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パソコンを落として、帰り支度を始める。今日も一日、ミスなく無事に終わった。
普段は周囲に気を配りながら会社を出ているが、今日は秋也との約束があって、多少浮かれていたかもしれない。
ロッカールームで着替えを済ませると、これから横前駅に向かう、と秋也にメールを送り、ちょうどやってきたエレベーターへ何気に乗り込んで、後輩の向井と目を合わせた途端、回れ右をしたくなったが、こらえた。
「早坂先輩、おつかれさまです。あがりですか?」
制服を着ていないのだから、見ればわかるだろう。そう思いつつ、奈江は目を合わせずに、「おつかれさま」と小さな声で言う。
嫌がっている。はためからはそう見えるはずなのに、向井はまったく気にしない。行先ボタンの前に立つ奈江の隣にやってくると、「いやー、今日は大変でしたよ」と、いつものように世間話を始める。
奈江は上の空でうなずきながら、時々、大変だね、とあいづちを打つ。彼にとっては、奈江が聞いているかどうかより、話すことの方が大切で、話題に事欠かずに話し続けている。
エレベーターを降りると、向井はぴたりとついてくる。
「向井くん、今日は残業ないの?」
気になって尋ねると、向井はにんまりする。
「頑張って働きましたからね。久しぶりにはやく帰って、のんびりしますよ」
およそ、のんびりという言葉が似合わない活動的な彼だが、連日の残業はこたえているのだろう。
しかし、奈江にとって、それはあまり好ましい展開ではない。困ったことに、このまま彼と一緒に横前駅まで向かうことになる。
約束の場所を北口にするのではなかった、と今更だが、後悔する。北口は普段利用している改札口で、向井も当然、同じ改札からホームへ入る。
「そう言えば、早坂先輩と帰るの、久しぶりですね」
さけているから当然だ。奈江は「そうだね」とうなずきながら、そわそわとコンコースに踏み込む。
サッと視線を動かしてみるが、北口改札の前に茶髪の青年はいない。ちょっとホッとする。秋也はまだ来ていないようだ。
「あ、向井くん、ごめんね。コンビニに寄って帰るから、先に行って」
「コンビニなら待ってますよ」
罪のない笑顔で彼は言う。あまり、察することが得意ではないのかもしれない。はっきり言えばわかってくれるのだろうけれど、奈江は知られたくないことはあいまいにしておきたかった。
「悪いから」
「別に気にしませんけど」
こちらが気になるのだ。なんとかしてはやく改札に入ってもらいたい。
「時間かかるかもしれないし」
「コンビニで? もしかして先輩、誰かと約束があります? いつもよりおしゃれしてますしね」
変なところで察しがいいのだ。そわそわしながら、向井を帰らせるにはどう言ったらいいだろうかと思案していると、彼が「なんだろ?」とつぶやく。
「どうしたの?」
目をあげると、向井は改札の方に目を向けている。
「いや、なんか、ずっとこっち見てる男がいるんですよ」
「こっち見てる?」
「ほら、あのスーツの人」
「スーツ?」
向井が目で訴える方へ、奈江も顔を向ける。
改札の横にはコンビニがある。その前に、スリムなスーツに袖を通す、スラッと背の高い男の人がいる。少し長めの黒髪をワックスで後ろに流していて、やけに垢抜けたサラリーマンに見える。
その男の人がこちらに向かって手をあげたから、奈江は思わず口走る。
「猪川さん……っ」
パッと向井がこちらを見たから、奈江は口をつぐむ。にやにやする彼が、声をひそめて言う。
「あの人、先輩の彼氏ですか? めちゃくちゃカッコいいじゃないですか」
「違うから」
「でも、あの人と予定があるんですよね。あ、こっちに来た。じゃあ、俺、帰りますね」
向井はサッと奈江から離れると、こちらへ向かってくる秋也とすれ違うようにして改札へ消えていく。
秋也はほんの少し、向井の方へ顔を向けたが、すぐに足早に近づいてくると、いつもと変わらない、人なつこい笑顔を見せる。
「おつかれ、早坂さん」
「あ……、おつかれさまです。あの、猪川さん、ですよね? 髪、染めたんですか?」
「秋になったしね、気分転換。おかしい?」
秋也は前髪をかきあげる。作業着に茶髪だった彼とは見違えている。こんなにスタイルのいい人だったんだと驚きもある。
「おかしくは……ないです」
むしろ、向井の言うように、カッコいい。でも、カッコいいなんて言えなくて、奈江は戸惑うしかできない。
「そう、よかった。じゃあ、行こうか。近くのレストラン、予約してあるから」
「わざわざ、予約を? ありがとうございます」
改札に背を向けて歩き出す彼とともに来た道を戻る。
「さっきの彼、よかったの?」
コンコースを出たところで、秋也はそう尋ねてくる。
「後輩なんです。帰る方向が一緒なので、たまに会うんです」
「ああ、そうなんだ。早坂さんを慕ってるみたいだったね」
「慕われてるのかな……。そんな感じじゃないと思いますけど。誰にでも人なつこく話しかける子なので」
「じゃあ、俺の勘違いかな。てっきり、早坂さんに好意があるのかと思ったよ」
「えっ……、ないですよ。わかるんです。そういうの」
基本的に、社内で奈江を好きな人なんていないだろう。嫌われてはいないけど、好かれてるわけでもないと思っている。
「へぇ、わかるんだ?」
意味ありげににやつくから、秋也はきっと誤解してる。
「本当ですよ。きっと彼、恋人がいるし」
そんな気がするだけだけれど。
「まあ、彼氏じゃないならいいんだよ。変に誤解させたら申し訳ないからね」
「お付き合いしてる人はいないですから」
「そうなの? いないんだ。俺もいないから、一緒だね」
一緒なのがうれしいのだろうか。秋也は上機嫌な笑みを浮かべて、奈江の顔をのぞき込むのだった。
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