1 「不思議な森」

 まだ幼い少年がソリ遊びをしていた。

 雪山ではない。木のソリでもない。大きな葉っぱのソリに乗っているのだ。葉のつやつやの裏面が急勾配の山肌を滑降しているのだ。向かい風が前髪を煽って、顔中を草花の匂いごと容赦なく叩き付けている。

 少年の髪は長かった。女と紛うほどに長い髪は、木の根を輪っかにして後ろで縛ってある。風にはためくボロ布のような服の端はところどころで長さの違う寸法のいい加減なものだったが、服自体に破れは見られず、少年の膝上までを綺麗に覆っていた。

 滑り下りる先には当然、幾つもの障害物が待ち構えている。しかし、まるでソリが彼の一部であるかのような器用さで、眼前にとめどなく現れる木や岩を、重心を変えて巧みに躱す。葉っぱのソリ、風、匂い、山肌。それらが一体化して少年を包み込み、この大自然と溶け合わせてしまっているかのようだった。

 やがて、地面がせり上がった起伏の一つが眼下に現れた。更に向こうには自然が作り上げた丘と高低差で生まれたちょっとした崖の滝があって、なだらかな平面が森の憩いの広場となったところにある、瓢箪の形をした池へ、穏やかに落ち沈んでいる。

 ソリが起伏へ向かうと、避けずにそこを滑って飛び上がった。宙に浮かぶソリから広大な森の全体が見え、少年は花が咲いたように笑んだ。


(うわあ!)


 曲線を描いて落下していく先には池が。ソリが勢いよく水面にぶつかり、高い飛沫を上げて少年ごと池に沈み込む。底のほどまで沈むと、カラフルで異様な魚たちが踊るようにヒレを靡かせ、揺らめく藻の間を列を為して通り過ぎていった。少年は手を振って見送ると、葉っぱのソリを今度は板替わりにして、両手で掴んで前に突き出し、バタ足で池の縁の水面へと上昇した。

 池から上がると、少年は髪を思いっ切り振ってから葉を手放した。後ろ髪の木の根を外して顔の前に解放し、手で纏めて絞った。

 また髪を振り乱してから後ろにどかしていると、少年の背後から近づいてくるものがあった。

 一体の動物。敢えて例えるならば「タヌキモドキ」と言ったところだろう。辛うじて犬と呼べないこともなく、ぱっと見であればタヌキである。ただ、二足歩行だった。毛並みは鮮やかで活発そうな赤茶だが、脚運びは悪く年寄りじみている。


「ほわ。ほえええ」


 歯の抜けたご老人のように何事かを言ってから(しかし声音は見た目に相応の愛らしいものである)、少年の傍らで新しい服を寄越した。今着ているのと同じ、寸法のおかしいボロ布のような服だった。


「ありがとう!」


 タヌキモドキは頷くと、交換したずぶ濡れの服を大事そうに両手で持って、ふらふらと何処かへ帰って行った。

 少年は服を抱えて滑り落ちてきた山林の斜面を上った。鬱蒼とした森からかかる木漏れ日は弱いが、全身に纏わる水などあっという間に乾いてしまうだろう。

 両手を振って帰路を歩む少年の行く手、木々の影から大きな姿が現れた。二頭の熊である。しかし、毛並みはモミジのような檸檬色、孔雀に似た尻尾は黒と白で、凛とした顔で少年を数瞬ほど見遣ってから通り過ぎた。

 熊の澄まし顔をおかしく思って少年は笑った。暫く思い出し笑いしながら進んで行くと、今度は頭上の葉の間から喋るものがあった。

 赤い蛇だった。


「今日も元気だね」


 含蓄のある老婆のような声で舌をちろりと泳がせると、その動きが面白くて、少年はまた笑いながら頷いた。


「君は?」

「そら元気さ。あんたには負けないよ」

「ふひひ」

「何だいその笑い方は」


 蛇は呆れつつ、自らの鱗を一枚はらりと零して少年にやった。赤い鱗は、裏返すと輝く銀になった。

 鏡面である銀色の裏側は、見知った生き物、モノを思い浮かべることでその近くに転移することができたが、あいにく日の沈み出すまで歩いていたかった少年はそれを使わなかった。代わりに、少年の上半身の高さまで垂れ下がった長い尻尾を許可も得ずに鷲掴みにする。絞ると透明な甘い液体が出てきて、それを三滴ほど飲ませて貰った。


「礼儀の無い子だね」

「ありがとう!」


 感謝の言葉だけは立派な少年に、やれやれ敵わないと言った様子で蛇は姿を消した。

 それからも、山を登る途中で様々な生き物とすれ違った。

 ……一つ目の猿ではない何か、ペンギンのように地上を緩慢に散歩する羽のないカラス、川面の巨大なワニ、子供を連れて釣りをしているモグラ――それら「普通の生き物」に類する者はまだいいが、例えることすら困難な生命もいる――奇妙な動物たちの生息する森は、少年の柔軟な心を軽やかに弾ませた。

 やがて陽は少年の背後で赤く染まり、地平線に輪郭を滲ませようとしている。森林地帯を抜けると開けた丘を登って、見晴らしの良いてっぺんで待っているはずの存在の元へ向かった。

 草を裸足で踏み、丘のてっぺんの崖上へ辿り着くと、彼の背中があった。

 シロクマの背中。しかし、白くて丸いふわふわとした背中の上に乗っかる頭は、立派な樹木の幹のような角を携えた――即ち、鹿の顔をしている。

 鹿顔のシロクマは、右腕が顔の方へ上がっていた。何かを食べているのだろう。少年が傍まで行くと、鹿顔は橙色の果実を人間の動作で頬張っていた。彼は、自分の太い脚の上に置かれた、まだ皮を剝いていない緑色の果実を爪で指した。少年は頷いてそれを手に取り、皮を手で器用に剝いて、露わになった橙色の実にかぶりついた。


「おいひい~」


 少年は恍惚とした表情で咀嚼した。


「中々取れないものです。味わって食べなさい」


 鹿顔の優しい声音に少年はまた頷いた。

 崖上から見渡せる、地平線まで続く壮大で奇天烈な森に、夕日が溶けるように沈みゆく。二人が黙々と果実を食べ終えると、少年が言った。


「なあ、夜は何しようか?」

「勉強はいいでしょう。好きになさい」

「やったあ!」と、少年は両手を上げて嬉しそうに顔を綻ばせた。


 しかし、勉強であっても特に苦にすることはなく、むしろ喜び勇んで遊びよりも没頭する彼の心根を鹿顔は知っていた。単純明快で分かりやすいことを好む少年は、「好きにしていい」という言葉に喜色を漲らせたまでだ。元より勉学に限らず彼を束縛するような行為は、むしろ彼が自由であるための補助になることが常だった。

 少年は飛び上がるように腰を起こし、張り切って走っていった。鹿顔は微笑んで見送ると、今食べた果実の色と沈みゆく夕日を比べた。

 日が完全に沈んでから、鹿顔は「館」へ赴いた。巨大な樹木が生える地帯に館はあった。木々の間の広大な空間、地を這う逞しい根、仰ぎ見るほど高い葉の天井は、自身が小人になってしまったと錯覚させるほどだ。

 加えて、木は殆どが中を繰り抜かれ、あるいは装飾され、光る海藻を花弁にくっつけたランタンが色とりどりに照らす居住地となっていた。高所は木の根の梯子や蔦と木で作った橋が繋いでいる。館というのも、この辺で最も大きな巨木を加工した家のことだった。

 木の断面を利用した横付けの折り返し階段を上がり、アーチの玄関を潜る。広大な吹き抜けとなった内部には外周を巡る五階分の回廊があり、中央に柱として残された心材の一部を花のランタンが光の塩梅を考えて天井までぐるりとくっつけてある。幅の広く取られた回廊は坂になって直角の扇状に続き、半円の踊り場を挟んで、また扇状に上るといった形だった。四分の一が坂で二分の一が平地……という具合で、ちょうど二階分上ったところで一周する計算。外周には、幾つもの扉や空洞があった。

 鹿顔は三階の踊り場まで上がると、開かれた扉の一つから灯りが洩れていることに気付いた。

 中に入ると、小さな図書室といった風情の部屋に少年がいた。木の地面にうつ伏せになって右肘を付いて頬を支え、本を読んでいる。

 鹿顔は極力邪魔をしないように入口から囁きかけた。


「偉いね。結局勉強してるのか」

「ううん。本読んでるだけ!」


 少年は本に視線をやったまま答えた。曲げた両足をぷらぷらと前後させている。覗き見ると、字が半分、絵が半分といった釣り合いの冒険記だった。


「そうか」


 鹿顔は部屋を出ていった。

 少年は暫く本の世界に没頭し、読み終わるとうんと背伸びをした。そして、部屋を出て回廊を五階まで上がった。

 踊り場の側面は三段に積み上がっており、その二段目にある扉の一つを手で押し開けた。

 小部屋の中央には向かい合わせに椅子が置かれたテーブルがあり、入って左の机の前に座る「トカゲ」が、紙に何やら書き付けている。


「コウソウビ、テセット!」


 少年の声を聞き、鼻の上に眼鏡を掛けたトカゲは、つと首を上げて見向くと、


「懲りない馬鹿だ」


 と言って罵倒したが、口調は穏やかで蔑んだ様子はなかった。少年はそもそも何と言われても気にする性格ではなかった。


「やろ!」


 コウソウビと呼ばれた太り気味のトカゲはしぶしぶ腰を上げると、棚の一つから盤を取り出してテーブルに置いた。そして、造形の施された木製の駒を並べる。

 テセットとは、11×11のマス目で、それぞれの役と能力を持った駒を動かす盤上遊戯である。少年とトカゲは今までに六十九回対局し、全てトカゲが勝利していた。

 対局は四十分ほど続いた。結果はまた、トカゲの勝ちだった。


「はっは。まーだまだ。勝てん勝てん」

「ふひひ」

「何が可笑しいんだか。これで僕の七十連勝だよ。悔しくないの? おかしなやつだよ、お前は」

「次勝つからいいよ。今は勝てないから!」

「……」


 コウソウビは神妙に唸り、沈思した。

「今は勝てない」。言い訳や強がりではなく、純粋な事実としてそれを受けとめている。同時に、「次は勝つ」と信じて疑わないところがある。その次が必ず来ることを確信しているのだ。確かに、少年は一戦を経るごとに着実に強くなっていた。


「よし、次だ。やるぞ」

「うん!」


 コウソウビの心中を少年が理解することはなく、静かに夜は更けていった。



 薄靄がかかったように白んだ朝、平たい鍬が鈍く光って振り下ろされる。少年は顔の汗も拭かず、一心に畑の土を耕していた。

 少年の生活は一汁一菜のようなものだった。森の木の実や果実を好きなように食べられるとはいえ、実りが少ない。熟れた果実など滅多に手に入るものではなかったので、自足自給で作物を育てるほかなかった。森の喋る生き物たちはみな同様に、食欲が極めて控えめだが、少年は食欲旺盛そのもの。畑の実りがそのまま彼のエネルギーとなるので、手は抜けない。

 畑では、黒い毛並みの狼が三匹、綺麗に横並びになって、人間のように二足歩行で耕作をしていた。

 彼らは少年よりも動きが速かった。少年は負けじと鍬を振るったが、土を掘り返すのが難しい。狼たちのようにさっくりと掘れない。


(「力」は使えないしなあ)


 少年は、自身の生活を監督する鹿顔から、とある「力」は極力使わないようにと言われていた。


(キンニクとカンセツを意識しないと)


 引き千切られたような服の裾から露わになった腕が鍬を持ち上げては下ろす。元々色の白い肌は日焼けしてなお健康的な程度の色に留まっており、まだ幼いがゆえにそれと分かる筋肉は付いていないが、細くしなやかに引き締まっている。

 黙々と耕作を続けているうち、「それ」は突然起こった。


「――え」


 少年が初め「それ」に気付いたのは、濃厚な気配を感じたためだった。

 遠く、遥か遠く――「外」と呼ばれる世界からだった。


(すごい、大きい……)


 しかし、少し違った。森を見渡せる山頂に畑はあったが、「外」まで距離があったのと、少年がいるところが山頂のため高いからであろう、若干錯覚していたのだった。まだ日の登りきっていない清らかな朝を見通せば、「それ」という存在は、余りにも巨大に過ぎるその存在は、上空から落ちてきていた。


(空から……あれ? 違う。――「空」が落っこちてる?)


「それ」は、「空」そのものだった。

 空が地上に落ちているのだ。


(ううん? でも、高いままだ)


 少年がそう思った通り、透き通った薄水色のキャンパスが地平線に迫ってきている訳ではなかった。空は高いままで、ところどころの薄い雲は、ただ同じところを漂うばかり。

 それでも、「それ」は空と言う他はなかった。空ほどの大きさの――「外」の世界をまるごと覆えるほどの大きさの何かが地上へ落下しているのだ。

「それ」は実体として捉えられるものでもなければ、光として感覚されるものですらなかった。だが、「それ」は「力」を持つ少年からすればはっきりとした存在として感覚された。

 この頃の少年の言語能力と教養では、その光景から直感された予感を言語化することは出来なかったが、敢えて言葉にするならば、少年ははっきりとこう感じたのだった。

 ――世界が変わる、と。

 呆然と感覚する少年の傍らに、誰かが立った。少年は言うまでもなくそれが誰であるかを悟った。


「これは……何たる」


 普段、驚愕や激しい情動を表さない鹿顔ですらが、言葉を失っていた。ただ、少年の横で同じように「それ」を見詰めた。

 ゆっくりと侵食するように落ちてくるそれを見て、鹿顔はぽつりと言った。


「『備え』であった訳ですか」

「……そなえ?」


 鹿顔は少年の頭に手を置くと、ゆっくりと撫でた。少年は不安を感じている訳ではなかったし、鹿顔もそれは分かっていたが、自然とそうせざるを得なかった。彼がどれほど逞しくあろうと、まだ幼きに過ぎる。

 森がざわめいた。三匹の狼も立ち止まって「それ」を見詰めていた。ここにいるものたちがみな「それ」に気付いているのだ。湖面に漣が立った後のように静まり返って、遠くから聞こえる生き物の鳴き声も、梢を揺らす風の音も、何もかもが消え失せた。森の全てが黙って「それ」を見ていた。聞いていた。感じていた。


「■■■・■■■■」


 少年の耳に知覚されない音の重なりを口にして、鹿顔はじっと沈黙した。少年が遂に飽きてその場を離れてから「それ」が落ちきるまでに、鹿顔は実に丸一日中眺めていたのだった。



 そして、少年の森での生活は、更に数年が過ぎた。


「――はっ! やっ! せい!」


 少年は樹木と戦っていた。というのも、樹皮から枝が勝手に伸びて少年に襲い掛かるのだ。発射と言うべきかもしれない。

 長い木の棒が少年の得物だった。迫りくる触手の如き枝を木剣でいなすのである。

「それ」が落ちてきたあの時から、少年は成長していた。十分に上背が付き、髪も更に伸びて、丸みを帯びていた顔は幾らか凛々しい輪郭を描くようになった。

 それでもまだ少年だ。幼さはやや削がれていたが、まだまだ子供の年齢だった。


「脇が空いている。足も悪い」


 すると、幼い女の声が聞こえた。

 木の本来の枝に尻尾でぶら下がっている翼の生えた蜂蜜色の猫――犬でもいい。見る者によって分かれるところだろう。とにかく犬か猫のような何かだ。

 発射される枝は高さと軌道を変えて絶え間なく襲い掛かり、少年は棒を盾にして受け、側面で受け流し、下から叩き上げ、時に回避した。まるで実践的な木人樁を相手にしたかのような特訓を不遜に観察する犬猫は、少年の動きをいちいち見咎めては指摘した。


「全然なっちゃいない。重かったら負けてるわ。軽いから返せてるだけ」

「今のは受ける手じゃない。躱しなさい」

「その脚運び……はあ」

「避けるな。今のは避ける手じゃない」


 少年は黙って叱咤を受けた。泰然自若とあっけらかんな少年にも複雑な自我の一端が芽生え始めていた頃だったが、犬猫の指摘は微に入り細を穿つ的確なものだったので、むしろ少年には有り難かった。

 ところで、猫の隣にはカエルがいた。木の棒を持ったカエルだ。こちらは細い枝木に仁王立ちで、言葉は発さない。

 ふとした時に棒を振った。するとちょうどその瞬間に、飛び出る枝を避けられなかった少年が吹っ飛ばされてしまった。


「ほらほら続ける」


 前屈みにきっと木を見据えると、猫にせかされるより先に進んで特訓を再開した。

 少年が吹っ飛んだからくりは、ほんの僅かな間合いのために避けきれないと判断した体が、咄嗟に少年の理性を超えて「力」を使おうとしたところ、カエルの棒に止められてしまったというものだ。身体能力を瞬時に増幅させるために全身に漲ろうとした「力」の流れが、棒の一振りでぴたりと止まったのだ。

 表情も変えずじっと佇むカエルに不可視の力を制御され、冷たい目で蔑むように見る犬猫に小言を浴びせられながら、特訓は暫く続いた。

 昇った日がまだ落ちかけぬ頃、少年は滝に打たれていた。葉っぱで作った底の深い器を両手で掲げ、器は水でなみなみに満たされ、水面にはそれぞれ一枚の葉が浮いている。

 正座する少年の頭に怒涛の勢いで降り注ぐ水流だったが、二枚の葉は水面の真ん中でゆっくりと回転するばかりだ。そこに元々あった岩ではないかと思うほどに、少年は微動だにせずいる。加えて、葉っぱの器にかかる衝撃を手から伝える「力」によって相殺していた。

 殆ど無心を保つ少年の心にあったのは、「お腹が空いた」ということのみ。

 少年は森の質素な食事のせいで常に空腹を感じていた。まるでそれを紛らわせるかのようにあらゆることに打ち込み、感覚を研ぎ澄ませていた。

 体内を往復する「力」の奔流は凪いだ意思の元に統一されて、激しく降る滝に耐えながらも穏やかだった。滞っているのではない。ただ、じっと全身のあるべき位置に留まりながら、緩やかに無数の螺旋となって渦巻いているのである。

 これは少年の特異感覚だった。もし「力」について多少言えることがあるとすれば、「力」はそのように体内で操作できるものでは決してない。全身を流れるはずのそれが、全身の各部で無数の「支流」を作っているというのは、ある種この「力」の根幹を覆してしまうほどの異形だった。

 滝に打たれるうち、少年は直感した。


(――行かなきゃ)


 少年が遂に「外」の世界へ旅立とうとするまで、およそ十年に及ぶ森での生活だった。……少年は十三歳になっていた。

 日が落ちてから巨木の森に向かうと、鹿顔――パナイヤンと呼ばれる存在は巨木の切り株に座って編み物をしていた。彼の正面に回って少年は話しかけた。


「パナイヤン、俺、行くよ」


 パナイヤンは暫く目を瞬いて少年を見たあと、微笑んで頷いた。


「行ってしまうのですね」

「うん!」


 具体的なやり取りはなく、少年は直ぐに館に向かった。回廊をどたどたと走って、トカゲ博士――コウソウビの部屋に入る。


「俺、行くよ!」

「……」


 扉を勢い良く開けて大声を上げた少年を、コウソウビは椅子に座りながら怪訝に見遣った。少年に背丈を抜かれてしまった小太りのトカゲは、面倒そうな口調で言った。


「何処にでも行ったらいいじゃないか」

「ううん。俺、行くんだ。『外』に!」


 コウソウビは数瞬だけ目を丸くすると、机に視線を落としてため息を吐いた。


「そうか。遂に行くんだな」

「うん」


 少年は首を傾げた。


「寂しいの?」

「殊勝なこと言うんじゃねえよ。――まあ、しかし」


 軽く咳をする。珍しい咳だった。


「寂しくないと言えば噓になるな」

「ふひひ」

「笑うな」


 左手の指で少年を言い咎めると、立ち上がって少年の傍を通り過ぎて部屋を出た。背中越しに問う。


「お前のことだ。すぐに行くんだろ?」

「うん。もう行くから、お別れの挨拶ってやつだね!」

「はあ。困ったやつだよ……」


 コウソウビは振り返った。


「せめて明日の朝からにしないか?」

「今からがいいな……」思案げに視線を上げながら言う。

「そうか……まあ、お前の感覚を邪魔しない方がいいだろう。行くべきだと感じたんだな?」

「うん。行くんじゃなくて、『行かなきゃだめ』なんだ。早く行かないと、『間に合わない』」

「……だろうね。そうお前が感じた時に私がどう動くかも込みと考えて――流石に飯を喰ってからにするべきだな」

「めし!?」


 眼鏡の縁をいたずらっぽく光らせて、


「とびきりに旨い飯だよ」と自信ありげに微笑う。


 少年は言葉を失って立ち尽くした。

 このトカゲは言葉というものを非常に大切にする。パナイヤンもそうだが、この二人が言うことに偽りは一切ない。特にトカゲの方は、言葉遣いこそぞんざいだったりはするが、いたずらに言葉を繰ることはなかった。

 彼が「とびきりに旨い」というのであれば、その言葉の重みは他の者が発するそれとは比べ物にならないのだ。

 少年が連れて行かれたのはこぢんまりとした厨房だった。しかも、少年が入ったことのない部屋だった。

 厨房には見たことのない調理器具がずらりと並べられていた。というのも、少年がそれらを見たことがないのだ。彼が調理法において知っているのは、木の実や作物を「煮る」ということのみで、実際に見て触ったことのあるのは小さな寸動の鍋だけだった。

 初めて見る道具や調味料の類を、本で得た知識に照らし合わせて推測する。それらは殆ど空想上の品々で「外」の世界でしか見られないとばかり思っていたものであるため、彼は目を恍惚と輝かせた。

 薪を焼べた窯の前に立つコウソウビは、平たい石の上に置いた底の浅い片手鍋を左手で持って、右手で要領よく木べらを動かしている。彼に促された少年は、丸い机の周りにある背もたれ突きの四脚の一つに腰を下ろした。

 若干浮いてしまう足を遊ばせながら、部屋に充満する嗅いだことのない匂いを鼻いっぱいに吸い込む。

 ……甘酸っぱくて香ばしい、塩気のある脂の匂い。

 ――と、初めての感覚にそういった言葉が浮かんだ訳ではなかったが、とにかく、少年はそういった感じの「旨そうな」感覚を想起した。

 魅力的な匂いに少年が嬉々として目を輝かせている間に、いつの間にかパナイヤンが正面の椅子に座っていた。


「何の匂い?」少年が早口に聞く。

「今分かりますよ」


 机に皿が二つ運ばれてきた。少年、パナイヤンの順で目の前に置かれる。乗っていたのは魚のごちそうだった。香草を詰めて焼いた魚の上に飴色の餡がかけられ、白い湯気が揺蕩っている。

 もちろん、少年はそんな料理を見たことがないし魚を食べたこともない。しかし、真珠のように白濁した目で横たわる頭部は、どこからどう見ても魚だった。


「え……これ」

「すまんな、今まで黙っていて」


 コウソウビが少年から見て左の椅子にどっかと腰を下ろした。


「さ、食べないと冷めるぞ」


 少年は手を膝の上に置いたまま顔をくっつけんばかりに料理を凝視して、魚と見詰め合った。

 魚の目は虚ろに見えて、こちらを睨んでいると思えばそう感じるが、視線が何処に定まっているかははっきりとしない。しかし、薄っすらと開かれた口は今にも喋り出しそうで、とろりとした未知の液体をかけられて苦しげに訴えかけているような様子は、少年を微妙にいたたまれない気持ちにさせた。魚たちは意思疎通が出来るような生物ではなかったとはいえ、彼らも少年にとっては立派な森の仲間の一人だった。

 また同時に、少年は理解もしていた。魚というのは一般に食用であるということ、引いては、森の生物たちの幾らかも人間の食べ物の一種であることを。  

 躊躇う気持ちを客観的に押し殺し、また匂いから喚起される動物的な本能に従って、食べることを決心した。皿の前にはこれまた初めて見るフォークとナイフが置かれていたが、あいにくそんなものを使ったことがない少年は手で一気に皮をむしり取って、こびり付いた身を頬張った。 

 咀嚼した途端、得も言われぬ新感覚が脳を満たして、初めて柑橘類を口にした幼児のように頬を膨らませたまま静止してしまった。数瞬後にはもう咀嚼を再開し、魚の脂と複雑な味わいの餡を堪能して惚けたように目を細めた。


「旨いか?」

「ん~!」


 歯止めを失ったようにがっつく。トカゲは食事に混じらず、厨房に向かってせっせと新しい料理を作っている。丸いテーブルに次々と料理が運ばれた。それらには肉の入ったパイなども含まれていた。未知の味覚の大軍勢と格闘を繰り広げている少年を尻目に、パナイヤンはフォークを器用に使って涼しい顔で食事を楽しんでいる。

 コウソウビはスープを三つテーブルに配り終えると、自身も席に付いた。

 スープを一気に飲み干して料理を食べ尽くしてしまった少年は、「ごちそうさま!」と言って席を立った。そのまま厨房を出ようとしたので、コウソウビは口に入れたものを慌てて飲み込む羽目になった。


「唐突だな、お前は」


 非難まじりに顔を顰めて見せるが、少年は無邪気に首を傾げてただ笑っているばかり。トカゲ人間が呆れてため息を吐いていると、スープを手にした鹿顔が少年を見詰めて、


「行くんだね」


 少年は頷いた。


「早く行かなきゃ!」


 口の周りも拭かずにいるのを見てコウソウビが立ち上がると、「急ぎならいいものがある」と言って少年より先に厨房を出て彼を促した。

 三人は丘の上にいた。コウソウビは物も言わずに背を向けて佇立していたが、彼の目の前に輪郭が波のように浮かび上がった。それは鏡で、シロクマの巨体を持つパナイヤンが二人分並んで接近しても全身を現せそうなほどの大きな写し鏡だった。コウソウビは振り返って、少年の服の肩あたりに指で触れた。

 すると、たちまちに奇術のように糸が解れた。服がそこからばらけていって欠けたパズルのように空洞が生まれたかと思うと、糸は新たに伸びては複雑に絡んで縫い合わさり、ところどころで好き勝手に面を広げて裾を作っては裁断され、折られては留められ、また解れては縫われ、複雑怪奇な繰り返しを経た末に、工程に比しては極単純な、上下一体の服を作り上げた。

 緩やかな服だが、ローブほどではない。控え目な立て襟が首を僅かに覆っていて、上から下にかけて目の詰まった服は滑らかで繋ぎ目も糸も一切分からず、上質な布地のよう。少年の膝下までを覆うズボンは服の内側から生えたようになっているが、一見すると上着の下裾の形が変わって続いているようにしか見えない。内側に不思議な厚みを持った服にはめり込んだポケットが幾つかあった。それは砂丘の沈んだところのようで、皺で影の濃くなった部分にしか見えなかった。やはり砂丘の如き薄茶色の服は、少年の肌色をやや穏やかに落ち着けたぐらいの色合いだった。

 少年はまず、体を捻ったりして柔軟性を確かめた。十分に動かし終えると、常に明るい顔を更に綻ばせて言った。


「うん! いいね、悪くないよ!」

「何様だよ」と、トカゲ顔の眉が広がる。

「布地も丈夫だから、お前が馬鹿みたいにはしゃぎ回っても破れない」

「うん! ありがとう!」


 コウソウビは目で笑ったあと、鏡を手で示した。


「急ぐんだろう、この鏡を潜りな。森の外に出られる」


 少年はただ頷いて、鏡の前に立った。そして振り返った。数歩ほど近寄っていたパナイヤンが言った。


「思う存分、楽しんで来なさい。何が起こっていようと悲観することはありません。あなたは『備え』ではあるが、何人も漏れず救い出す救世主などではない。ただ、■■■を目指すのです」


 ある言葉がいつかのように音の響きとなって聞こえたが、それは閑寂とした森にぽつんと投げ入れられて葉を揺らし、木々を渡って森そのものに波及していくかのように、少年の決意と呼応して力強く意味を沁み込ませていった。


「さあ、行っておいで」


 少年は踵を返すなり鏡に潜り込んだ。少年の体が吸い込まれていったのを見て、コウソウビが呟いた。


「騒がしいのがやっといなくなった」


 パナイヤンは遠い地平線を見詰め、穏やかに嚙みしめるように言った。


「そうですね」

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