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 康代の自宅のチャイムを鳴らすと、すぐに「入ってきて」とインターフォンから声がした。伯母ではない、その声に聞き覚えがあって、奈江は戸惑う。


 おそるおそる玄関ドアを開けると、康代が履かないような薄ピンクの、見慣れないスニーカーがあった。


「奈江、いらっしゃい。びっくりしたわよ。あなた、よく来てるんですって?」


 リビングに顔を出すと、台所に立つ女の人が話しかけてきて、絶望に似た感情が湧く。


 母が来ると聞いていたら、別の日にしたのに。


 そんな思いにかられたが、奈江は黙ってテーブルにつき、康代から湯呑みをかろうじて笑顔で受け取る。


「真紀子、大福持ってきてくれたよ。もう帰るって言うから、奈江ちゃん、食べていって」


 気遣わしげな表情で康代がそう言うと、お皿を二枚持った真紀子が台所から出てくる。


「緑庵さんのフルーツ大福。奈江も好きでしょう? 12月になると発売されるのよ」


 そう言えば、真紀子は月に一度、実家近くにある和菓子屋緑庵のお菓子を康代に差し入れしているのだった。たまたま今日が、その日だったのだろう。


「お母さんは食べていかないの?」

「お母さんはお父さんと食べるから」


 テーブルの上の紙袋をつかみながら、真紀子はそう言う。父の分は別で購入してあるようだ。


「帰るの?」


 内心、ほっとしながら、奈江は尋ねる。


「お姉さんの顔、見に来ただけだから。奈江もたまにはうちに顔出しなさいよ」

「そうだね……、そのうち」

「なーに、その来る気のない感じ。仕事が忙しいのはわかるけど、正月は来なさいね」


 真紀子はあきれ顔をしながら、康代へ目を移す。


「お姉さんも、正月はうちに来てよ」

「奈江ちゃんと一緒に行くよ」

「そうね、そうして。じゃあ、帰るわね」


 リビングを出ていこうとした真紀子は、ドアの横にある電話台へ何気に視線を向ける。そして、そこに置かれた一枚の名刺を手に取り、つぶやく。


「猪川……」


 以前、秋也の渡した名刺が置かれていたのだろう。秋也との交際はまだ伝えていないのに、彼の名刺に反応を見せた真紀子に、奈江はどきりとする。


「猪川って、彼岸橋の猪川さん?」


 真紀子は名刺をつかんだまま、康代を振り返る。すると、康代は無表情で立ち上がり、彼女から名刺を取り上げる。


「商店街にあるランプの修理屋さん」

「そうなの? てっきり、あのときに生き残った子と交流があるのかと思ったわよ。でもたしか、あの子の名前、秋也くんじゃなかったっけ?」


 再確認したかったのか、取り上げられた名刺をのぞこうとする真紀子に見せまいとするように、康代はエプロンのポケットにしまってしまう。


「帰りなさい、真紀子」


 その素っ気ない態度を見て、真紀子は不服そうにする。


「なによ、ちょっと見せてくれてもいいのに。そうやって隠すってことは、やっぱり彼岸橋の猪川さんなんじゃないの?」

「そうでもいいじゃないの」

「やっぱりそうなの? なんだか、縁起悪いじゃない。あんまり関わりたくないわ」


 真紀子が口をへの字に曲げると、康代がぴしゃりと言う。


「あの子に罪はないだろう」

「怒らないでよ。お姉さんはかまわないかもしれないけど、私は気になるの。奈江と彼は年も近いでしょう? 知り合いになったら心配よ」

「そんな言い方はやめなさい」

「だって、ねぇ……」


 肩をすくめる真紀子がこちらを見るが、奈江は何も言えずに黙っていた。しかし、胸は激しく波を打っていた。


 母は秋也の何かを知っていて、奈江と知り合いになるのを危惧している。そして、伯母もまた、母の懸念の理由を知っている。秋也とは初対面のようなふりをしていたけれど、きっと以前から彼を知っていたのだ……。


「猪川さんちのお孫さんは、誰よりも家族を大切にしてる優しい男の子だよ」


 康代がさとすと、気まずそうにした真紀子が口を開く。


「まだ大野にいるの?」

「あの火事のあと、お孫さんは親戚の方に引き取られて、大野に来たんだよ」

「そうだった? もともと、大野の子じゃなかったんだっけ」


 康代はうなずいて、名刺をポケットから取り出すと、秋也の名前をなぞるように指を滑らせる。


「代表取締役だなんて立派じゃないか。はやく一人前になりたいって、働きながら大学へ通って、電気の難しい資格を取ったって聞いてる。奈江ちゃんとお友だちでも、何も心配いらない子だよ」

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