第30話 月

 メイズ市外で白骨の軍と、生者の軍が衝突を開始した頃。

 黒い棺を背負った女が迷宮を歩んでいた。ずず……ずず……ずず……と一歩ごとに石臼を挽くような音が響く。重い鉄の棺が迷宮の石畳を削っているのだ。


 長身の女は分かれ道に差し掛かる。そこは濁った水に沈んでいるが、女は構わず歩を進める。進む先は左。水底をまばたきもせず歩いていく。

 頭の先まですっかり浸かっても女は表情を変えない。口や鼻から気泡が上がることすらない。


 道行く先にはばらばらに刻まれた肉片が浮かんでいた。蛙に似た生首が目の前に流れてくるが、女は意にも介さない。手で払い除けることすらせず、胴に当たるままにしてそのまま突き進む。


 ずず……ずず……ずず……。石臼を挽く音が濁った水中に響く。だが、それを聞くものは何もいない。迷宮は死の静寂に包まれていた。


 女の身体が水辺を上がる。黒い外套はぐっしょりと濡れ、水を滴らせているが、女はそれを絞ろうとすらしない。そのまま道を進み、壊れた扉を抜け、昇降装置の仕掛けに乗る。


 下階に到着すると、通路上にいくつもの死体が転がっていた。修道服を着た男女だ。それがばらばらに切り刻まれて、臓物を汚らしくぶちまけ、鮮血にまみれて転がっている。道化師の事件の調査に訪れていた教会の神官たちだった。


 女はそれぞれの頭部を見つけると、口の中に銀貨を1枚ずつねじ込んでいく。そしてまた石臼の音をさせながら進んでいく。


「あらあらあら、まあまあまあ、これは変わったお客様のご訪問で」


 道化師の研究所には、別の女が立っていた。頭から白い絹のベールを被り、麻で織られた貫頭衣をまとっている。それだけならば修道女だと思っただろう。しかし、ベールから除くその顔は異形だった。


 眼球が眼窩から飛び出している。

 甲殻の管の先に眼球らしき黒い球がついている。

 唇はなく、歯の代わりに無数の節足が蠢いていた。

 一言で言うならば、ザリガニに人の皮を貼り付けたような顔だった。

 そしてその足元にはバラバラに寸断された神官の死体が転がっていた。


「初めまして、エンバー様。わたくしはカフと申します。骸の王を称えし大アルカナの一角にして――」


 カフを名乗ったザリガニ女が口を利けたのはそこまでだった。エンバーが振り回した棺に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられたのだ。


「なっ、なんて乱暴な!? 貴女は骸の王について知りたいのではなかったの!?」

「急いでいる」


 エンバーの棺が再びカフを襲う。カフは貫頭衣に隠していた甲殻の尻尾で地面を叩き、紙一重でそれを回避した。


「貴女は骸の王の傑作でしょう!? わたくしは骸の王を知っているかもしれないのですよ!? 問答無用で殺してよいのですか!?」

「死ね」


 今度は無数の鎖が蛇のようにうねり、カフに殺到する。カフは地面を何度も転げ回って避けるが、避けきれなかった攻撃が衣服を引き裂いていく。その隙間から覗くのは、やはりザリガニめいた甲殻の殻だった。


 必死にかわしながら、カフは口から水泡を吹き出す。シャボン玉のようなそれは部屋の中に満ち、エンバーの身体に触れては割れてその体を濡らす。


「お話し合いができないようなら、少し大人しくなっていただきますわ」


 貫頭衣の袖から、ハサミ状の両手が現れた。それがバチンと閉じられると、エンバーの身体が腹から両断され、下半身が後ろに倒れ、上半身は前のめりに地面に落ちる。


「おほほほ! わたくしの権能は『切断』。わたくしの泡で濡れたものは、何であろうと真っ二つですの! いかにエンバー様とて、この力にはかないませんわ」


 バチン、バチン、バチン。

 ハサミが閉じられるたび、エンバーの身体が裁断されていく。両腕が根本から切り取られ、両足が膝から切り取られ、頭部が左右に真っ二つに割れて桃色の脳髄がこぼれだす。


「死ね」


 だが、エンバーは止まらない。無数の鎖が再びカフを襲う。カフは泡を吹きながら必死でかわす。もはやベールは脱げ、貫頭衣は原型をとどめていない。その内側から姿を現したのは直立するザリガニのような姿だった。腹には細い副肢で抱えられた紫色の卵鞘があり、後肢の2本だけは人間のそれが生えている。


 それがまさしくザリガニのようにびちびちと暴れ、鎖の攻撃をかわしていく。かすめた鎖が細い副肢をもぎ取り、身体の甲殻を割る。そこからは紫色の粘った体液が吹き出してくる。


「ああっ! もう! その棺が邪魔ですわね! そちらから切るべきでしたか!」


 バチン、バチン、バチン。

 カフのハサミが再び鳴る。しかし、棺はおろか、鎖にも何の影響がない。どちらもカフの泡によって濡れているのは間違いない。カフの『切断』は物理的な作用でも、魔術的な作用でもない。空間の隙間に冥界を召喚することで物体を分かつのだ。現世に存在するものならば、切断できない物体は存在しないはずである。


「い、一体なんですの!? それは!? まさか陰神ノクスの宝具とでも――」


 細く白い指が、カフの口を掴んでいた。肩口から切り落とされたエンバーの腕が地面を跳ね、カフに飛びついたのだ。音楽家のように繊細なその指が、その細さからは信じられない怪力で締め上げ、甲殻をバキバキと割り、歯の代わりとなっていた節足が千切れて紫色の体液を撒き散らかす。


「死ね」


 カフの眼前には、片腕以外の再生を終えたエンバーが立っていた。残りの片腕で黒い棺を掴み、頭上に掲げている。絵にも描かれないような、異常な立ち姿。


「あらあらあら、まあまあまあ。本当に、本当に骸の王の御業は素晴らしいですわ! どうしたらその細腕でそれだけの力が出せますの? 魔術? 奇跡? あるいは科学? ああ、断面を調べてみたい!」


 棺が振り下ろされ、紫の液体が石畳に散らばった。

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