思い出の一つであった。

(奴は確かに15年前に死んだ……その直後に輪廻転生りんねてんしょうでもしたのかな?)

 ルイス・フロイスは自著(*8)で信長は無神論者であり、神仏を否定していた記しているが、実際には、


・寺社に度々戦勝祈願を行っていること

・織田氏と縁が深い神社に熱心な支援(*9)

・「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を使用し、京では法華宗寺院を宿所に選ぶ

 →一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡(*10)

・平手政秀の死を嘆き、菩提を弔う為に寺を建立


 と数々のが存在しているから、その信憑性が乏しいことが指摘されている(*10)。

 実際、無神論者であったかは定かではない。

 但し、迷信による弊害を嫌っていたようで、その代表例が無辺という旅僧にまつわる天正8(1580)年の出来事だ(*11)。


『無辺は石馬寺いしばじ(現・滋賀県東近江市)の栄螺さざえ坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと人々の間で評判となった。

 信長は無辺を引見し、出身地等を幾つか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした。

 信長が、

何処どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。

 火であぶってみよう、火を用意せよ」

 と脅すと、無辺は止むを得ず今度は事実を正直に答えた。

 無辺は不思議な霊験も示すことは出来なかったので、信長は無辺の髪の毛をまばらに削ぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した。

 更に、無辺が迷信を利用して女性に淫らな行いをしていたことが判明した為、信長は無辺を処刑させた』(*3)(*11)


 この出来事から信長は、少なくとも神仏に関しては一定の配慮を行うが、それを亜悪用する人間には容赦しないという姿勢スタンスと言えるだろう。

(迷信に関しては如何どうも思わぬが……もし、輪廻転生ならば嬉しいな)

 違う形ではあるものの、可愛がっていた弟が帰って来たのだ。

 信長は目尻を緩ませ、報告書を読み進めるのであった。


[参考文献・出典]

*1:谷口克広『天下人の父親・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』

  祥伝社〈祥伝社新書〉2017年

*2:西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』東京堂出版 2000年

*3:太田牛一 『信長公記』

*4:監修・谷口克広 高木昭作『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館 1995年

*5: 西ヶ谷恭弘『織田信長事典』新人物往来社 2001年

*6:『甫庵信長記』

*7:谷口克広「織田信勝」『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館 2010年

*8:『日本史』

*9:谷口克広『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』

   学研パブリッシング 2013年

*10:神田千里「ルイス・フロイスの描く織田信長像について」

   『東洋大学文学部紀要. 史学科篇』41号 東洋大学 2015年

*11:脇田修 『織田信長 中世最後の覇者』 中央公論社〈中公新書〉 1987年

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