――少年が鏡を抜けた先は、空の上だった。

 というのも、少年が見下ろす景色には雲層が広がり、白い綿ぼこのようなそれらを貫く塔じみた鋭い岩山が、三十ほど見えるのである。岩山は少年の足元――つまりそう遠くない距離にあり、少年が立っているのは最も高い岩山の頂上だった。

 まずは、この雲海より下に降りねばならない。 

 ふと気になって振り返ると、鏡はもう消えていて、遠くに霞むようについさっきまでいた山が見える。不思議な生物たちが住む森林の山はここより高いところにある。即ち、雲海に聳える尖塔の岩山は、少年が森の遥か向こうに認めていた場所だった。少年がここまで降りてきたことはなかった。

 岩山の縁を歩き回って、降りやすいところを探す。掴みやすそうな岩壁の連なりを見つけたのでそこから降りることにした。雲を潜って白い霧を抜け、周辺の景色が鮮明になると、少年は一つ先にある岩山へ渡る道筋を模索した。険しい崖の側面に自然が作り出した道があったので有難くそこを渡った。

 谷を越え、もう一つの岩山へ辿り着き、側面を回るようにして降りる。もうすぐ山は緩やかになり、眼下には森も見える。

 器用に岩壁を掴み足場を探して奮闘していたところ、少年は強い気配を感じ取った。

 岩壁だけを見詰めていた視線を肩ごと後ろに回して振り返る。

 遠く、森より更に奥の空から、何かがやってくる。

(まさか、あの時の?)

 しかし、それは空から降ってきた「あれ」とは異なるものだった。はっきりとした物体だった。少年は目を凝らす。それが何であるのかを判別しようとした。

(銀色の大きな何かだ。物凄い速さで飛んできている)

 銀色の何かは、尖った先端から四方向に伸びたところが爪のように曲がっていた。「金属」であり、「いかり」というものであることが少年には分かった。

(でも、いかりってあんなに大きな物だったか……? 先があんなに尖っているのもおかしい。それにここは海じゃない。森にやってきて、何をするんだろう?)

 知識を活かして怪訝に思い、更に集中して観察した。いかりは上空から弧を描いて落下していた。

 ――いかりの中央部分に、「人」が乗っている。

 少年は目を輝かせた。

(たぶん、凄いものだ!)

 単純な結論を出して満足すると、森の向こうに落下したと思しき音が、地響きと共に唸りとなって訪れたので、少年は急いでそこに向かうことにした。

 雨風に鍛えられた峻峰を攻略し、なだらかで自然に富む山丘にやっと着くと、少年は一度振り返った。

 ――聳える岩の峰が、いつの間にか消えてしまっている。

 背後にあったはずのそれの代わりに、全く違う穏やかな自然の風景にそっくり変わっていた。

(……もう、戻れないんだ)

 少年は決心をより強く固めた。

 手近な木に近寄り、樹皮を何枚かむしる。頑丈そうな木の根も土の中からちぎりとり、皮を根で繋げて大きく反った一枚の皮にする。即席のソリを斜面に敷くと、尻を置いて皮の反った縁を両手で軽く持ってバランスを取り、勢い良く滑り下りた。

(早く行かなきゃ。何だか、そんな気がする)

 麓に近づくに連れて木々が少なくなり、向こうにある集落の様子が明らかになっていく。少年は、土壁の家が集まる中心にいかりがあるのを発見した。そこは広場になっていて、人々が距離を開けて取り囲むその中央に、髪の長い男と二人の子供がいる。

(喋っている――凄い、「人」がいっぱいいる)

 少年は歯を剝き出しにして笑った。強烈な向かい風が唇をめくって凄絶な笑みが浮かんだ。

(凄い、凄い、凄い!)

 斜面を降りきってソリが止まったところで、少年は走った。

 集落からはまだ離れたところにある家々の畑の間を通っていると、向こうから女が走ってきた。酷く焦った様子で、口を開けて荒い呼吸を繰り返している。その目は驚きに見開かれていた。

「あ、あんた!」

 女は少年を認めると大声で言い、立ち止まった少年に駆け寄って抱きしめた。

「大丈夫よ、大丈夫」

 背中を優しく撫でられた少年は、彼女の腕の中で首を傾げた。

「どうしたの?」

 少年が聞くと、女はうわごとを吐くように言った。

「ああ、そう。何も知らないのね。それでいいわ。何も知らないままの方が……」 

 沈黙が尾を引く前に腕の中をするりと脱出した少年を、女は啞然と見詰めた。混じり気のない真っ直ぐな目が、彼女を恐怖ごと射抜いていた。

「俺、とにかく行かないと駄目なんだ。何も知らない訳にはいかないよ!」

 軽く手を振りながら一目散に走っていく少年の背中へ、女は恐慌を起こしたように「殺されてしまうわよ!」と叫んだ。伸ばした右腕を空虚に地面へ落とすと、うめくように呟きながら頽れた。

 少年は走り続けた。畑を抜けた先に集落があり、暫く行くと広間があった。円形の広間の中央に、大きないかりが地面を穿ってめり込んでいる。少年が岩山から見たいかりの先端の長さからするに、相当奥まで突き刺さっていることだろう。見れば、いかりから伸びた二本の鎖が一頭の馬に繋がっていた。馬はとても大きな体をしていたが、森の不思議な生き物に慣れている少年からすれば、特別驚くべきものには見えなかった。

 しかし、馬の異様に発達した筋肉、巨大な体、美しい水色の毛並み――そういった表面上の異形をも凌駕する圧倒的な「力」を感じ取って、少年はふと純粋な感性によってこう思った。

(森でもこんなに強いやつは見たことがない。凄い、なんて大きいんだろう……)

 広間に忽然と現れた少年に奇異の視線が集まっているのにも気付かず、放心したようにじっと馬を見詰めた。

 途端、壮絶な気配が雷のように少年を貫いたので、反射的にそちらを見向いた。(いかりに乗っていた人だ!)

 男は興味深げに少年を見ていた。憑かれたように男の元へ走った。

 男は足元で疼くまる子供の方に体を向けていたが、少年の方へ僅かに上体を捻ると、露ほども感情が動いていない様子で淡々と言った。

「痛ましいな」

 少年は男を見上げた。

「何をしているの?」

 男は肩越しにいかりを一瞥した。

「この村を滅ぼすのだよ」

「滅ぼす? 何故?」

「お前のように勇敢な者が多いからだよ。脅威の芽はすぐに潰しておかねばならん。このような村一つ滅ぼすのであれば、面倒な後処理もいらぬからな」

 少年は言葉の全てを理解はしなかったが、空の光を映す目で繰り返し頷いた。

(この人は、村を怖いと思っているんだ。怖いってことは強い。強いものを先に倒しておくのは当たり前だ)

 少年は足元に疼くまる子供を見下ろした。子供は覇気のない目で彼を見返した。

「もう戯れはよい。さあ、行け、ドラード」

 合図に呼応した馬のいななきが一帯を揺らし、その巨大な前脚を一歩踏み出した。馬に繋がれた鎖がいかりを引っ張り、地鳴りが鳴って、今立っている地面が地の底ごと浮かび上がるのが感覚された。

(やっぱり物凄い「力」だ。しかも、この男の人は馬より……)

 風が吹いて、一房だけ垂れる男の前髪が揺れる。無情というよりはむしろ、悲しげな儚い色を表情に纏って、男は空を見上げていた。

 微かに滲むその表情を凝視しつつ、少年は男の気性を無意識のうちに読み取った。それはほんの一瞬で、いわば天性の感覚と言えるものだったが、敢えて筋道立てるなら――馬にいかりを引かせるというやり方、この男が馬以上の力を持っているということ、「滅ぼす」のが目的ならばこの男なら一瞬でやってのけること――それらから男にはある程度の「遊び」があるというのは一目瞭然ではあったが、少年はそういった男の性質を感覚的に理解することが出来た。

(滅ぼすっていうのは良くないことのはずだ。なら、止めなくちゃ)

「待って!」

 少年が叫んだため、男は顎を上げたまま視線だけを少年に向けて落とした。

「村を滅ぼすのを止めて欲しい。滅ぼしては駄目だ!」

「聞けぬ願いだな。これは『絶帝』である私の下したことだ。何人たりと覆えさせはせぬ」

(どうしよう。多分、俺が何を言ってもこの人は聞いてくれない。こういう時は「代案」を出すべきだ。コウソウビがよくそうしているように)

 少年は難しい問題を考えるように唸った。

(村を滅ぼす代わりに何かを差し出さないといけない。滅ぼすって、「終わらせる」ってことだ)

 すると少年の脳裏に、広場に来る前、顔を歪めて嘆いていた女性の最後の言葉が思い出された。

 ――「殺されてしまうわよ!」

(殺されるって、死ぬってことだよね。死ぬっていうのは、命の「終わり」――)

 閃きが冴えて、顔をはっと上げた。

「じゃあ、代わりに俺を殺してよ! だから、村を滅ぼすのは止めてくれないか!?」

 満面の笑みを浮かべ、不敵に男を見据えて言い放つ。

 良く通る少年の声は息を吞む広間の静寂に木霊して、村人たちを驚愕させた。至るところでざわめきが起こり、それは虫の羽音のように拡散されていった。

 男の口角が、僅かに上がったように見えた。

(そうだ。ついでに「リンリン」の真似をして……)

 おねだり上手の動物がいたのを思い出して、少年は精一杯真似をしようと考えた。

「言うこと聞いてくれたら『オマケ』を付けるからさ。ね? ね?」

 上目遣いを試みたが、ただ無邪気な子供が飛び跳ねながら見上げているようにしかならなかった。

 しかし、奇特な少年に多少興味が湧いたのか、男は、

「オマケというのが何かによるな。それ次第では飲んでやらんこともない。村を破壊し、『力』ある子供たちを抹殺することと、貴様一人を殺すことに釣り合う何かがあればな」

「う、うーん……」

(どうしよう、何も考えてないや)

 何か美味しい物でもあげようか? と少年は考えたが、ここに来てやっと冷静になって、こんなところで死ぬ訳には行かないことに気付いた。

「だ、駄目だ! やっぱり俺は死なないよ!」

「なんなのだ貴様は」

「でも、村を滅ぼすのは駄目だよ!」

「それは聞けぬ。私はそのためにここに来たのだぞ」

「うーん……」

(この人はどうやってもこの村を滅ぼしたいらしい。それはこの村がこの人にとって脅威だからだ。でも、自分に何かしてくると決まっている訳でもないものを滅ぼそうとするなんて、変な話だよな。それは傲慢だよ)

「君がこの村を滅ぼそうとする理由を、もっとちゃんと聞かせて欲しい」

「ほう。童の分際で納得を欲しがるか。良いだろう。……私の名は『オストワール』、大国の間では既に『絶帝』と呼ばれ畏怖されている。この世界において私の最強は決定づけられているのだ。故に、この私が何者かの下に付くなどとはあり得ぬ。試しに、『力』の一部を見せてやろう」

 オストワールは、俄かに腕を伸ばして右の手のひらを開いた。すると、そこにあった民家の屋根が消し飛んだ。

(……! 「力」を遠隔で放出したのか……)

「今見せたのは一部だ。私がその気になれば、この一帯ごと消し炭にすることさえ可能なのだよ。この村を滅ぼさんとする理由は、こういった『力』の素質を持つ天賦の才を感じ取ったからだ。私が天下を平定するのは確実とはいえ、ここは国ではない、法治外の村落だ。ゆえに、国家間で生じるしきたりや力関係が存在しないこの地から、混沌としたうちに暗黒の芽が生えるのを見過ごす訳にはいかんのだよ」

「……」

(この人……)

 ニハマチはよく考えた。言葉を選ぶ必要があった。相手の性格を理解し、相手が譲ろうとしない行動を別のことに逸らす必要がある。そのためには、多少の遊びを持つこの男の心根の琴線を、鋭く、しかし切ってはしまわない程度に弾かなければならない。

 さらに、彼と対立することは今は避けるべきだった。オストワールから感じる力はあまりにも強大で、外の世界に来たばかりのニハマチにも、彼と真正面からぶつかっても勝てる見込みが一つもないことは理解できた。

(彼が必ず人の上に立ちたいと思う気持ちは、彼自身が誰よりも強いと思ってることからきてるはずだ。そして、その欲望を満たしたいということが彼の根底にある) 

 ニハマチは俯き、更に深く考えた。

(欲望、なのか……?)

「なあ、オストワール」

「うむ」

「君は、全ての上に立ちたいという欲望を持っているのかい?」

「面白いことを聞くな、童。欲と言えばそうであろう。人間が持つ感情とは、全て欲求と言い換えることができる……しかし」

 ニハマチは注意深く耳を傾けた。

「私は天啓を受け、力を授かった者だ。私の行動は私の意思によるが、この『力』はまた、私とは別個の意思の元に動いているとも感じる。

「使命というやつかな。いや、授かりしが天啓なら、これは天命というべきか? 私がこの世を支配するべきなのだよ。これは私の意思であると同時に、この力の意思だ」

(……なるほど。「力」を持ってしまったために、彼は「力」に動かされている。ということは、オストワールにとってこの「力」こそが全て……?)

「君は、この世界で一番『力』を持っているから、この世界を支配するべきなのは自分だと考えるんだね」

「うむ。そうだ。簡潔で良い」

 閃きが浮かび、ニハマチは笑った。

「でも、自分より強い力を生むかもしれない子供は、先に殺すべきだと考えるんだね」

「何を言いたい? これは私の意思でもあり、力の意思でもあると言っているだろう」

「君が力を授かって、子供たちよりも早く生まれたがばっかりに、その後に自分を超えるかもしれない者はここで殺そうって言うんだ。――ずるいね」

「ずるい、か。そう考えることも出来よう。しかし、長男が王位を継承したり、先に生まれたものが年功序列となるのはこの世の常であるぞ。今この時点で最強である私が、私自身の力を行使して悪い道理がどこにあろう」

「――あるよ」

「……ふむ?」

 男はニハマチの変化を感じ取った。少年の目は意思の炎に燃え、彼の体を流れる力の奔流が、今まさに熱を帯びようとしていた。

「世界というのは長い目で見るべきなんだ。まして、何かが何かの上なんてことはない。人を力で征服して無理矢理頂点に立とうと考える君は、ただの臆病者だ」

「言うな、童。今ここで殺してやろうか?」

「駄目だ。それが臆病だと言っている」

「ならば、殺されることを恐れるお前は、私より臆病ではないか?」

「そうだよ」

「臆病者が臆病者を詰るか」

「自分が臆病だと認める者は、本当の臆病者じゃない。先を見据えているからだ。君よりも先の見える俺が、君が知らないことを教えてあげるよ」

「言ってみよ」

「――俺は君より強い」

「強がりか」

「違う。――俺は君より強くなる。今この瞬間の話じゃない。……だから」

 途端、少年から溢れる力をオストワールは感じ取った。静かに凪いで落ち着いていた力が、意思の力によりオーラとなって迸っていた。

「……貴様……まさか……」

「だから、俺が強くなった時に勝負しろ。その時がくるまで、君は村に干渉してはいけない。これを認めないことは、君が未来の俺よりも弱いってことを認めることだからね」

「はっはっは! では、いつ強くなるというのだ? それまで私は待っていればいいのか」

「いや、君が決めていいよ。簡潔なのが好きなんだろう。何年後か、何か月後か、君のタイミングで決めればいい。でも、先に言っておくよ。それがいつだろうと、君に負ける気はない」

 すると、今まで表情の変わらなかった男が、顔に明らかな愉悦を浮かべた。両手を喜劇さながらに広げ、声を張り上げて言う。

「良いだろう! 村の代わりに貴様を殺してやる。しかし今ではないぞ。一年後だ。――聞け、村の者よ! この子供は村の咎を背負い短命を定められた。それはこの村が傲慢であるがゆえだ。ちょうど一年後、この子供を殺し、またここへ戻る。それまで恐怖と罪悪感に打ち震えているがいい!」

 村人たちは戸惑いと恐怖で目を交わした。

 男が面白い土産ができたとばかりに満足げに引き返そうとしたところ、少年は怖気づくこともなく、彼に向かって一歩踏み出した。

「なあ」

「うむ? まだ何かあるのか?」

「これって勝負だよね」

 ニハマチの脳裏に、トカゲ博士と繰り広げた盤上遊戯の記憶が浮かんだ。彼は94回目の対局にて初勝利し、それから130回目の対局まで、トカゲ博士に勝ち越すことが出来ていた。

 少年は、己が何かを本気で極めんとするとき、その意思の強さで誰かに負けることなど、到底あり得ないという確信すらあった。

 全ての物事が意思だけでどうにかなる訳ではないことも理解していたが、しかし、「意思」こそがこの「力」の根幹だということを少年は分かっていた。

「つまらんことを聞くな。どちらかがどちらかを殺すだけであろう。そもそも、貴様は人を殺せるというのか?」

 ニハマチは頷いた。そして輝く目でオストワールを見た。畏怖で目を逸らせぬ訳でも、はったりで睨んでいる訳でもない。ただ純粋に、「お前と事を構える気」だということを伝えていた。

 その時初めて、オストワールは僅かにたじろいだ。この目は、この瞳の輝きは、一体何に依っているのだろうかと。

 ニハマチは不敵に笑う。心に希望と信念を持って。世界に無知なゆえに純粋な少年心で。

「一年後に君を殺す。それまで楽しみに待っててくれ」

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