グランドスカイ物語
納豆豆納豆豆
プロローグ
0 「力の足音」
お互い、一歩も譲らない斬り合いだった。
少年が斜め上から鋭く斬りかかる。木剣同士がぶつかり、高く乾いた音が響いた。素早く受けた方は少し背が高く、年も幾らか上に見える。切先から中間まで滑らせ、横に流すようにした。少年はややぐらついたが、構え直してまた自分から攻めかかった。
旺然と若い気力に溢れた二人は、怯まず隙を見せず、攻めては守り拮抗していたが、やがて綻びが生まれた。
背の高い方だった。
少年が見逃さず、猛攻に転じた。守りを捨てて仕留めにかかる少年の鷹に似た真っ直ぐな目を、背の高い方は真っ正面から受け止め、気迫で耐えた。
少年は夢中だった。
(勝てる……!)
不意に、力が漲る。
留めの一振りを放った。それは背の高い方の受けをあっさりと崩し、体ごと吹っ飛ばしてしまう。
「――やめい!」と、師範の声。
振り向くと、張り出しの軒先の前で両手を袖に入れ、視線を彼方へやっている。
(勝負が決まったんだ)
少年は頬を上気させ、体いっぱいに呼吸をした。
しかし、その目は揺らいでいた。
(力を使ってしまった……!)
最後の一撃は、確かに気迫に勝る見事な一閃だったが、うっかり我を失い、「力」を使ってしまったのだ。
少年は急いで走り、倒れる彼に手を差し伸べた。背の高い方は片目を顰めて、掴んだ手を支えにして膝立ちになると爽やかに笑った。
「お前の勝ちだ。タネツリ」
「オダマキン、でも」
背の高い方――オダマキンと呼ばれた少年が首をさっと振って師範を一瞥する。
「勝ちは勝ちだ。誇れ」
爽やかに笑ったオダマキンはすくっと立ち上がり、若干背中を痛そうにしながら師範へ歩み寄った。
「俺の負けです。師範、見届けありがとうございます」と慇懃に頭を下げる。
「うむ――タネツリとこれから話すから、ちと下がってくれるか」
「はい」
オダマキンが道場の寮へ歩いていった。暫くそちらをぼうっと見遣ってから、少年は軒先に座る師範の横に腰を下ろした。
師範は目を合わせずに、「タネツリ」と厳かな声で言った。
「はい」
タネツリはごくりと喉を動かした。
(気付いていただろうか?)
果たして、師範は遠くを見据えたまま、
「お主、『多流(タルー)』を使いおったな」
俯いていたタネツリは、勢い良く顔を上げた。
「いえ、わざとでは――」
懇願した様子のタネツリを見ず、師範が小さく首を横に揺らした。
「責めてはおらん。それよりオダマキンじゃ。あやつは、お主が多流を使い、儂がそれに気付いた様子でないのを感じ取って、自らの負けにしたな?」
「はい……」
タネツリはほっとして、自分の足元を見た。正直に言わなかったのを怒られるかと思ったのだ。
ちらりと隣を見向くと、師範は微笑んでいた。
「また、お主はそれを分かって、あえて儂に言わんかった」
「は、い……」
真意を計りかねて不安が押し寄せ、狼狽えていると、右肩に師範の手が置かれた。
「皆伝に挑む資格を与えよう。里を出て、旅に行きなさい」
少年の目が大きく開かれた。驚きと喜び、寂しさが胸中で爆発し、子供らしい純粋さと幾らか職人的な気難しさの混じった瞳が混沌とした感情に揺れ、万華鏡のように光を変化させて移ろった。
(俺が、皆伝……!)
「はい! ですが、今すぐにとは」
「焦らんでよい――今日は祝いじゃ! ここを発つのは五日後とする。今日は祝いの席を楽しめ!」
「は、はい!」
深く首を垂れながら、タネツリは思った。
(師範は、能力は関係なかったことを分かっているんだろう。そして、俺自身がそう思っていることも。驕りも見透かされているに違いない。気を、今一度引き締めないと……!)
祝いは慎ましく、しかし盛大に行われた。山中のなだらかな場所に造られた剣術道場の寮生が集まり、野外に設けられた一つのテーブルを囲んで、山菜や獣の肉を使い、出来得る限りの豪華な食卓を皆で楽しんだ。
テーブルの真ん中には空洞が空いており、ぶら下げられた大きな猪肉が焚き火で焼かれている。星空と火が照らす夜闇で、タネツリの顔が逆光で浮かび上がっていた。
「やったな、タネツリ!」オダマキンはそう言うとタネツリの肩に腕を回した。「見事だった。力を使っていても使っていなくても、お前が勝ってた。それは俺たちが良く分かっていることだ。そうだろ?」
「オダマキン……」
心底嬉しそうに笑う彼の顔を見て、タネツリの目に涙が滲み始めた。隠すために咄嗟に俯いた。
(もう、会えないのか)
祝いの、雑然としているがどこか品のある心地良い賑わいが遠のいていく。
(皆に会えなくなる)
「タネツリ!」
オダマキンがタネツリの両肩を強く揺すった。
「暗い顔をするな! お前は誰よりも強い! 自信を持っていい。何せ、お前は俺に勝ったんだからな!」
勇ましくも涼やかな瞳に見詰められ、タネツリはじわりと溢れだす涙を止められなかった。情けないと思いながらも涙を流し続け、それは宴席の匂いに刺激された腹が食欲を訴えるまで、止まることはなかった。
出立の二日前、タネツリは師範との稽古に励んでいた。磨かれた松の床を足裏が軽快に叩き、怒濤の如く迫る圧を木剣で受け止める。師範の剣は獣の牙のようだった。噛み付けば離れることはなく、獲物が疲弊しきるまで容赦なく蹂躙する牙。
(師範より強いやつがいるなんて、信じられない)
師範によれば、里を出た先の世界というのは、どんな賢人でも見果たせぬほどに広く、底知れぬほどに深い。宝玉の如く磨かれた石があるとすれば、彼ですら珠の形に仕上げられた石でさえなく、ほんの表面を削られ整えられた石材に過ぎないのだという。
(けど、それは噓だ……。師範は謙虚過ぎるところがある。その例えを借りるなら、丸い玉にした石を、何重にも磨いたぐらいはあるはずだ)
タネツリは確信を持ってそう思った。自身の実力に対する信頼によるものでもあった。事実、その感覚は的を得ており、剣術の腕だけで言えば、里の村外れの山にひっそり道場を構えるこの老年がらみに見える白髪の男は、剣の道に生きる者の数えられる範囲には入っただろう。
防戦一方ではあるが勝負は取られず、三十秒ほどの斬り合いが終わる。若く滑らかな額に浮かぶ汗を腕で拭い、四角い木桶に汲んだ湧水を竹筒で掬って飲む。澄んで冷たい水が喉に心地良い。
師範も隅の木桶のところに来て水を飲んだが、汗を掻いた様子はなかった。まだ十三になったばかりのタネツリとは相当の年季の差があるとはいえ、弟子の稽古になる程度の力量に留めて体を労わる加減の仕方は、まだ二人の間に横たわる壁の途方もない高さを思わせた。
「タネツリ、昼餉にしよう。そうじゃ、なるべくオダマキンと居たいであろう、あやつと飯を食わんか」
「はい!」
二人は試合用の稽古場を後にし、吹き抜けの廊下から大稽古場に向かった。木剣の音と雄叫びが壁越しにくぐもって聞こえてくる。師範が扉を開けると、熱気がむわりと溢れた。
オダマキンは入って左の中央にいた。呼気の満ちる稽古場にあって常と涼やかな顔に、今は鬼気を纏って組み手に励んでいる。
今まさに相手を圧倒して床へ仰向けにさせたところで、起き上がらせようと差し伸べた手は柔らかく優しい。タネツリより1つ年上の彼は、思い残すことなくタネツリを送り出せるように、総仕上げとなる明日の斬り合いに望む自身を限りなく高めるべく、背水の構えで稽古をしていた。
「明日の仕上げ、厳しいかもしれんぞ?」
「……はい。俺もそう思います」
(オダマキン……離れても一生、俺の兄貴分でいてくれ)
タネツリの脳裏に彼と修行をした日々が甦る。没頭するオダマキンに話しかけることは憚られたが、飯となれば話は別だ。腹ごしらえはしなくてはならない。
師範が先に近づいていった。
――その時、尋常ではない轟音が響いた。
「ぬっ!」
およそ地震などの天災の類はなく、鉄鋼の発達している訳でもない里において、誰もが初めて耳にする巨大な音で、稽古場の全員が何事かと静止した。
タネツリは縋るように師範を見た。立派な髭に囲まれた口の端に浮かぶ、いつもの笑みが消えている。
「今のは……?」
すると、師範はいきなり扉の方へ踵を返した。
「全員ここにおれ。里へ行く」
早足で扉を開け、閉めるのも煩わしいとばかりに駆け出していく。その年齢では考えられないほどの、恐ろしい身のこなしと素早さだった。
「師範が走ってるところ初めて見たよ?」まだ幼い子供の一人が言った。すると、彼より年長の子供が咎めるように彼を見た。
「ハラヒラ! そんな吞気な状況じゃないんだよ。多分」
「そうなの?」
呆然と立ち尽くすタネツリの肩に誰かの手が触れた。滝の汗を腕で拭うオダマキンがいた。
「行くぞ! タネツリ!」
タネツリは当然だとばかりに頷いた。
山を駆け下りる。山と言っても彼らの里の裏手にある小さな小山であるが、里までは十分な距離があった。既に大きな起伏二つ分向こうに見える白い塊は師範だろう。自然の傾斜と林立する松をものともせず、まさに
「師範、あんなに速く走れたんだ」
「俺もびっくりした。だがタネツリ、それだけ危急を要する何かがあるってことだ」
「うん!」
先を行く偉丈夫には劣るが、二人も慣れた脚運びで転げ落ちるように山を下りた。
山裾に差し掛かり勾配が緩やかになる前に、村の三角屋根の民家が見えた。遠く、丸い広場の中心に、大きな何かがある。目を凝らすと、その何かを住民が押し寄せるようにとり囲んでおり、しかしぽっかりと穴の空いたように距離がある。山暮らしの視力を活かしてもっとよく見れば、中央には一人だけ誰かがいるようだった。
「あれ、何だろうか。凄く大きい物じゃないか?」
その大きな何かは、鈍色の金属の塊に見えた。
「ああ、大きい。かなりの大きさだ――おい、師範だ! あの広場に入っていく! 急ごう!」
村に入ると民家に人気は感じられず、しんと静かだった。
(みんな広場に集まっているのか?)
山の麓に近い家々の間を駆けていると、軒先の引き戸の隙間から住人が顔を出し、二人を伺っていた。オダマキンはそこで立ち止まり、「何があったんですか」と、声を張り上げた。
四十がらみに見える女は僅かにたじろぎ、奮える唇で、
「あ、あんたら、道場の子供かい。――広場には行かない方がいい。空から人が降ってきたんだ。大きないかりとそれに乗った人だよ。実はね、あたしは元々遠い国から来たから分かるんだ。あれは『力』を持っているよ。絶対に敵わないんだ。関わっちゃあいけない!」
(――力。多流のことか?)
同じことを考えた二人は顔を見合わせた。
「多流」というのは、その名の通り体内にある無数の力の奔流のことで、師範がそう名付けたのか、はたまた里の外でもそう呼ばれているのかは二人には分からない。
しかし、それは誰にでも使えるものではなく、師範が十五年前に道場を建ててのち、力を確知できたのはこの二人を合わせて四人しかおらず、現在の道場では師範を含めた三人だけが知る秘中だった。それで、タネツリとオダマキンを戦わせ、勝った方を各地にある師範の旧友が構える他の道場へ旅をさせ、「皆伝」に至らしめると言うのである。
頷き合った二人は、広場へ一目散に駆けた。やがて円形の広場が見えると、確かに中央には大きないかりがあり、その上に人が片足を乗せていた。――その正面には師範がいる。
二人は目を剝いた。師範が持っていたのは真剣だった。刃の細く長い、いわゆる刀だった。
いかりに乗っている人物――里では絶対に見かけることのない藍紫の長髪を腰まで伸ばした男は、これもまた里では見かけない目鼻立ちと服装をしており、涼やかな目元は澄んで穏やかなようでもあり、底知れぬ冷淡さを湛えているようにも見える。大人たちの中でも師範は大きい方だが、男は更に背が高い。
師範は、剣吞さを表に出さぬ静かな表情で、男に問いかけた。
「お主、何用であるか」
男は反応を示さなかった。代わりに、腰に携えた短剣を抜き取る。小さな、包丁と見紛うぐらいにちっぽけな剣だった。にも関わらず、師範はやにわに真剣を振り抜いた。
「ぬん!」
「あっ!」
タネツリが息を吞む間に刀は到達し、火を吹き消すよりも速く男を斬ったかに見えた。
しかし、焼き跡の波紋の美しい刃先は、あろうことか短剣の柄の付け根によって受け止められ、すんでのところで男の手には接触していない。今の速さと師範の膂力では、細い管のような短剣の柄など切られて当然のはずだったが。
両手に握られた刀の圧力に右手だけで拮抗しながら、男が薄く笑った。
「速いな……おかげで刃が間に合わなかったぞ」
刀を離しざまにもう一度斬りかかり、師範は立て続けに攻めた。稽古の時より尚激しい。斬り筋は柔軟かつ多彩で、極め付けに多流まで使っている。その証拠に、斬り返し――攻撃から次の攻撃への反復――の速さが、明らかに常人の反応速度を超えていた。
タネツリには、狂った師範が本気で男を殺しにかかっているようにしか見えなかった。
実際は違った。師範は覚悟を渾身に漲らせてはいたが、極めて冷静かつ慎重に男の出方を伺っていたのだ。塵ほども手加減の無い剣撃を余力であしらうこの男の気性を計るために。
師範は表情には出さぬ面の裏に、強い諦念を押し殺した。
……結論。この男は、自身の目的以外にほとんど興味がない。
冷酷なまでの合理主義者。心の動きが見られず、ただ剣を機械的に捌いている。やや希望があるとすれば、男からすれば遊戯に等しい斬り合いに幾らか付き合ってくれていることか。
飽きれば終わる。相手の実力を見限り、これ以上は何も見出せぬと決めてしまえばそこで終わる。事実、師範は既に持てる力の全てを出し切っていた。
――男が蹴った。正面への前蹴りは邪魔な物を足でどかすようなぞんざいさで、師範の筋肉質の腹をめり込ませ広場の端の露店まで吹っ飛ばした。
「師範!」
オダマキンが絶叫し、壺が割れて香辛料がばら撒かれた露店へ素早く向かう。緑と黄の粉にまみれた師範に駆け寄ると、めくれた上着から覗く腹には、真っ赤な靴跡が抉り込むように刻印されていた。吐血までしていたので、気管に血が入らないように首と体を起こして支えた。
「師範、師範!?」
痛みに喘ぎ薄く目を開ける師範が、オダマキンを見た。
「……道場におれと、言わんかったか」
「あれは、あの男は一体誰なんです!? 知っているのですか!?」
「……直接会ったことはない。じゃが、あれは間違いない。あれは――いや、間違えていたとしても、奴はそういうものじゃ。儂らで立ち向かえる相手ではない」
師範がそう決め付けたことで、オダマキンの心に暗黒じみた絶望が起こった。しかし、それは一瞬のことで、自らが師と崇める者を蔑ろにされたことへの怒りが沸々とこみ上げてきた。
「俺は負けません。師範の意思を受け継ぎます」
「良さんか。道場へ戻れ」
「あやつは、道場にも来るのではないですか。そんな気がします。師範はそれを分かっているのではないですか」
「……その通りじゃ。そうだとして、死に急ぐことはない。しかしお主、タネツリを連れてきおったな。あの子には役目がある。何とか生かせい。タネツリを死なせてはならん」
「……俺には決死の覚悟を持てと」
「すまぬ、オダマキン」
オダマキンは俯いて暫し沈思した。様々な想いが胸中を巡る。そして、勢い良く顔を上げた――強い意思を目に宿して。
「師範、生きてこの方、今が一番嬉しいかもしれません。俺なんかに、タネツリを守る役目を与えられるという訳ですね」
師範が微笑んだ。悲哀と喜びに満ちた笑みだった。
すると彼は、右手に持つ刀をオダマキンに寄越すようにして持ち上げた。
「この刀をやる。これは本来、お主に適しているものじゃ。お主の持つ、タネツリすら敵わぬ適正にな」
「適正……?」
刀をそっと捧げ持つように受け取る。
――途端、多流がざわめき出した。
体内の何処をどう流れているかが知覚され、血液と同じ本流の環から外れると、右手へと導かれた。刀に流れ込み、右手を延長した感覚がそこに生まれ、刀の中の巡りさえが分かる。
すると、刀からオダマキンへ向かう何かがあった。多流ではない。刀に流れた多流がそれを運んで戻ってくるのだ。
「これは――」
(師範の記憶……!?)
記憶……さらには想いが、多流を通じて伝わってくる。
それは、この刀にまつわる記憶だった。
――焼けた鉄の匂い。溶鉱炉の近くに立って神妙に見守るのは、今よりは若い師範の姿。樫の鎚で打って鍛える鍛冶職人。傍らには、出来映えが良いにも関わらず駄作とみなされた刀が鉄の山となっている。幾度も試行錯誤を繰り返し、妥協せず師範が作り直させ、刀鍛冶も出来上がるなりそれを失敗とみなし、山に放り投げる。その時にはもう次の鋼を炉に入れて回している。
二人の想いは一緒だった。
この刀に求めるもの。多流の真価を理解した師範が、しかし己ではそれを満たせないと諦め、まだ見ぬ異郷の地、まだ見ぬ自らの道場で、まだ見ぬ若き才能を夢見た。その夢を託すため、それを満たすに足り得る「素質」へ預けるため、練り上げた一つの「意図」。
回りくどい性能を必要とせず、多流がなくとも一級品の業物として十二分に仕上げられたこの刀に求められたのは――「斬る」というただその一点。
刀というのは、斬るためのものである。
即ち――「
「――!」
多流が想いに呼応し、刀の強度を上げた。それは物理的なものであると同時に、そうではない力も含まれている。さらに、剣を握るための右手、それを振る手首、繋がる右腕、胴体――つまり「斬る」ことに特化させるために必要な全身までもが、多流により強化されたのだ。
オダマキンは師範をそっと寝かせると、タネツリを一瞥してから彼だけに分かるように手のひらを向けた。お前は動いてはならない、と。
オダマキンは立ち上がると、男の方を向いてきっと睨み付けた。
――オダマキンの姿が消えた。
刹那に男へ辿り着くと、振った刀は既に元の位置に戻っていた。
男はそれを避けた――しかし、頬の表面が切れている。刃が余りにも鋭く速いため、殆ど斬られた跡が分からない。
男は二度目の斬撃を短剣で受け止めた。衝撃で傷口が開き、頬から垂れる血がゆっくりと顎の輪郭をなぞった。男はため息を零した。
「ほう」
三度目、横一線の剣閃。男の衣服が波動で押される。捧げ持つ形で受けた剣をゆっくりと滑らせる男は、刀の表面を愛でるように見ながら言った。
「『斬るという意思』か。洗練され、純粋で合理的だ。この『力』の本質をよく理解している。素晴らしい」
刀越しに男の得体の知れない力が伝わり、オダマキンは神速で刀を離し、同じ速度で再び斬りかかった。男は体を捻りつつ斜めに受けた。男の目付きが、期待から冷ややかな諦観に変わっていた。オダマキンはぞくりとした。
「しかし、足りない」
五度目、相手の構えから見て絶対に間に合わない角度からの一閃。男は避けざるを得ないために後方へステップした。速度に間に合わず、男の脇腹の服と僅かな皮膚が切れた。男の表情には痛みなど露程もないように見える。
「しかし、不足に過ぎる」
六度目、全身の力を使って駆け、意表を付いた正面への突き。――切っ先が、刃こぼれした短剣に弾かれる。
オダマキンは素早く後退した。
この刀から力が溢れた瞬間、もはや無敵とさえ思えた自身の超越感に、早くもひびが入っていく。絶望が彼を凍り付かせていく。
(何故だ……何故!? この刀は全てを斬れるはず。あらゆるものを斬る『絶対』であるはずなのに……!)
歯がゆさと恐れで、オダマキンの歯が細かく鳴った。
――男は言った。
「しかし、この私は『絶帝』である。全てを絶する。私の前に絶対はない」
途端、地の深淵から這い上がり、天上から帳で覆い付くすような底知れぬ圧力が辺りに満ちた。今のオダマキンだからこそ、より強くそれを感得できる。その力は男から放出されているはずなのに、巨大すぎるがゆえに全ての方向からのしかかってくるように錯覚するほどだった。
「ゆえに、この私が絶対なのだよ」
短剣を振った。滑稽にすら見える粗末な剣。距離が足りていない。――しかし、剣から生み出された波動が刀を両断し、オダマキンの体を袈裟斬りに切り裂いた。
「がああああッ!?」
叫ぶその姿に、後方で師範が低く呻いた。
「オダマキン……! おのれ、儂の未熟さが歯がゆいわ……くそう。死ぬな、死ぬでないぞ……!」
タネツリの動く気配があって、この状況下においてもオダマキンはそれを素早く察知した。血を吹き零しながら地面を手で掻き、もう一方の手で男に見えぬようにタネツリを静止させた。
(だめだ……お前だけは……。タネツリ、逃げのびてくれ、頼む……!)
群衆に紛れるタネツリの気配、躊躇いののち、そっとその場を離れていくのが分かった。男は気付いているのだろうか? と訝しむ。しかし、気にしている風はない。取るには足らぬものと無視してくれればいい。
(それでいい……逃げろ)
オダマキンはひゅうひゅうと息を漏らしながら、相手の気を引くために喋りかけた。
「お前は一体何者なのだ……教えてはくれないか」
男は短剣を腰にしまうと、涼やかな声で、
「私の名はオストワール。貴様との戦いは少々楽しめたぞ。この体に傷を付けたからな」
そう言うと、見慣れぬ洗練された服の懐から何かを取り出した。手のひらに乗るぐらいの、紫色の水晶じみた物体をオダマキンにかざす。すると、袈裟斬りにされた箇所の出血が緩やかになり、痛みがだんだんと引いていった。
オダマキンは戸惑いで目を丸くした。
「何のつもりだ……?」
オストワールは絵画に現れる人物のような、神々しくもどこか感情の欠如した表情で淡々と答えた。
「私は簡潔を好む。ゆえに完全な合理を愛する訳ではなく、結果さえ分かりやすければそれでいい。だからこそ死と滅びを扱うのだ。……私が趣味もないような男に見えるか」
「知らん、そんなことは。今お前がやっていることが事実だろう」
「恐れを吞み下すいい目だ。少し、話してやろうではないか」
そう前置きをして、藍紫の長髪の男は快弁と語りだした。
「時は15年前に遡る……私は中流階級の平凡な貴族の端くれだった。ただの子供に過ぎなかっただろう。剣も教養も身に付けている途中で、自身の能力も正確に測れないような頃だ。――天啓があった」
オストワールは空を振り仰いだ。
「世界を包む『力』が降り注いだのだ。いや、満ちたと言うべきか。私はそれを預かった。恐らくはこの世界中に、同じような子供たちがいただろう。しかし私は悟った。私が誰よりも、その多くを預かったのだと」
何かを手で練るようにして拳を握りしめる。それを放つように拳を開くと、手のひらの方向にあった地面がぞっと削り取られた。
「力を有り余すが故に家族や周囲を滅ぼしていくということはなかった。私は順調に、十分な愛さえ受けて育っていった。そのうち、この力が私に囁きかけるようになったのだ。この世界を統べる王になるのはお前だとな」
オストワールはそう言ってしゃがむと、跪く少年の顎を指で持ち上げた。
「私が何者であるかと聞いたな? 私は選ばれた者だ。それ以上でも、それ以下でもない。故に、私を斃すものはこの世にはいない――しかし」
再び立ち上がり、オダマキンを見下ろす。氷のように何処までも冷たく、星空のように果てが見えない、絶対的な藍色の瞳がそこにあった。
「そういう者が現れるとすれば、それはお前のような子供たちであろうな。芽を積みに来たのだよ。枝を伸ばし、私を覆い隠すほどの大樹となりうる脅威の芽を」
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