4 「養い所」

 日が上っても尚、うとうとと睡魔を従えていると、夢の中で彼の頬に触るものがあった。それはトカゲ博士で、間をおきながら何回も顔に触れてくるので(彼は夢の中の森で走り回っていたが、トカゲ博士は何処まで離れてもついてくる影のように忽然こつぜんと現れた)、急に怖くなってはっと目を開けた。

 視界に小さな革靴があった。少年が横向きの顔を起こすと、少女が膝を抱えてこちらを見つめていた。


「――あっ! お、起きた……?」


 廊下ですれ違った人だ、と少年は思った。昨日と同じ、華美ではないフリル付きの落ち着いた灰色の給仕服。羊のようにふわふわした赤茶色の髪が、頭のそこここで控え目に跳ねるようにセットされている。

 少年があぐらを掻いて少女に向き直ると、彼女は立ち上がって視線を彷徨わせた。


「あの、マレーが呼んでるわ。朝ごはん、食べないと」

「マレー――って、あの体の大きな人?」

「うん。私たちのママ。早く行ってあげて」


 少年はこくりと頷き、落下したのかと少女が心配するほど素早く窓から降りていった。彼はキッチンの場所を覚えていたので、そこへ向かった。マレーはもうテーブルに着いていて、三食分の朝食が並べられていた。

 着席した少年のあとで先ほどの少女が入ってくると、マレーが言った。


「すっかり寝てたみたいだね」


 少女も椅子に座ると、マレーを見て言った。


「この子、屋根にいました。その、梯子も何にも使わずに。部屋に入ったら窓だけ開いていたの」

「そりゃ頼もしいね。さ、二人とも食べな」


 少年はパンに齧りついた。他の二人が麦のスープにパンを漬けて食べていたので、少年もそれを真似した。浸ったところが柔らかくて、スープの味が染み込んで旨かった。しかし、硬い方が彼の好みだったので、最後まで漬けずに食べた。


「坊や、お前さんの名前は?」


(名前……)


 少年は自分の名前が分からないことに気付いた。森での記憶を辿ったが、どうにも思い出せない。鹿の顔やトカゲ博士がときたま彼の名を呼んでいた気はしたが、言葉として明瞭に捉えることが出来ない。

 ぽけっとした様子の少年を見かねて、マレーは言った。


「名前を覚えてないのかい」

「うん」少年はこくりと頷いた。


 マレーは考える間を持たずに言った。「あんたの名前は『ニハマチ』だ。しっかり覚えるんだね。ニハマチだよ」

 少年はまた頷いた。


「ニハマチ。分かった。そう呼んでくれ」

「スミレ、私が忙しい間はお前が教えな」

「あ、うあ、無理、無理です! 人に教えるなんてそんなの」スミレは俯きがちに否定してから、はっとマレーを見た。「お、教えるのですか?」

「そうさ。まずは屋敷の雑用をやって貰おう。見たところ面白そうな坊やだからね。まずはどんな風に動けるか見ておく必要がある。お前が評価するんだよ」

「私には無理です」スミレはニハマチをちらりと見つつ言った。

「いいから行きな。言うこと聞けない子は嫌いだよ。いつもやってることを手伝わせればいい」そう言ったマレーの口調は丁寧でゆっくりだったが、貫禄と厚みがあった。


 スミレはいそいそと席を立った。「では、失礼します! ――行きますよ」

 扉の前に立ち、恥ずかしそうにしながらもしっかりと目を合わせたスミレに、ニハマチは元気よく付いていくことにした。

 庭の敷地の端っこには川が流れているところがあった。スミレはそこで洗濯物を洗って、やり方を彼に教えた。それが済むと屋敷に戻って、解れた服を修繕する手伝いをさせた。それから井戸で水を組んで、靴磨きをして、掃除をして、馬に餌をやって、手仕事をして……。

 まだ空が赤くならないうちに、二人はマレーのところに戻った。


「ただいま!」そう言って快活に笑う少年の後ろからスミレがふらふらとやってきて、扉の枠に手を付いて呼吸を繰り返した。

「この子……とんでもない……無理です」

「無理?」

「あの、付いていくのが、無理です」言って、スミレはへなへなと床に座り込んだ。


 マレーは怪訝にニハマチを見た。彼は、にっと笑った。


「手紙を届けてもらうよ。二人でね」


 スミレはニハマチを連れて街に繰り出した。石造りの道を踏みしめるように歩く彼女は既に疲労の濃い顔で言った。「これから仕事をするようになったら、色んなところに行くから」

 ニハマチが頷く。頭上にある石橋の仄暗いアーチで、蜘蛛がかさかさと這った。

 六軒の家を回り、封蠟とマレーの署名がされた封筒を届け終える。夕焼けが街を橙色に染める頃に、屋台の通りを二人で帰った。蠱惑的で香ばしい匂いにあてられて、ニハマチはイカ焼きの屋台の前で立ち止まった。


「なあ、これをくれよ」

「一匹35キスカルです」

「ちょっ」スミレが躊躇いがちにニハマチの服を引っ張る。

「? どうした?」

「『どうした』って、買い食いは駄目。仕事中なんだよ」

「んー?」


 ニハマチは非常に困った顔をした。


「お金ならあるよ。ほら」


 ニハマチが奇術のように服の何処かから300キスカルを取り出したのでスミレは若干目を剝いたあと、ムッとした顔でニハマチを見た。


「だ、駄目。帰ったらマレーがご飯を作ってくれるわ。我慢して」

「んーーー??」


(晩ご飯も食べれるなんて最高だ)


「スミレは買わなくていいよ。俺だけ買う!」

「あっ、そういうことじゃないわ! 私が食べたくないとかそういう話じゃないの」

「でも、これを食べてから晩ご飯だとお腹いっぱいになってしまうよ」

「じ、自分に言ってるのそれ?」


  スミレは魂が抜けたように肩を落として、呪文のように呟きを零した。


「……お顔で人を判断してはいけないわ」


 ニハマチには聞こえず、彼は首を傾げた。


「君が駄目だというならやめるよ」

「素直……う、うん。そうして」


 ニハマチはこくりと頷いた。そして、手のひらに乗せた硬貨を店主に差し出した。


「二匹くれ!」

「あいよ」


 若い店主は手際よく二つの包みを作ってニハマチに手渡した。


「話きいてるう!?」


 スミレが両腕を突っ張って抗議すると、ニハマチは無邪気な目で彼女を見た。


「明日食べるよ。これ、スミレの分」言って、ずいと包みの一つを彼女の額の上に近づけた。紙の隙間から甘辛いソースと焼けたイカの匂いが漂って、スミレは思わず恍惚とした。

「わー……」


 イカ焼きを輝く目で見詰めるスミレの様子がおかしくて、ニハマチは無邪気に笑った。


「うん。きっと美味しいよ」

「そう――じゃなくてっ」スミレははっと頬を赤らめて、ぶんぶんと頭を振った。「駄目な物は駄目! あ、あなたが二匹食べるといいわ。食いしん坊さん」


 スミレは何かを誤魔化すように体を翻すと、さっさと歩き出した。

 屋敷に戻ると三人で食事をした。ニハマチは隠していたイカ焼きを取り出して、屋根の上で景色を眺めながら食べた。匂いが強いので布で厳重に巻いたイカ焼きは、もう一つをキッチンの香辛料の容器の裏に隠しておいた。ニハマチとしては堂々と持ち込んでも良かったのだが、スミレのいうことにとりあえず従った。

 それから同じ生活を繰り返して、種々様々な仕事をこなし、ニハマチは段々と街に慣れて行った。ニハマチは、よそへ仕事に行く時は自前の不思議な服ではなく、養い所で子どもたちに貸している仕事着を使う約束を守り、部屋のクローゼットにかけっぱなしになったトカゲ特製の服はほとんど着なくなってしまった。

 ある朝、彼はマレーの仕事部屋に呼び出された。


「さて、そろそろいい頃だろう」そう前置きをして、マレーは続けた。「今日から他の子どもたちと共同生活を送ってもらうよ。もう話したりはしたかい?」

「んー?」


 確かに、ニハマチは屋敷の敷地内でスミレ以外の子供たちと出会っていた。彼らの数人と屋敷で出くわすこともあったが、殆どは屋敷から離れた隣にある大きな小屋じみた建物――通称「大寝室」で生活していた。ニハマチがスミレを手伝って洗っていた大量の洗濯物も、彼らのものなのだろう。


「まだ喋ったことはないかな」

「これから仲良くなればいいさ。あんたならすぐだろう」

「へへ」と少年が笑うと、マレーもつられて笑い、「あんたからは不思議な力を感じるよ。だから、仕事もなるべく普通じゃない仕事を選んでやろう」


 マレーが同伴して、ニハマチは初めて小屋の中に足を踏み入れた。外から見たのっぺりとした印象とは違い、屋内は壁や柱で仕切られて、大きな家のようになっていた。二人は入ってすぐ、地下への階段を降りていった。

 そこは、建物の外見通りの長方形の空間で、壁の両側にずらりと仕切りが並び、仕切りごとに亜麻布のベッドが敷かれ、大勢の子供たちがそこで眠っていた。壁沿いに仕切られた寝床は二段になっていて、上の段も同様で、全部で24の寝床があった。


「さあ、起きるよ、あんたたち!」


 マレーが声を張り上げる。

 すると、大寝室の子供たちは様々に反応し、そこら中の亜麻布がむくりと蠢いた。


「うん……?」

「朝からうるさいなあ……」

「え、なに?」


 最初から起きていた者、呼び声で起きた者、未だに寝ている者がいたが、大方の子供たちはこれで起き出した。

 ニハマチはざっと皆の顔を見渡し、どうやら全員が男であるということが分かった。

 子供たちはマレーの隣にいる見慣れない顔を認めると、その何人かが状況を察した。


「誰?」

「ああ、新入りね」

「おはよう!」

「ふあーあ」


 すると、二人から見て右側の上段から、勢いよく顔を出した子供が言った。


「おれ、リック! よろしくな新入り!」

「待たないかい。こっちの自己紹介がまだだろう。さ、ニハマチ、挨拶をしな」


 マレーに促され、ニハマチは一歩前に出る。


「え、えっと。――俺、ニハマチ。っていうらしい。これからよろしく!」


 ――子供たちがざわめきだす。


「よろしく!」

「よろしくな!」

「『っていうらしい』だって。くふふ、変なの」

「マレーに名前付けて貰ったんだろ」

「ニハマチって、いかにもマレーっぽいよな」

「元気そうなやつがきたな」

「今日の午後遊ぼうぜニハマチー!」

「おい、新入りと先に遊ぶのは俺たちだぞ」


 不意にどこからともなく薄茶色の枕が飛び、それが発端となって枕が飛び交った。

 争う者、我関せず壁に逆立ちで腕立て伏せをしている者、寝床の奥で本を読んでいる者、枕が顔の上に落ちても未だに寝ている者……。

 阿鼻叫喚の渦で情報が混雑し、ニハマチは初めて目にする光景に目を回らせた。


(な、なんだ? どうすればいいんだ?)


 珍しく困惑するニハマチをよそに、マレーは「あそこがお前さんのベッドだ」と言って奥の空いた寝床を示すだけして、さっさと階段を上ってしまった。

 とりあえず部屋の奥に行こうとして、枕にぶつからないように気を付けながら中央を歩くと、一段目にいた赤毛の子供に声を掛けられた。


「ニハマチ、俺はエレック、エレック・ノートだ。よろしくな」

「うん。よろしく!」


 下段にある自分の寝床に着くと、ニハマチは亜麻布の上であぐらを掻いて子供たちの様子を眺めた。


(ごちゃごちゃしていて訳が分からない……。でも、何だか凄く楽しいぞ)


 不思議な森で、人間の精神年齢で言えば大人と呼べるような動物たちとばかり接してきたニハマチは、恐らく生まれて初めて微妙な気持ちというのを体感していた。


(上手くやって行かなきゃなあ……) 


 すると、やんちゃな子供の何人かがやって来て、寝床を取り囲んだ。質問責めに合い、うわべを糊塗して適当に答えていると、丸眼鏡をかけた子供が彼らの背後に現れて、


「おいおい、ちょっとは大人しく出来ないのか」そう言ってやんちゃ者たちを退散させた。


 去り際にからかう彼らに「やれやれ」と零し、丸眼鏡は苦笑してみせた。大人びていて、大寝室の中では年長なのだろうということが分かる。


「馬鹿な奴らが済まないな。俺はロイだ。これから皆と一緒にここで寝ることになるから、よろしくな」

「うん!」

「多分、ここの使用人の一人が仕事を伝えに来ると思う。それまで待っててくれ」


 ロイは理知的で人の良さそうな笑顔で笑い、階段へ向かっていった。

 ニハマチは賑わう子供たちの中に、静かに本を読んでいるものが二人いることに気付いた。 

 特に、向かい側の二つ隣の上段にいる子供に目を惹かれた。

 夕闇の森のような深緑色の髪。さらりと真っ直ぐに降りる前髪は、一房だけ左目にかかりそうに垂れている。どこか他の子供とは隔絶された空気感と呼べるものが、彼のいる寝床にだけ漂っているような感じがした。


(なんだろう……? 不思議な感じだ)


 すると、階段を降りてくる者があった。それはマレーではない大人の女で、女は部屋の奥にニハマチを見つけると、言った。


「ニハマチ、仕事よ。来なさい」

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