第一章 『古都編』
3 「古き石の都」
少年は村を出発した。小道は生い茂る
(腹が減ったなあ)
小一時間以上歩いたところで少年はそんなことばかり考えていた。空腹に耐え兼ねているのではなく、ただただ飯を食べたいと思ったのだ。ごちそうにありついてからまだ一日も経たないのにこう思うのは、むしろ初めてあんなに美味しい食事を腹いっぱい食べたからに他ならなかった。
(外の世界には、まだまだ美味しい食べ物があるんだろうなあ)
少年は空を見上げながらだらしなく口を開けて歩いた。萱はトウモロコシの畑に、太陽は「卵」の黄身に見えた。
(あのごちそうに「卵」は入っていただろうか? 急いで食べてしまったから覚えてないや)
やがて川とぶつかった。川沿いの道を進んでいくことにした。
鼻歌まじりに気分良く歩いていたが、陽も赤みを帯びかけてきた頃、そろそろちゃんと腹が減ってきた。
川沿いにあった幾つかの家らしきものを素通りしていたが、たった今向こうに見える家へ食べ物を貰えないか訪ねてみることにした。土手の傍にあるその家から、日焼けした女が少年を歓迎してくれた。川魚を干して味付けしたものと、畑で取れたイモを煮たのを複数、葉包みにして持たせてくれた。
少年の飯が食べたいという衝動はあくまで反動であり、実際のところはこの包みだけで一週間ぐらい空腹をしのげるほどだった。
それから、三度の夜を越した。
行けど行けど萱と雑草と家の畑があるばかりだったが、道が下る傾斜を強めたとき、山岳の稜線が地平線の向こうから立ち上がって、尾根から扇状に広がる街が眺望された。
街まで灰色の線となって伸びる川を伝って、少年は足を急いだ。心音が気分を高め、その高まりが更に足を早めさせた。
平原を越えた先にあったのは古い都だった。雲の隙間から覗く陽は黄色がかっていた。石造りの街は雑然と入り組んでおり、ところどころが崩れてしまっている。生活の様子はあるようで、道は整備され、がたがたになっている石組みも苔が生えたりはしていない。
ちょうど、坂の一段上の小道から子供が飛び降り、それを追いかけるもう一人の子供と一緒に通り過ぎていった。家々からは話し声が聞こえ、向こうからまた子供のはしゃぐ声が響く。少年の胸はもう、疾走してきた心拍と合わせて爆発寸前に高まっていた。
(これは凄いぞ!)
街の中心側の背の高い建物が見えたので、気の向くままに向かうことにした。道中、少年はあることに気付いた。
(どうやって生活しよう)
自然の中であれば勝手に食料を見繕って生き抜けばいいが、人の作った決まりのある場所ではそれに従わなければならないことを少年は知っていた。
(「国」の中では、国のルールに従わないと)
盗みをしてはいけない。人の家に勝手に泊まるのも、道端で寝転がるのもあまり良くない。
(まずはお金を稼がないと――そのためには街を知る必要がある)
計画と高揚が推進力になり、一歩、また一歩と歩みは軽快になった。街の色々な建物を見るだけで面白く、家屋や軒先の開いた露店を横切るたびに香しい誘惑が少年を翻弄した。彼の頭ではやはり、食べ物に関することが半分を占めていた。
(美味しそうだけど……我慢しないと。あ、凄くいい匂い……我慢だ。人の家に急に入り込んではいけない)
食欲が理性とせめぎ合っているうちに少年は思い付いた。
(そうだ。俺が欲しいと思うものを「商売」にすればいい。美味しいものを売ればすぐにお金が手に入る。凄く簡単だ)
しかし、肝心の売るための食べ物も、場所も見つからない。特に、場所を見つけないと駄目だ。と、少年は腕組みをして一人で納得した。そのためにもやはり、街を知る必要がある。
(街っていうのは中心に行くべきなんだ。街の外れなんてところは、大概廃れているもんだからね)
トカゲ博士のように賢ぶって、心中で無自覚の無礼を働くと、目的が少年を誘惑から絶ち切った。街を知り、売るための「場所」と「商品」を考えなければならない。
古い時計塔、屋根の崩れた教会らしきもの、立派な家も増えてきた。服装が違うものもちらほら現れ始める。街は活気を増し、やがて少年を必然的に吸い寄せる市場がざわめきで彼を出迎えた。
(凄いぞ、色んなものと人がいる――ここに店を開けばいいんだ!)
見れば、露店の長大な並びから外れたところに、布だけを引いて屋根を持たない店があって、座り込む店主が布の上に散らばった何かを恨みがましい目つきでもてあそんでいる。
少年は一人で何度も頷いた。
(真似しよう。屋根とか木の骨組みは時間がかかるけど、布を引くだけなら簡単だ。……あんな離れたところじゃなくって、他のお店の横で開けばいいのに)
賑やかなところの方が当然売れやすいはずだ。少年は決め付けて、食べ物と今日寝る場所をどうしようか考えた。空の藍色は深くて濃かった。三つの月がおぼろげに街を見下ろしている。
(街には寝るところがないし、自由な食べ物もない。だから、森に行くしかないな。森ならどこでも寝られるし、木の実や果実が手に入る)
たっぷりと寝てから、朝早く収穫を行って街に戻ればいいと、少年は自分の考えに満足した。見晴らしの良い建物の壁面を登って、屋上で夜景を見渡した。
(うわあ、凄いや。俺はこれからここで生きていくんだな……)
昇った月と反対の方角に、木々の茂った森らしきところが見えた。街から離れたところにはなるが、少年の頑健な脚ならば大したことはない。
街を順調に抜けて暗黒の森に入ると、頼りない月の光で何とか木の付け根を目視し、そこで眠ることにした。
(おやすみ。俺……)
日が昇るや否や、跳び起きるようにして行動を再開した。森の中には色々と食べられそうなものが見つかった。少なくとも、敢えて少年の精神を鍛え上げるために実りを減らしていた懐かしき森と比べれば、十分に豊作といえた。ベリーなど甘みのあるものもたくさん見つかって、街の道端に捨てられていた大きな布を出して収穫物をくるむと、両端に輪っかを作って両肩へ通し、丸めた背で担いだ。
(こんなごちそうなら、もしかしたら街で一番の人気店になるかもしれない。足りなくなったらまた森へ行かないと)
森が少年を応援してくれているような気がして、彼のこめかみが希望の力で引っ張られた。
さっそく市場に戻ると、露店の並びの端にある、肉を干している店の隣で敷き布を勝手に広げて、豪快に森の戦利品をぶちまけた。朝早くから動いたおかげで、陽は高く街も賑わいの頃にあった。隣の店主がぎょっとして少年を見た。
(さあ、来い。ごちそうの山だ!)
通りかかる人々に視線を投げ、手で果実を掲げたりして反応を待った。心なしか注目は少年の元に集まっているように見える。時折、彼を見てはくすくすと笑って通り過ぎる人があった。
そのうち、少年が広げた布へ硬貨が投げられるようになった。しかし、商品を買う訳ではなく、ただ通りすがりに放り投げたり、手のひらから落としていくといった感じだった。
(買っていかないんだ。何でだろう)
それが同情や戯れであるということは、少年には分からなかった。しかし、とりあえずお金が手に入るのならば有難いと、わくわくした気持ちになった。
(良く分かんないけどいいか! もしかして、匂いにお金を払っているのかも。そうだとしたら、凄い商売を見つけてしまったんじゃないか?)
少年はしめしめとほくそ笑んだ。俯いた口元からにやけ顔が覗いているので、怪訝そうに横目で見ていた通行人たちは眉をいっそう顰めてからさっと視線を外した。
数分おきに憐れみによって投げられる硬貨に味を占めて、無意識のうちに慈悲を誘うような正座の格好でぽつんと座っていたが、一人あたりが投げるお金はせいぜい2キスカルほどだった。キスカルはこの都が属する大陸の一般通貨であり、3キスカルでパン一つが買えるぐらい。宿賃であれば、食事付きで一泊100キスカル以上は欲しいところだ。
ところで、陽が沈むまでにこの「投げ銭」によって稼いだのは124キスカルだった。ちっぽけな果実を10キスカルで買った人が二人いたのを差し引いても、物を売らずに稼いだお金と考えれば、相当なものだった。
少年は迷わず森へ向かった。正座から直った脚が痺れていたので、立ち上がりざまに転びそうになった。二種類の硬貨を包んだ布を大事そうに抱きしめて、少年は木の根元でぐっすりと眠った。
(朝だ!)
昨日の興奮も冷めやらない様子で、起き掛けに犬のように街へ駆けていった。薄白い霧が晴れないうちから市場に着いて、がらりと人のいない通りを見て少年は引き返した。
(まだ始まる時間じゃないんだ)
暫く街をぶらぶらしたり、人気のない空き地の石塀の上で寝転がった。活気が遠くから聞こえてきたところで、少年は市場に行った。昨日いたところを探して市場の通りを歩いていると、声を大きく張り上げて物を売っている店が何軒かあることに気付いた。
(ああした方が、物が飛ぶように売れてるみたいだ)
昨日と同じ干し肉の店の隣で勝手に布を広げて、売れなかった残り物を盛大にぶちまけた。幾つかが布からはみ出して転がっていった。
少年は堂々とその場に立つと、口元に手の壁を当ててこう言った。
「木の実が4キスカル、果物が8キスカルだよ! 隣の干し肉と一緒にどうだい!?」
「何ぃ!?」隣の店主が素っ頓狂な声をあげた。
通りで聞いた売り文句の一つを真似した少年は自信満々で客を待ったが、この一日で買ってくれたのはたった一人であり、投げ銭という名の売上高は105キスカルだった。
やはりお金の価値をよく分かっていない少年は、満足げに頬を綻ばせて弾むように森へ帰った。
「まさかこんなに簡単だとはなあ」
三日目も同じように過ごし、四日目になると、少年は慣れた囃子で市場の誰よりも大きな声を張り上げ、競りさながらに客を呼び込んだ。
そうして、あと一刻ばかりで市場も閉まろうかという頃、二人の男が少年の店で立ち止まった。二人とも三十歳には届いていないだろうという見た目で、一人は颯爽とした立ち姿の長身、もう一人はやや背の低い小男だった。
小男はくせ毛の下のぱっちりとした目を開くと、少年と同じ目線にしゃがんで手を広げた。
「ベイビー、これは何を売っているんだ?」
「木の実だよ! あと、果物!」少年ははきはきと答えた。
小男が右頬で微笑する。
「ほーう。面白いものを売っているなあ」少年がにこりと笑ったので、小男ははにかんでみせた「ところで、何処で取ってきたものかな? ベイビーが自分で育てたのか?」
「ううん。向こうの森で取ってきたのさ!」と言って方角を指で示したが、あいにくここからでは建物が邪魔をして見えなかった。
しかし、小男はそんなことは重要に思っていない風で、感心したように頷いて、
「そうか、遠い森からわざわざ取ってきて、ここで売ってるって訳だな――ベイビー、いいか? 君の努力は涙ぐましいものだが、残念ながら商売にはならない。この場所は君のものじゃないだろ?」
そう言われて、少年は首を傾げて思案した。
(確かに、ここは俺の家じゃないな。でも、みんな同じようなことをやっているけど、何が違うんだろう?)
小男がしゃがむのを止めると、長身の方は目を細めて立ったまま、片手をポケットに突っ込んで、
「ガキ。とにかくここでそんな物を売っちゃいけないんだ。ましてやお前みたいなガキとくればな。お前、親はどうした?」
「いないよ!」
余りにもはきはきとした即答に二人の男が顔を見合わせてから、また長身の方が言った。
「やっぱりか……まあいい。着いてこい。俺たちは『町廻り』だ。分かるよな?」
「ううん」と少年は否定のイントネーションで答えて首を横に振った。長身の男は困り眉になって、拳の付け根を額に押し当てた。
「町廻りも知らんのか……」少年の手首を掴み、強引に引っ張って自分の右隣に寄せる。
「さ、大人しく着いてこい」
「?」
抵抗もせずただただ困惑している様子の少年を挟むかたちで、二人は市場を離れた。
「どこに行くの?」
少年が問い掛けると、長身が見向いた。
「ああ? お前みたいなやつが集まるところだよ。……それにしてもよ、ガキ。儲かるとでも思ったのか?」
少年は元気に頷いた。
「うん、たくさんお金を稼いだよ! ほら」
包みからお金を出して見せる。合計、580キスカルほどの硬貨があった。
「何だ……結構稼いでんじゃねえか――でもなあ、みんな店の向こうから投げてきた金なんじゃねえか?」
「どうして分かったの!?」
「……分かるも何も、それしかねえからよ。お前はもっと世の中を知った方がいいぜ」
少年は大きく頷いた。
「うん! それは分かってる。俺はずっと森の中で育ったから、森の外のことが分からないんだ」
長身は目を丸くして、
「噓をついてる風でもなさそうか……。森の中で育つようなやつが本当にいるとはな……」
「ま、色んなやつがいていいんじゃねえの」吞気そうに小男が言った。
「確かにそうだが、それで困るのは俺らだろう」
二人の後を少年は浮かれ気分で付いていった。やがて広い庭を有する立派な屋敷の敷地へと長身は何食わぬ顔で入っていった。生垣に囲まれた敷地内では、屋敷と離れた右隣に牧場の大きな小屋じみた三角屋根の建物もあった。
長身が屋敷へ案内すると、右の壁際にある黒檀の階段を登って二階に上がり、長い廊下のつきあたり正面の扉で立ち止まって二回ノックをした。
「クラウスです。入っていいか?」
「――ああ、入りな」
よく響く女の声がして、クラウスは扉を開いた。
正面の窓際に机があって、窓を背にした椅子に50がらみに見える女が座っていた。豊かな髪を渦のようにまとめて、陶器のような逆三角形になっている。ペンを忙しなく動かして紙に書き付けているらしい彼女は、少年の印象からするにカバと言って相応しい図体をしていた。しかし、肥満体という訳でもないし、筋肉質でもない。とにかく大きな体をしているのだ。今にも椅子を壊してしまいそうなほどどっかりと沈み込んで、顎に立派なたるみを蓄えていたので、その様がカバを連想させたのだ。
クラウスは少年の肩に腕を回すと、二歩進んだ。
「この子を頼む」
女は一瞬だけペンを止めて二重の大きな目で少年を見遣ると、すぐにまたペンを走らせた。
「頼むって、まるで親みたいな言い方だね。いつの間に子供をこさえたんだい」
「すまん、つい適当な感じになっちまった。この子を預かってくれ、いつも通りにな」
女は大きなため息を吐いた。
「どこの馬の骨とも分かんない子供を次から次へと拾ってきて、あたしが無条件で引き取ると思ってるみたいだね。赤子を育ててやる託児シスターとでも勘違いしてるんじゃないのか」
「けっ。相変わらず、眉一つ動かさずに口だけは捻くれてやがる」
「まずは口の聞き方を覚えようかね。あんたがもし大国の偉い守護騎士だったとしても、人を道具みたいに使ってりゃいつか天罰がくだるもんだよ」
「人を自分の手足にすんのはあんたの専売特許だろう。商売道具として子供を持ってきてやったんだ。いつも通り。それでいいだろう?」
「そうさね。体裁は構わないよ」
「流石はミス・マレーだ――で、この子なんだが」クラウスは少年の肩を軽く叩いた。「露店の横で勝手に店を開いて、商売をしてやがった。それが、お涙ちょいちょいのお情け駄賃には代わりねえが、こいつ、四日間で583キスカル集めてやがる」
ペンは動かしたまま、女の眉がぴくりと動いた。
「何を売ってたんだい」
「到底売れねえような木の実やら果実やらだよ。聞いたら森の中で自分で拾ってきたとさ」
「品物は売れなかったけど、物乞いでそれだけの金は手に入れたということだね」
「ああ。陰気に待ってるだけのやつには出来ない芸当だ。不憫を売りにしたって普通は煙たがられる。
「こいつ、商品こそ売れてはねえがちゃんと商売をしてやがったんだ――傑作だぞ、ミス・マレー。市場で一番でけえ声を張り上げて、本気でがらくた売ろうとしてたんだからな。あっという間に有名になって、すぐに俺のところまで話が回ってきた訳さ」
マレーはやっとペンを止めて顔を上げると、両腕を肘掛けに乗せて少年をじっと見た。
「こんなに可愛らしい女の子がねえ……」
クラウスは目をぱちくりさせて暫く黙り込むと、豪快に吹き出して笑った。少年も釣られてにっこりと笑った。
「おいおい。そりゃないぜ。こいつは男だよ」
「じゃあ可愛らしい男の子だね。私をからかうもんじゃないよ。
「……長い髪の毛だね。それにその服……。おいクラウス。何処かのお坊っちゃんを誘拐してきたんじゃあるまいね」と、マレーはクラウスをギロリと睨んだ。
クラウスは怯まず不遜な態度のまま、
「馬鹿か。そんなことはしねえよ」口をへの字に曲げて、少年を見下ろした。「なるほど言われて見れば、おかしな服を着ているもんだな」
クラウスは少年の二の腕あたりの布をそっと引っ張った。不思議な手触りが肌に新鮮で、その感触を半分気持ち悪く、半分楽しむように指の間でさする。
「なんだあ、気味の悪い生地だぜ」
眉を顰める。そして、少年の頭に手のひらを乗せて、
「髪質は女みてえにつやつやだし、しっかし見事な黒髪だ。なのに匂いは葉っぱくせえ。服は上等に見える。小僧、森の中で暮らしてたってのは本当なんだな?」
「うん! ずっと森の中にいたよ。物心ついた時からずっとかな」
「物心ついた時ねえ」マレーは意味ありげに微笑した。
「俺の記憶で思い出せる限りだと、森の外に行ったことはない」少年は言った。
「まあ何でもいいさ。クラウス、その子を洗っておやり。綺麗にしたら外に連れてきておくれ。石鹼も使ってやりな」
「だとよ。行くぞ、ガキんちょ」
クラウスが少年の背を叩き、両肩を掴んで後ろを向かせた。彼がマレーに礼を言って少年と部屋を出ると、ちょうど向こうから一人の少女が歩いてきた。
白目がちの少女はびっくりして立ち止まると、暫く少年とじっと目を合わせた。少年が首を傾げたところで、少女は慌てて目を伏せると俯きがちに二人を横切った。その頬は少し赤くなっていた。
彼女が閉めていった部屋の扉へ、少年は不思議そうに視線を遣った。すると、クラウスは彼の顔を覗き込んでにやりと笑った。
「へえ……」
「?」
クラウスは屋敷の一階にある風呂場へ少年を連れて行った。磨かれた灰色の石が敷き詰められた風呂場は、大人が十人以上入っても余裕がありそうな広さで、簡素なガラス窓から光が差し込んでいる。石の棺じみた浴槽が八つ、壁沿いに並んでいた。
中央には幾つもの大樽が積まれていて、一段目の蓋が開いていた。クラウスはそこへ小さな桶を突っ込むと、たぷんと音を立てて桶の中の水を汲んで、服を脱がされている少年の頭から流した。
「ひっ!」
少年の首が亀のように縮こまり、口が真一文字になった。
「びっくりしたか?」
「うん!」
桶の水は冷たかったが、不快ではなかった。むしろ心地良かった。少年は抵抗することなくそのままじっと立った。
クラウスはその様子から彼の性格を若干理解して、風呂場の外から持ってきたタオルと石鹼でごしごしとこすってやった。少年の体が透明な泡に包まれた。「まだ湯を沸かす時間じゃないんだ」クラウスは言って、何度も水をかけた。
風呂場から出ると、別のタオルで全身を拭いた。艶の増した黒髪に平たくて粗い櫛をかけた。少年の髪は少しだけ色素が薄く、真っ黒ではなくて極僅かなコーヒー色だった。女のような長い髪を、クラウスは楽しそうにしながら入念に時間をかけて梳いてやった。
二人は正面の玄関から外に出た。庭に無造作に置かれた椅子にマレーが座っていた。彼女のどっしりとした背中を見て少年は鹿顔を思い出した。彼女の目の前まで行って、クラウスが言った。
「どうだ? 洗ってやったら、こいつ、見違えるほど『美人』になったぞ。これじゃ女と間違えても仕方ねえ」クラウスはくつくつと笑って、少年の髪に指を通した。
マレーは大儀そうに椅子から立った。「座りな」彼女がそう促したので、少年は椅子に座った。行儀よく膝に手を置いて庭の白い花に止まった虫を眺めていると、大きな布が肩から巻き付けられて、首回りを囲んで上半身を覆うように緩く結び付けられた。黒い滝のような後ろ髪に櫛が通って、手で掴まれたのが分かった。
すると、金属が触れ合う高く鋭い音が鳴った。それは、少年のあどけない歳月が蓄えた生命の神秘をばっさりと斬り断つ音だったが、彼は自分が何をされているのか分からなかった。
「日が落ちたら飯を食わせてくれないかな?」
まだ高いところにある太陽を見て少年が言った。
「腹が減ってんのかい」
「ううん。森のそこらじゅうに飯があったから、腹は減らなかったよ。ただ、ずっと同じ飯じゃ味気ないんでね」
「タフなやつだね。あんたみたいな小さいのが、森で自給自足をしてた訳かい? 獣を獲って、皮を剥いで?」
「獣は見かけなかったよ。それに、俺は獣を獲ったことがないんだ。ずっと木から生るものと草を食べてた――でも、獣の肉は好きだよ。この前初めて食べたんだ。あんな旨いもの、ずっと食わずに生きていたなんてなあ……」
クラウスは何か不気味なものでも見るかのような目を少年に向けた。
「……なんだこいつ」
マレーが髪を切り終わると、隠れていた柔らかい毛が若干茶色味がかった色合いで現れ、切る前よりは男性っぽい印象に様変わりした。
マレーは、少年の髪を櫛で整えてやりながら言った。
「あんたの髪、随分と手入れされていたみたいじゃないか」
「ああ――」
(森のことは具体的に話さない方がいい、よね?)
「樹液を塗って、綺麗に洗っていたよ」
「……樹液って、髪がべとべとにならねえか?」クラウスは腕を組んで言った。
「色んな樹液があるのさ。君が知らないものは世界にたくさんあるもんだよ」少年が適当にはぐらかすと、クラウスはむっと顔をしかめた。
「なんだあ? 一丁前に語るじゃねえか。ずっと森にいたガキがよ」
「へへ」少年が笑うと、クラウスは痛くない拳骨を頭に喰らわせた。
「不思議な坊やだね」ママがそう言ったので、クラウスは頷いた。彼は散髪が終わると帰っていった。
約束通り、夜になるとママがご飯を作った。鳩の肉が入った暖かいシチューをがつがつと食べながら、少年は尋ねた。
「なぜ、クラウスは俺を連れてきたの?」
「食べながら話すんじゃない。あんたが働き始めたら、躾けるところはしっかり躾けるからね」
「働く?」少年は口を膨らませたまま首を傾げてママを見た。
ママは野菜や肉を混ぜて長方形に固めたものを丁寧にナイフで斬って、フォークで上品に口へ運んだ。咀嚼し終えると少年を睨み付けるような目で見て、彼女は言った。
「そうさ。たくさん働いてもらうからね。その代わり、毎日とはいわないがこういうものをたらふく食べさせてやる」
「え、ほんと!?」
「席を飛び上がるんじゃないよ。節操がないね」
ママの濃くて鋭い眉の片方が、咎めるように跳ね上がった。少年は大人しく座り直して、薄茶色のスープから芋をすくった。
少年は埃っぽい空き部屋に泊まることになった。そこに亜麻布を何枚も重ねて敷いて、即席の寝床を完成させた。天窓の付いた小さな屋根裏部屋だったが、大人が横になって足を伸ばせる広さはあったので、彼がすぐに眠れたことは言うまでもない。
少年はトカゲ頭から貰った服を着たまま、それにくるまって寝た。彼を勇気と安心で包んでくれる感じがあった。
しかし、亜麻布の沈み心地に慣れず、真夜中にぱちりと目が覚めた。
ぼうっと闇を見つめているうちに夜目が利いて、角ばった輪郭の線が視界の下の方で浮かび上がった。それは天窓の外側にあって、月光の光が触れている木枠の縁だった。
(外の空気を吸いたいなあ)
衝動に従って猫のように体を起こすと、出来るだけ足の爪先を立てて背伸びした。指の第二関節までが柔らかく反って、窓枠にぴたりと押し付けられる。思い切り力を入れたが、あと少しという手ごたえで窓は開かなかった。木材の関節で開け閉めできるこの窓は、想像より重かった。
(でも、「力」を使うほどじゃない)
台になるものを見つけてきて背丈を伸ばすのが手っ取り早いが、それよりもずっと早い方法が浮かんで、思うが早いか少年は逆立ちになった。
足裏を窓に押し付ける。両手の中指がぴんと伸び切って悲鳴を上げたが、彼は構うことなく足裏の半分ほどに全力で力を乗せた。固定された体が窓を押し上げた。
夜気が優しく少年の足先を撫でたので、その隙間に足を引っ掛けた。これは少年の計算通りだった。手指で掴んで下半身を持ち上げるより、腹の力で上体を起き上がらせる方が少年にとっては容易だった。
海老反りに体を持ってくると、隙間に上半身を詰め込んで、頭部と背中で窓を持ち上げた。窓が垂直以上に開き切ると、水面から顔を出したときのように頭を反った。
星がぽつぽつと輝いていた。
(空の蛍たち……彼らは、この世で最も高いところにいるのだろうか?)
「それ」の名を思い出そうとしたが、森の語る動物たちの呟きのように、認知出来ない靄となって頭の中を揺蕩って消えた。屋根に大の字になって黒い空を仰ぐと、夜気がうっとりと肌に纏わりついて、少年は自分の体がさっぱりしているのに気付いた。彼は悠久の微睡みに誘われるように眠りについた。
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