第7話 ワカヨタレソツネナラム

ボクは朝一番で上司に呼び出された。


「九月中旬を過ぎて上期の長期休暇を取得していないのは一人だけです」と言われ「予定を立てて休暇を消化するのも仕事です、この際ですから、五年ぶりに帰省することも命じます」と説教口調で言い渡された。


骨董市で理事長に伝えると「持つべきものは良い上司」と冷やかしながら、吉田松陰が辞世の句に詠んだ「親思ふ、心まさる親心、今日の訪れ、何と聞くらん」も引用して、「ヨータ君もきっと賛成しているはずだ」と太鼓判とボクの背中を押してくれた。




ボクは五年ぶりに帰省をした。


一人っ子で我儘に育ったボクは癇性持ちであり、母の極端な干渉と父の時代錯誤な勧奨に辟易していた。


退職を口にしたボクに対して、母は「人事面での配慮を会社に申し出る」と言い張り、父は「法律違反の疑い、国家公務員でないから給料貰っている会社の命令に従え、野球、サッカーにしてもお前は堪え性がない」と面罵するので、その後はお決まりの父と母の諍いになるだけだった。


生命保険会社への転職後、地元関西で十年営業をしたが手術を機に現在の会社に転職して、実家へは足が遠のいていた。


久しぶりに会う両親は随分歳を重ね、角が取れて二人で労り合っており「山を挟んだ近隣市出身のヨータさんが亡くなったことを聞き、ヨータさんの両親にお悔やみを述べに行ったようだった。


最後に参加した里芋の収穫を終えて帰りにヨータさんの妹と立ち寄ったことを覚えていて「気立ての良いお嬢さんを連れて来て、内心では喜んでいた」と聞かされると申し訳ない気持ちになった。




ボクは現在の職務を少しだけ話した。


ヨータさんの死に纏わる職務を守秘義務の範囲と心配を掛けないように配慮して話すと「目を掛けて可愛がってくれたから、一生懸命恩返しをしなさい」と母が言った。


父の背中を流しながら補足説明をすると「やっぱり俺が間違っていた、会社の命令より法律の方が大事だった」と搾り出すように話し、意に沿わぬ出向の末、早期退職した父は人生で初めての歯医者で抜歯による総入れ歯を宣告され、野球で鍛えた逞しかった背中が驚くほど萎びて小さくなっていた。


三人で晩酌をしながら談笑し、二人の近況に耳を傾けていると「二人でウォーキングに参加して、寺社仏閣巡りをしていると働き詰めで気付かなかった季節の移り変わりが何とも言えない」と父が言うと「最近、やっと情緒を理解するようになって、優しくなったから、また帰っておいで」と母親が呑気に言うのを聞くと心からそう思った。


五年間の出奔若しくは冬眠は自分にとって必要な時間であったが、田舎で逼塞する両親にとって耐え難い時間であったことを改めて認識した。




ボクはヨータさんの両親を訪問した。


昨晩、父にヨータさんの両親に訪問する旨を伝えて貰っていたので、身支度をしているとウォーキングに出掛ける格好の両親が「ヨータ君のお墓参りの行き帰りに千里丘陵のウォーキングに誘われた」と白状した。


物見遊山ではないと思ったが、折角の機会であり、ヨータさんのそれを望んでいるのではないかと思い直し、三人で福知山線経由京都線に乗って、小旅行に出掛けた。


マンションに到着するとヨータさんの両親も待ち侘びていたようで「ヨータも家の中の狭い仏壇に線香を供えて貰うよりもお墓に花を手向けて貰う方が喜びます」と社交辞令抜きで素直に言ってくれたので、「善は急げ」と早速出発した。


以前、ヨータさんの妹は「団塊の世代は男性が会社に忠誠を尽くす社畜となり、家族を殆ど顧みない」と言い「残された女性の選択肢は会社の序列を引き継ぐ社宅型で耐え忍ぶ若しくは独自の生態系に基づく団地型に活路を見出すだけしかなかった」と指摘した。


「社宅型に疲れて炙り出された団地型の女性は夫ではなく、子どもに自分を仮託することにより上下関係を構築して、優越感に浸る自慢と劣等感に苛まれ陰での悪口に捌け口を見出す傾向がある」と説明した。


還暦を過ぎ、古稀に近付くと過去の恩讐を超えて屈託なく、同世代の思い出話に花を咲かせているようで、ボクも感慨深く横で耳を傾けていた。


「今更、私の郷里のお墓でもなし、家内が生まれ育った場所も検討したのですが、姉妹がヨータは寂しがり屋だからとここの購入を強く進めてくれたので」と感慨深そうに経緯を説明した。




ボクは帰省に秘めた目的を遂行した。


両親同士の四方山話が一段落したので「ヨータさんと生前から懇意にしていた方がいたら紹介して頂きたい」と切り出した。


小学生の頃からの同級生は疎遠になってしまっているが、大規模団地の小学校と一緒になる中学校からの親友、大学時代のアルバイトが切っ掛けで懇意になり、卒業旅行の中国に一緒に行った変わり種であり、出身地に隣接する町議会議員、証券を早期退職して実家のある北陸でなく、神戸を終の棲家と決めて定住して個人投資家を生業としている先輩からなる異色な三名の連絡先を教えてくれた。




ボクは中学校以来の親友に連絡をした。


彼は生駒山麓の住居でなく、大阪市内の事務所を指定したので、訪問すると「本当に無念だ」と哀悼の意を示し「ヨータは中学校でも旧小学校意識を全く持たずに近付いて、いつの間にか仲良くなっていた」と懐かしそうに話した。


「人当たりが良く、中学校に入って不良になった連中とも深入りはせずに旧交は持ち続けていた」と話し、元妻との出会いについては「三年で同級生になり、一方的に入れあげていた。


当時はサッカー部に所属して人気もあったヨータに対し、長距離選手特有の禁欲的で日焼けしており、地味な印象しかなかった」と話してくれた。


「勉強は全然していなかった割には、成績は良かったけれど兵庫県方式の学区外入試には少し厳しいと言われていたが、誰の助言にも耳を貸さず元妻を追って猛勉強して無理矢理に挑戦したが、失敗して学区ではない高校への入学が決まると寿司屋になるからと言って両親を困らせ、母親が教育委員会に日参した噂もある」と笑った。


「卒業式に告白して付き合うことになったそうだが、当時は携帯電話もなかったので頻繁に連絡されると迷惑です、学生の本分は学業ですと念押しされたと言って、彼女には頭が上がらず、言いなりになっており、別れた方が良いと助言した」という裏話も教えてくれた。


高校二年の時に彼女が大病をして入院して連絡が途絶えたと聞いたが「東京の大学で庭園の設計及び監理を学び、ヨータは関西の大学に進学したので、社会人以前の逸話に関してはそれ以上のことは知らない」と言ったので、丁重にお礼を言って別れた。


正直言うとヨータさんと元妻の関係で新しい発見は皆無であったものの対等ではなく、常に尊大な態度を取る元妻の発芽が垣間見られたことが収穫であった。




ボクは町議会議員にも連絡した。


事前に下調べをすると彼は元妻の高校で一年後輩(大病後は同級生)にあたり、旧商大の法学部で弁護士を目指していたが、深夜のレンタルビデオショップでヨータさんの同僚であるバイト仲間に競馬を教わったことで、ドップリ浸かってしまった挙句スポーツ新聞で競馬番を経て、昨年の統一地方選挙で町議会議員に転身した。


ここまでは良かったが居住用件を満たしていないと当選無効を宣言され、兵庫県選挙管理委員会を訴え、大阪高等裁判所でも棄却され土俵際に追い込まれていた。


議会が閉会中とあって気楽な格好で現れた彼は「惜しい人を亡くした」とだけ哀悼の念を示すと「選挙でも町にある唯一の高校出身なので、同級生を紹介してくれ、何かと手伝ってくれた」と話した。


「辛気臭い話はここまでで、高校時代は元妻と連絡取れなくなった後は自暴自棄になって、色々と話題を提供して、実直な家族を困らせたようです」と囁いたので「そのことで恨まれていることはありますか」と質問すると「学生時代の恋愛ごっこなんて虫に刺されたようなものだから」と一蹴した。


ヨータさんが指定校推薦の面接で「公認会計士を目指す」と宣言すると教授に「それなら商学部でしょう」と言われ「撤回します」と返事してしまい、小論文と整合性が取れないから「絶対落ちた」と落ち込んでいたという噂や指定校推薦だから体育会と意気込んで自動車部に入ると父から「中卒、高卒の奴等と同じ遊びなんかに現を抜かすな」と学費を差し止められ、一転して苦学生になった秘話を面白可笑しく話してくれた。


話が脱線してしまい収集が付かなくなるのを恐れて「元妻とヨータさんの妹に関する情報はないですか」と情報提供を促すと「言うよねぇ」でお馴染みとなったニューハーフのショーパブやひっかけ橋でナンパして遊んでばかりいた印象が強いが、一人だけ本気で惚れていた女性の存在を仄めかした。




ボクはその女性について詳しく聞いた。


留年で同級生となった元妻、ヨータさん、そしてその女性から直接知り得たであろう情報を不承不承ながら次のように語った。


兵庫県は南を大阪湾、北を日本海に面しており、北海道、鹿児島県、沖縄県を除く本州では青森県、山口県だけの特徴を持ち、ヨータさんとボクはやや南に位置する田舎出身であり、尼崎市、西宮市、神戸市、明石市、姫路市と都市は南の平野部に偏在し、中部及び北部は大半が山地若しくは丘陵であり、その女性は北部の山地にある進学校からヨータさんとボクの母校に入学し、学生寮に入って通学していた。


ヨータさんと同様に指定校推薦の面接で「公認会計士なら商学部でしょう」と指摘されると持ち前の意地を見せて大学認定で商学部に縁の深い会計研究会に籍を置きながら、学業も頗る優秀な成績を修めていた。


そんな女性とヨータさんが接点を持ったのは、自動車部の主将に「大学から横並びで始める」とか「走行会や練習会も充分ある」と勧誘されたが、実際には練習車両はなく個人練習だけであった。


フィギアと呼ばれる車庫入れのような大会に向けて合宿が春と秋に二回あってその間は必修、語学とキリ教(キリスト教学)のみ出席可能でパン教(一般教養)は欠席を余儀なくされた。


そのような愚痴を話しているうちに「合宿中は可能であれば代返を受け持ち、試験前には講義ノートをコピーさせてポイントを解説してくれる」と一方的に有り難い片務契約を結ぶことが出来たのが切っ掛けだった。


合宿以外は最前列で一緒に講義を受け、図書館で勉強しているうちに学校外でも一緒に遊ぶ仲になっていた。


元妻も両方知る彼は特別美人ではないが愛嬌のある女性と語り、バイト仲間と深夜明けに車で淡路島に行く時に学生寮の近くまで迎えに行ったことも覚えていた。


元妻と女性の相違点を尋ねると「当時は携帯電話もなかったので、待ち合わせ場所と時間を一度決定すると連絡手段がなく、遅刻すると大変だった」と言い「元妻は遅刻すると烈火の如く怒ったが、女性は何かあったか心配をしてくれた」と説明した。


そんな女性が珍しくヨータさんに相談したのが「学生寮から出て、下宿をしたい」であり、流石のヨータさんも「同棲はまだ」と躊躇すると「そういうことではなくて」と言って詳しい説明をした。


中学時代は県を代表する長距離選手で有名校から推薦も受けたが地元の進学校で活動していたが、膝や腰の故障に加え、強豪校で蔓延している鉄分注射の実態を知るにつけ、スポーツの在り方に疑問を感じて二年で退部したが、学生寮では体育会陸上部の入部勧誘を連日受け続けて困惑していた。


母子家庭で育った女性は出来る限り安い下宿を探し、ヨータさんは治安を懸念して二階を勧めたが、5000円の差額を惜しんで一階に引っ越して住むことになった。


試験の際は完全に依存し、それ以外の時は親友として付き合い、食費の足しにと言っては実家で作った万願寺トウガラシやオクラをビニール袋で持っていくことをヨータさんの両親も喜び、恒例である里芋の収穫にも招待する仲になっていた。




ボクは女性の心境は理解出来なかった。


女性は華美を好まず地味な服装であり、最寄りの駅で退院して高校に通っていた元妻と偶然出会い「中学校の同級生」と「大学の同級生」とお互いを紹介して別れた。


女性は何の関心も示さず、その場で終わったのだが、元妻から久しぶりに電話があり「もっとお洒落な大学だと思っていた」と嫌味を言って「私達まだ別れていないよね」と念押しをされ、気弱なヨータさんは気押されて「う、うん」としか言えず、微妙な三角関係が始まった。


実は女性は元妻が中学時代に長距離選手として県大会の壁と打倒を誓っていた本人であり、負けず嫌いの元妻はヨータさんには全く未練もなかったが、女性の存在に対抗心を燃やしたのだった。


ヨータさんは週末にゴルフ場のキャディ、それ以外はレンタルビデオショップの掛け持ちでバイト代を稼ぎ、学費と部費そして些少ながら遊興費を賄い続けていた。


結局、ヨータさんは女性を捨てて、元妻を選択したことは疑いようがなく「その女性はヨータさんのことを憎んでいるのではありませんか」と尋ねた。




ボクは三角関係の結末に戦慄した。


ヨータさんと女性はいつものように秋学期末試験に向けて、図書館で勉強をして普段通り別れた。


運命の1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の早朝にヨータさんが自宅に現れ「下宿まで救出に行くから原チャ(原動機付自転車)で一緒に来てくれ」と言われて急いで向かったが、到着した瞬間無残にも一階部分は見る影もなく、消防署員が多数終結しており、緊迫した状況を物語っていた。


ヨータさんは下宿を紹介したことを深く悩み、女性の母親にお詫びの手紙を書いたみたいであったが「悲しいことですが、誰の責任でもありません、あなたの人生を大事に生きて下さい」と返事があった以降は連絡していないとだけ聞いた。


ヨータさんは何かに没頭するように大学が主催するボランティアとして連日、神戸市の避難所を訪問し、夜警、水汲み、食料の配膳や避難所間の輸送に従事した。


屈託のない少年のような笑顔はそれ以降翳りのある老人のような泣き顔のように変わったと彼は言い、ボクも何時でもヨータさんは何処か醒めていて、心から楽しんでいるように何故か感じなかった理由が少しだけだが理解出来た気がした。


地元に戻って夕食をしながら最近のことについても話したいと言われたが「母が特製カレーライスを作って待っているので、またの機会にして下さい」と断ると「大切な話なので、今週中に時間を作ってくれ、昔話にも意味はあるが、今必要としている情報だ」と言って食い下がった。


明日は証券の先輩と約束があり、明後日は両親とヨータさんの両親と一緒にヨータさんの故郷にある私鉄が主催する北極星信仰の世界的聖地である能勢妙見山ウォーキングに参加する予定となっており、隣町なので夕方から再度会う約束をして別れた。




ボクは両親との団欒だけは外せなかった。


ドアを開けると懐かしい我が家特製のカレーライスに食欲を誘われ堪能していたが、農家育ちの父は丼や茶漬け等を以前は好まなかったが美味しそうに食べていた。


そのことをボクが指摘すると「食わず嫌いだっただけで、今は楽しみにしている」と味覚若しくは性格が一変したようだった。


母は五年前にボクが胆嚢の摘出手術した時に有無を言わさず転院させて業務上の配慮を直談判した結果、東京勤務になったことを後悔していた。


「入院先が祖父の亡くなった病院だと簡単な手術と聞いていたのに腹膜炎を併発して最悪の結果となったので、年齢も病名も同じだったから縁起が悪くて嫌だった」と理由を明らかにした。


「創業の地が大阪だけど、本社部門は東京だったので誤算だった」と後悔していたが「父と余生を楽しみ、こうして三人で食卓を囲めることも幸せだ」と話しを纏めると父も傍らで大きく頷いていた。




ボクは証券の先輩からも話を聞いた。


シンクタンクの元同僚からも外資系親会社から出向して来た所長の弱い者虐めについては聞いていたが、インターンシップの留学生を騙して、条件の悪い契約社員のままで雇い続けていた。


一方で幹部によるお手盛り海外出張の皺寄せによる育成費及び研修費の切り捨ては人材流出を招く結果となったが、ヨータさんは相変わらず捨て身の内部通報した結果、報復として外資系親会社の本尊である銀行に出向することになった。


出向先の銀行は日本の銀行法による厳しい規制に違反してプライベートバンク撤退直後であった為、規律が乱れブルー及びテラーと呼ばれる一般顧客及び窓口対応社員は有名人の個人情報を閲覧だけを数少ない楽しみとしていた。


白人至上主義の弊害で提携英会話学校講師の口座開設を率先して担当するのに有色人種の富裕層は待ち惚けを食らう有様であり、ゴールドと呼ばれる富裕層担当社員はパッケージ(馘首)に備えて自室で転職活動に奔走していた。


システム投資も抑制の煽りで時代遅れであり、英語の壁にも悩まされて鬱憤が堆積しているようであったが、ヨータさんと同様に出向しており、何らかの問題を抱えていたに違いない。


その後、親会社銀行に取って代わった際、早期退職制度を利用して退職したが、大阪勤務時代以降もヨータさんとの交流は続いた。


「外資系となった時に早期退職した連中は先見の明があり、巨額な退職金を受け取った上に銀行系となった機に復帰して要職に付いているが、残留組は出戻り組の奴等や銀行出向者だけでなく、銀行にも顎で使われて仕組債販売員として糊口を凌いでいる」と嘆いていた。


ヨータさんは東京でM&Aを扱う企業情報部の内部管理責任者をしていた際に銀行出身の役員によるインサイダー疑惑を内部通報して口封じの為、大阪に飛ばされて親会社は統合を繰り返していたが主流である大阪の銀行による地元での阿漕な手段を内部通報したことにより東京に舞い戻り、閑職である本社社員の身分であった。


証券や外資系の悪弊を嘆いていたヨータさんは銀行による刷新を夢見て奔走して内部管理体制を充実させたが、潔癖で融通の利かないヨータさんは証券よりも悪辣な銀行にとって目障りな存在となっていた。


先輩の話は同期や元同僚が指摘した内容をより具体的な事例を示しており、大変興味のある内容であった。


ヨータさんを評して「戦国の三英傑の特徴を言い表すのにホトトギスを用い、昭和の家電王が「それもまたよし」と風流を気取ったが、ヨータは「駕籠から出そう」という発想を持っていた」と説明したのには、言い得て妙だとその観察眼に感心した。


「神戸で逼塞しており、暇を持て余しているので、また気軽に声を掛けてくれ」とボクとは面識こそなかったが一応は証券の後輩なので、名残惜しそうに別れた。




ボクは初めて能勢妙見山に登った。


登山の道すがらボクは気が早いヨータさんが妹と双方の両親で会食を目論んだ時のことを思い出していた。


ヨータさんの母親がヨータさんの自慢ばかりするのに母が業を煮やして死んだ祖父が陸軍士官学校を優秀な成績で卒業して満洲で宮様の部隊で作戦参謀をしていたと自慢するとヨータさんの母親の表情が凍りつき「私の父は鉱山技師で終戦間際になって招集されて、ビルマでの戦闘で亡くなり、遺骨さえ帰って来ませんでした」と言ったので雰囲気が悪くなってしまった。


その場を取り繕ったのは父であり「うちの親父は農家なのに近眼の虚弱体質で丙種だったので命拾いをしました」とお道化てみせ「戦争による悲劇を繰り返してはいけない」とヨータさんの父親が話題を打ち切った。


母は高校時代に社会の教師に祖父のことで「佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争に参加して自己反省しろ」と揶揄されて以来、大の日教組嫌いであり、父も理事長と同様に「学生運動は金持ちの道楽、その頃は生きることだけで必死やった」と公言していた。


会食後に両親共に「ヨータさんの母親はまるで「ヨータ・ヨータ教」の信者みたいだ、主役である妹の話題は口にもしなかった」と言って笑っていたが、ボクも「ヨータ・ヨータ教」の信者かも知れないと思いながら、不倶戴天の好敵手みたいに目の敵にするか両極端な魅力を持っていた。


山頂ではボランティアガイドの話に耳を傾けていると薩長同盟の立役者である坂本龍馬が免許皆伝を受けた北辰一刀流と関わりが深いことや本能寺の変を企てた明智光秀と家紋が桔梗で同じであることを詳細に説明していたので、興味深く聞いていたが、ヨータさんが会食でボクに能勢妙見山を登ろうと言ったのが単なる郷土自慢でないことが、今更ながら理解出来たような気がした。


昼食は所謂「少年野球弁当」で弁当とは名ばかりで特大おにぎりの中におかずを入れるだけでアルミホイルに包んだ単純な食事なので、少しがっかりしたがヨータさんの両親も同様であり、登山やウォーキングには最適なのだと思い直して食べてみると野外で豪快に齧り付く醍醐味を実感した。


終始和やかな雰囲気であり、近所付き合いが苦手である双方の両親にとって適当な距離感と趣味を同じくしたことは幸いであって「今後も一緒に行きましょう」と約束し合っていた。




ボクは再び町会議員の話を聞いた。


町唯一の入口に当たる駅で待ち合わせると彼の車に乗せられて町にある農産物販売センターや食事処を備えた何の変哲もない道の駅に案内された。


一通り見学すると買い物もせずに踵を返すように道の駅を後にして彼の自宅兼事務所に案内された。


ヨータさんは町に唯一存在する県立高校を卒業していたが、彼と同様に隣市の出身であり、隣市は長期間続いた市政による汚職によって市長が逮捕され、市議会議長が自殺してしまい、大量に逮捕若しくは書類送検される不名誉な事件があり、周辺市でも市長が逮捕され「さんずい(汚職)銀座」と揶揄されていた。


この三市町は隣市に東谷、周辺市に西谷が中心から離れた僻地に存在し、町の中心にも中谷が存在しており、行政による色分けよりも濃厚な結び付きを持っていた。


陰の総理と呼ばれた野中広務が青雲の志で葬り去った宴会政治の舞台となった町も京都府ながら地理的にも近いので、残滓とも噂されていた。


スポーツ新聞を早期退職して町議会議員選挙に打って出た彼は政党の応援を受けない手弁当での選挙であり「道の駅移転問題」を争点に立候補者が乱立したが、見事当選したのも束の間、居住実態がないと当選無効の裁定を食らった。


選挙前は移転賛成派が多数を占めている状態であったが、選挙後は反対派が逆転したので「招かざれる客」であった彼は生贄の羊にされた。


この見せしめは効果覿面であり、日和見の反対派は事前説明を聞くや否や賛成派に寝返り、町長に対する追認機関に成り下がって、選挙結果を蔑ろにしてしまった。


東京に居住していたヨータさんは物理的な問題もあり、全面協力とはほど遠いながら出来る限りの援助をしており、疑惑の本尊である不動産を第三者に算定させる役割も担っていた。


移転先は典型的な農地であり、取引事例比較は対象が皆無であり、公示地価、路線価での補正も困難を極めたが、相続税評価額でも資産価値は認め難く、予定価格は過大で借地権で対応すれば費用は100分の一程度で済む結果であった。


抑々「道の駅移転問題」は町の事業規模では一大事業であり、目玉である温浴施設は周囲にも多数存在しており、飽和状態で民業圧迫の典型例であり、実際に隣市にある飲料メーカーの創業地に同様の施設が開設されたものの、閑古鳥が鳴いている状態のまま、日を待たずして閉鎖に追い込まれていた。


ヨータさんは「虎の尾を踏み」消されたのだと真面目に話したが「本人でなく東京に住むヨータさんを狙うのは荒唐無稽で飛躍した推論だ」とボクが指摘すると「当選無効に対して異議申し立て中であり、町議会議員として活動する私への攻撃は差し控えているのだと思う」と反論した。


町長は紳士の仮面を拭い去り「おい、何笑てんのや、お前」と彼を町議会本会議でも恫喝しており、ヨータさんも少なからず嫌がらせと思われる無言電話や差出人不明で隣市から配送された郵便物を受け取っていた。


残念ながら物証となる郵便物はヨータさんから受け取っていなかったので、確証は得られなかったが貴重な情報提供に感謝して、今後も必要に応じて連絡を取ることを約束して別れた。


帰宅すると二日目のカレーライスにハンバーグだったので「ボクは嬉しいけど、普段通りで大丈夫だ」と伝えたが「二人でもカレーライスの時は定番だから」と父が答えた。


実家での最後の夜を過ごして、明日は朝一番の始発で東京に戻って日曜日の骨董市に行こうと決めていた。




ボクは骨董市で理事長に相談した。


帰省中に見聞きしたことを理事長に伝えると「阪神・淡路大震災、新潟県中越地震及び東日本大震災で奇しくも繋がっていることは薄々感じていたが完全に繋がった」と関心を示したが、「道の駅移転問題については現時点では何とも言えない」と語った。


以前、ヨータさんが語っていた「大阪は反骨精神があり、議員や警察等の権威よりも暴力団を用いる傾向があり、反対に東京では下町等の例外を除くと暴力団は疎遠であり、権威を用いるが、名古屋では案件毎に両者を使い分ける強かさを持っている」と言っていたことを引き合いに尋ねた。


理事長は慎重な態度のまま「暴力団を十把一絡げにしているが、歴史が古い的屋と江戸時代の無宿に源流を求める博徒や明治時代以降と考えられる沖仲仕と戦後の愚連隊等があって事情は複雑だ」と明確な回答を避け「一概には言えないが、通常はフィクサーと呼ばれる仲介する人物を通して実行されるが、未成熟な部分が残っているかも知れない」とだけ語り「百貨店の美術品や宝石は国内価格であり、オークションも出来レースであることが多い」と耳打ちした。


具体的には号数から大凡の市場価値が産出される利便性を悪用して、表に出せない賄賂として美術品が利用され、オークションでも市場価値まではフィクサーが保証することにより、当初予定した金額の授受を固定できる仕組みとなっていた。


「現在は中国人の爆買いに隠れた表裏一体として故買集団があり、日曜日は骨董市をしながら、平日は遊技場や場外馬券場に趣味と実益を兼ねて、バブル崩壊以降ずっと警察の協力者である」と秘密も教えてくれた。


帰省前に話した「三悪についての議論にも続きがあり、ヨータ君は医者、弁護士、議員の所業は過去と現在の問題であり、教師による教育、それにも増して両親による躾が重要との考えで一致した」と教えてくれた。


何よりも足が遠のいていた実家に五年ぶりに帰省して親孝行が出来たこと及びヨータさんの両親と共に墓前報告が出来たことが最大の収穫であった。




ボクは上司にも業務外報告をした。


上司は五年前の配置転換による上京の経緯を心配していたので「無関係ではないので肩の荷が下りた」と喜び「会社との軋轢は明確となっているが、それ以外の問題は憶測の域を超えていない」と慎重な姿勢を取り、残り三名となった保険金受取人の調査を継続するように指示した。


参考文献


「「自虐史観」の病理」藤岡信勝 文春文庫


「能勢妙見山の東京別院」日蓮宗霊場能勢妙見山ホームページ


「市政崩壊 めざめたベッドタウン川西事件リポート」毎日新聞川西事件取材班


「野中広務 差別と暴力」魚住昭 講談社文庫


「被差別部落の青春」角岡伸彦 講談社文庫


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