18 「本」
「そりゃ、気になって当然だろう。自分の子供だ。気になって何が悪い」
(……子供?)
ニハマチは咄嗟に口を挟もうとしたところで、思い留まった。静かに、男が喋り出すのを待っているのがいいと考えた。
男はまた沈黙したあと、誰に喋りかけるでもない様子で呟くように話し始めた。
「俺が悪いとはいえ、なあ。ちょっとは顔を見ないと安心できないよ。俺が悪いんだ。でも、俺がしたことが間違っていたとは思ってない。これはあいつのためなんだ……」
ぐっと
「養い所に、おじさんの『子供』がいるんだね」
「……ああ、そうだ」
「おじさんは、自分の子供の顔が見たいんだね。でも、それだったら何故、おじさんは子供と離れているんだい? ……何故、一緒に暮らさないの?」
「……俺といない方が、あいつのためになる。あいつを養い所に送ったのは俺自身だ」
不思議な森での生活がニハマチの頭をよぎる。
――ニハマチは両親の顔を知らない。自らがどのような出自であるかも、「あの森」が実際どういった場所であるかもはっきりとは知らない。森の動物たちと育ったがために、ニハマチは周囲の子供たちや世間と呼べるような環境と自身を比べるという経験をしてこなかったが、親というのは普通、愛情を持って自らの子供を育てること、それを放棄することは普通ではないというのは理解していた。
しかし、自らが森で育った記憶を思い返し、仮に両親という存在に彼が真っ当に育てられていたとしても、それに全く劣るものではないと感じていた。ニハマチが森で育った記憶は、とても力強く、そして知恵に溢れ、暖かいものだった。森全体が彼を育てた親と言って良かった。
その環境と「養い所」というものを比べてみた。養い所も、森と同じような場所と言っていい気がした。共に生活する仲間は楽しく、刺激に溢れ、日々の仕事は新鮮で知恵と技術に満ち、マレーという母は、厳しくも暖かい。
ニハマチは、自らが森で育ったそのことは、両親が自分に与えた試練なのではないかと考えることがあった。何か理由があって、自らの手で育てるのをやめ、森という存在に託した。
もしそうなのであれば……と、希望を込めて、ニハマチはゆっくりと男に聞いた。
「……自分が育てるよりも、養い所に預けた方がいいと考えたのかい?」
男の目の中で光が僅かに移ろって、緩慢に頷いた。
「おじさんの話、もっと詳しく聞きたい。俺でよかったら、話したいことを俺に話してくれないか?」
ニハマチはそこで、酒を飲むという行為が何かの発散のためでもあるということを思い出した。怒りや悲しみに苛まれたとき、喜びを爆発させたいとき、物語の中で人は酒を飲む。
「何でも、話したいことを話してくれよ。おじさんのその子供のことをさ」
男は天井を仰いだ。すると、その酔って焦点の合わない瞳に、遠く懐かしげで虚ろな光と、何処か嬉しそうな笑みが浮かんだ。男は思い出した記憶を独り言のように零すところから話し始めた。
「……『あいつ』と初めてあったのは、いつだったか、もう15年前のことだなあ。あんなに変な女は、後にも先にも見たことがない。あんなに野望じみた信念を持った人間は……。あいつはなあ、考古学者だったんだぜ? この街に遺物があるかもしれないって言うんだ。妄想好きの変人と思ったよ……いや、だけど、実際に『そういうもの』を見せられた。いかにも旅人って感じのでかい荷を担いで、あいつはこの街に来たんだ。そこに色んな道具が入ってたな。話しただけじゃ信じてくれねえだろうけど、見れば誰でも驚くような、魔法の道具だ。あいつは、世界のそこら中でそういうものを集めて、また別のそういうものを集めるために使うんだよ。……ただ、それだけじゃない。本当に驚くのはそういう不思議な道具のことじゃない……」
酔いながら記憶を
「この世界とは……別の世界があることを知っていたのさ」
ニハマチは息を吞んだ。その言葉は明らかに、彼が「目指すべき場所」のことを指していると思われたからだ。呪文のように思い出されるあの場所。恐らくこの地では、何らかの原因によって声に出すことが許されぬ場所の名前が。
(……『■■■・■■■■』)
「なあ、お前」
「……うん」
「この世界よりも遥かな上、てっぺんより更に上に、この世界とはまた違った世界があると言ったら、お前は信じるか?」
「……信じるよ。それは本当にあるんだ。俺も知っているよ」
「そうかい。はは。そりゃいいねえ。お前のようなやつは珍しいよ。あいつの言うことには、あいつと同じようにそれを知ってる人間っていうのは、世界には何人かいるらしいからな」
男は嬉しそうに笑った。その目はいまや、懐かしく楽しいものを思い出したときの目になって、活力が芽生えたのか、身振り手振りも増え、男の口調は淀みのないものになっていった。
男は天井を見詰めたまま、悪巧みをしているかのような笑みを浮かべた。そして、右手の人差し指を立てた。
「……じゃあ、これは知ってるか? 空に浮かぶ三つの月。――あれは、本当は三つじゃなくて一つなんだぜ」
「……!」
(それって、キツツキが言ってた……!)
「おじさん、もしかして――」
「あいつが話す不思議な話の中で、一番最初に教えて貰ったやつだ。あいつが言うには、バランスを取るためにそうなっているらしい。うち一つは本物だが、残りの二つは調整をするために造られた……駄目だ、思いだせねえ」
「……おじさん、あの」
「うん? なんだ?」
男は腕だけを伸ばして骨付きステーキを手に取り、旨そうに齧り付いた。
「おじさんの子供というのは、もしかして、『キツツキ』という名前じゃないか?」
「……いや、違う。俺の子の名前は『キース』だ。あいつと同じ、暗い緑色の髪だ。利口なやつだったよ。それはもう、あいつに似た、賢い子供だ。俺みたいな馬鹿と暮らすには、もったいない秀才だから……」
(……そうか。養い所に入ってからマレーに新しい名前を貰ったんだろう。でも、この人が話している子供の特徴はキツツキととても似ている。……やはり、そうなんだろう)
「あいつは、キースを残したまま死んじまったんだよ。産んでから三年ぐらいの頃だ。俺はキースの寝顔を見ながら、何度も考えたよ。俺がこの子を育てることができるかってな。そりゃ、普通に育てるだけなら俺にも自信があった。育児を諦めたわけじゃない。そこはきっぱりと否定できる。ただ、俺は、死んだあいつの意思に従ったまでだ。あいつは、キースは自分の意思を継いで『
「『りてん』……」
「そうだ。
(なるほど……この世界ではそう呼べばいいのか)
「あいつは……キースの母親は、『離天』に行くために旅を続けていた。俺があいつと出会って、キースが生まれた。果たして、あいつにとって良かったことなのか……誰にも分かりはしねえ。だが、あいつは元々、無茶をし過ぎて先の長くない体だった。自分が五年も十年も生きられないと分かってた。言ってたなあ。キースが生まれてすぐ、あいつ、『これで安心して死ねる』ってな。……ったく、無責任なやつだよ」
男は、しかし、言葉とは裏腹な笑みを浮かべた。
「……だから、養い所に送ったんだよ。あいつと似て穏やかで賢くて、しかし、隠れた探検家でもあった。あいつと同じ目をしていたんだよ。こりゃ、俺の手に負えないと思ったさ。俺の元にいたら、あいつはただの凡人になっちまうからな。可愛い子には旅をさせるとか、まあ、そういう感じだ……」
話をそこで切ると、男は長いため息を付いた。そして、大きなげっぷをした。ニハマチが笑うと、男は気持ち悪そうに顔を歪めた。
「うっ。すまない」
「大丈夫かい?」
(もしかしたら、肉を食べ過ぎて次は腹を壊してしまったかもしれないな)
男は何とか目の焦点をニハマチに合わせた。酔っていなければ、キツツキに似て涼やかであろう目だ。
「……なあ、お前、キースはまだいるのか? あいつは元気か?」
ニハマチは頷いた。そして、キツツキのことを考えた。
「うん。とても元気にやっているよ。俺、キースの友達だからさ」
「そうか……友達がいるのか。そりゃいいな……」
男は満足げに笑ったあと、机の上に頭から突っ伏してしまった。
ニハマチは急いで酔い潰れた男を担いだ。すると、「う……」と唸りが聞こえた。どうやら、気絶はまだしていないようだ。
担いで酒場を出ると、横からテリオンの声が聞こえた。
「おい。そいつを介抱してやるんなら、私も行くぞ。……ってかお前、よく担げるな」
しかし、ニハマチは首を横に振った。
「ううん。俺が連れていくよ。大丈夫、この人は悪い人じゃなかったよ」
「はっ。意味分かんねえが、なら勝手にしとけ」
テリオンは酒場に戻っていった。
ニハマチは男を背負い、あまり揺らさないようにしながらゆっくりと街道を進んだ。夜の街はまだ明かりが灯っており、人のはしゃぐ声が家々から聞こえてくる。
「……おじさんは、キースがどうしても気になるんだね」
男はとてもぐったりとしているので、返答は期待せず独り言のように呟いた。しかし、男は「ああ……」と呻くように反応した。
「……あいつの人生はあいつ自身に任せると決めた。しかし、まだ未練を捨てきれずにいるんだから、情けない話だ」
(未練、か……実の親なら尚更だろう)
足を踏ん張って坂を上る。横の段差にいた猫が走って何処かに行った。
「でも、仕方ないよ。子供が攫われている事件があるからだよね」
「ああ、それもある……。ただ、顔が見たいんだ。元気な顔がな……」
「うん。大丈夫。彼は元気だよ。とても元気にやっていると思うよ……」
ニハマチは空を見上げた。……今もこうして、彼は空の月を見ているのだろうか。
(キツツキ、一体どこに行ってしまったんだろう。突然旅に出たけど。やっぱり、あの場所がキツツキを呼んでいるのだろうか。おじさんの言う通り、キツツキは「離天」に行くべき使命のある子供なんだろう。……俺と同じように)
ニハマチはむすっとした。
(でも、それだったら俺を連れていってくれても良かったのになあ。キツツキのやつ、一人で行くなんてさ。……すぐに、色んな話をキツツキとするべきだった。これからは、共にいたいと思える仲間を見つけたら、すぐに腹を割って全部話すことにしよう。俺が知っていることを。……そうだ。俺はオストワールとも戦わないといけないし。問題が山済みだ)
会話はそこそこにして、静かに夜の街の帰路を歩んだ。男が肩の間からときおり出す指示に従って、道を曲がった。
男の家に着き、彼をゆっくりと扉の前に下してやると、腕を扉に預けてぐったりと凭れかかった。
「ありがとう……助かったよ」
「じゃあ、元気でね! あんまり養い所のまわりをうろうろしたら怪しまれるから、ほどほどにしてね」
ニハマチが踵を返そうとすると、男は「待った」と言って、扉を開けて潜り込むように入っていった。
しばらく待っていると、十数分以上は経ってからようやく玄関に現れた。
「これを、キースに渡してくれないか」
差し出されたのは一冊の本だった。
ニハマチはそれを受け取り、まじまじと眺めた。丈夫な革の装丁がされてはいるが、枚数は30枚に満たないだろう厚みだ。大きさも羊皮紙で作られる一般的な書物よりも小さい。
「それは、俺の妻が、キースの母親が死ぬ前に残していったものだ。渡してもいいし、渡さなくてもいいとあいつは言っていた。しかし、君とここで会ったのは何かの縁だろう」
ニハマチは頷いた。
「うん! これ、ちゃんとキースに届けるよ」
男はよろよろと家に帰っていった。
ニハマチは養い所に帰ると、屋内に入る前に本を一ページめくってみた。そして驚いた。何も書かれていない白紙だったからだ。
月光を頼りに白くてさらりとした肌触りの紙に目を凝らしてみたが、図も文字も彫られているような跡はない。残りのページをパラパラとめくってみたが、同様だった。
(……なるほど。キツツキが読むことに意味があるのかもしれない。言葉というのは、それを意味として受け取ったときに言葉となるからね。尚更、キツツキに渡さなくちゃいけない理由が出来ちゃったな)
何処に行ったか分からない人物を探すのは骨が折れるが、ニハマチはその困難さと、目的ができたことに深く安堵した。キツツキとまた出会えるきっかけが出来たことがとても嬉しかった。
(よし。今日はよく寝られるぞ)
そう思った通り、ニハマチは大寝室でいびきをかく仲間たちと共に深い眠りに付くことができた。
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