第2話 収奪

錦糸町駅から徒歩五分圏内にある拠点に月末の十時に集合する人達にとっては、このような事態が進展していることは寝耳に水の話であり、到底知る由もなかった。


九時過ぎに開錠時間が過ぎるとデイパックを背負った平均的な人間を装ったスタンガンと特殊警棒及びサバイバルナイフを持った複数の目出し帽を被った屈強な男に身体の自由を奪われて


「殺されたくなかったら、我々の言う通りに行動しろ、出来る限り平静を装って、変な真似をしたら怖い思いだけでは済ないぞ」と脅迫された。


最初のスタンガンをお見舞いした時点で勝負は決まっており、本職でも半グレでもない知能犯集団は完全に震え上がって、冷静さを完全に失っていた。


そうなると黙って笊を翳すだけで現金が転がり込むだけであり、口座の持ち主は毎月のように証券の自分宛口座に振り込むのではなく、脅迫されて彼らに指定された口座に次々に振り込ませられた。


全ては十時前に手際よく終了して、跡形もなく姿を消しており、毎月であれば懲罰対象である遅刻した者を除いて全員が見せ金を収奪されてしまった。


「兎に角、元締めに連絡して、緊急事態を報告しよう」と地域の纏め役は顔面を蒼白にさせて指示をした。


元締めとの連絡が取れると彼らに起こった悲劇は決して偶然ではなく、錦糸町だけでなく八王子、大森、王子、神田及び五反田で同時多発的且つ用意周到な犯行であった。


纏め役の脳裏には一瞬だけツービートの古いネタである


「赤信号皆で渡れば怖くない」が過って安堵感を覚えたが


「赤信号皆で渡れば皆死ぬ」であることを思い返し、これから起こるであろうことを考えると暗澹たる気持ちになった。


末端に至っては懲罰、地域別纏め役や元締めでも制裁を恐れるだけであったが、デイトレーダーで一財産を築き上げて、スキームの開発者である総元締めは一瞬にして帝国が瓦解する為、実害を受けるので落胆は一入であった。




本職や半グレであれば、身内の恥を簸た隠しにして目には目を歯に歯を実践して、自らの手で報復するであろうが、所詮は知能犯なので迷うこともなく警察に通報した。


実際に株式投資サークルの活動として道義的な是非は別として、法律的には何の瑕疵も見当たらないことは間違いない。


通報を受けた警察が実況見分の実施をしたが、ゲソコンも一般的なスポーツシューズであり、手袋の利用で指紋は一切検出されず、防犯カメラには目出し帽の一団しか残されておらず画像も不鮮明であり、状況証拠は皆無に等しく悔しいが手際の良さは称賛に値する見事さであった。


総額で三十億円弱となる巨額資金も該当口座から次々と小口に分けて送金されており、最終的には暗号資産若しくはATMで出金出来る水準になっており、電子決済の利便性を知悉した計画的なマネーロンダリングの典型的な手口であった。




総額こそ大きいものの被害は警視庁管内に留まること、そして何よりも模倣犯を警戒して捜査本部は報道機関にも一切連絡せず粛々と幕を開けた。


捜査本部の設置に関しては、特殊詐欺の司令塔と噂されるヤクザマンションを巡って、新宿署と四谷署に一悶着もあり、拠点が複数で広範囲に亘ることから最終的には本庁で落ち着いた。


早速理事長に連絡をして新宿の喫茶店で現状の段階で把握している事実を端的に報告した。


「断言することは出来ないが、十中八九は二人のリストを餃子耳が暴力団に便宜を図って手渡したと思われる」と感想を述べると


「警察の内部犯罪を取り扱うので、慎重を期する必要があり、この事件とSの失踪は別件として取り扱いましょう」とお互いの意見が一致した。


「三十億円収奪事件は物証に乏しく、難題と感じますが、餃子耳の周辺を叩けば埃も出るだろうが、Sの失踪は生命に関することなのでより困難を伴うでしょう」という助言を受けて別れた。




実況見分及び拠点周辺の聞き込みは芳しくない状況が相変わらず続いていたが、被害者の供述から朧気ながら事件の輪郭が浮かび上がった。


突破口となったのは、三十億円弱の資金を保有しながらも総元締めが過去五年間に亘って確定申告をしていない事実であり、元締めだけでなく地区別纏め役挙句の果てに口座保有者にも捜査が拡大された。


単なる株式投資サークルではなく、三十億円の資金を六拠点で十名に五千万円が見せ金として月末のみ反復されて支給される仕組みは仮名借名取引の疑いがあり、月末には拉致監禁及び暴行が頻発する事実も判明した。


証券への聞き取りも実施され、新規公開株配分ルールが月末預かり残高のみでステージが決定されるので、見せ金が横行している事実が改めて浮き彫りになった。


関係部署間の連携が不完全でダイレクトコースが真空地帯になってコンプライアンスが等閑に置かれていることが判明しただけでなく、Sを含む複数社員からの内部告発も放置されたままになっていた。


内部告発者に対する任意聴収も早期に実施されたが、Sは二週間以上前から無断欠勤の状態が続いている事実が証券から警察に報告された。


Sの住居への家宅捜査を内部管理責任者が立会いの下、実施されたが争った形跡等不審な点は特に見られなかった。


「公開捜査であれば、従業員の安全管理義務違反として、労働基準監督署に報告すべき事案です」と人事部にも手厳しい指導が及んだ。




捜査線上にSが浮かび上がったことを耳にした餃子耳は恐れていた事態が予想以上に早く訪れたことに動揺して、我を失ってヤクザマンションにある事務所へ急行した。


「洟垂れ小僧を脅して、守り代を取ったれとは提案したが、根こそぎ収奪するなんて無茶だと最初から言っとったやろ」捜査網が狭まっており、身の危険を感じた餃子耳の主張に


「道に三十億円が落ちていると聞いて指を銜えて見ているという選択肢はありません、特殊詐欺で蓄積した経験を活かして蜥蜴の尻尾切りで事態を終わらせますから、安心して下さい」と縁なし眼鏡は傲岸不遜なまでに落ち着いて、言い放った。


「俺は蜥蜴の尻尾か」と食い下がると


「我々からの借用書は約束通りに破棄します」とその場で切り裂いて


「リスト及び音源は今ここで返却します」と物証を回収したことで、当面の危機は回避することが出来た。


行方不明になっている捜査協力者の身柄についても一言だけ言及する心算でいたが、藪蛇にならぬように一先ずは退散することにした。


柔道好きだった先代はタニマチのように振る舞って、特に見返りを求められることもなかったことに甘えていたが、代替りを機に借用書によって、徐々に絡め取られていると気付いた時には既に手遅れだった。


池袋の喫茶店で録音を依頼した女性店員、坊やそして理事長の顔が脳裏を渦巻いて、とても生きた心地がしなかった。




俺が戻ると待ち伏せしていたように


「部長が先輩を探していましたよ」と坊やが言った時、死刑台に登る覚悟をした。


「その後、理事長とは連絡しているか」と何気なく尋ねるので


「重要性を理解出来なかった為、不細工なことになりまして、大変ご迷惑しました」と深々と頭を下げると


「疲れているのか、顔色が悪いぞ、今日はこのまま帰って一日ゆっくり休め、これは命令だ」と有無を言わさずに宣告された。




「珍しく早い時間に何かあったの」と妻が訝しそうに尋ねるので


「腹が減っているので飯にしてくれ」と不機嫌に答えた。


「秋刀魚の開きとお肉屋さんのコロッケしかないけど大丈夫」と妻が顔色を窺うように尋ねるので


「小さい時分からの好物だ」と吐き捨てるように答えると


「良かった、昔と変わらなくて」と満面の笑みを返してくれた。


妻は中学、高校の柔道部のマネージャーであり、成績も良かったので、高校は進学校に行くと思っていた。


怪我によって選手生命を絶たれ、打ち拉がれ、関西を離れる決心から警視庁に奉職すると駆け落ち同然で一緒になった。


貧乏している癖に家に殆ど帰らず、放蕩の限りを尽くしても一切文句を言わず寄り添ってくれた俺には勿体ない自慢の妻だ。


俺は一体何処で道を外したのだろうか。




戦後の復興期には暴徒の騒乱に際して装備も人員も極度に不足していた警察は、街を牛耳る暴力団や愚連隊等との協力は必要不可欠の既成事実であったが、時代が変わったことに気付かずに何時の間にか俺は一人だけ取り残されてしまっていた。


実際には、とっくに気付いていたのに過去を清算することなく身の丈に合わない遊興に耽ってしまい、気が付けば柵によって雁字搦めになって、既に身動きが取れなくなっているのが実情だ。


心の中で裏金問題は叩き上げの苦労も知らずに幹部だけが甘い汁を吸い続ける構図であり、少なからず反発を覚えており、依怙地になっていたのだろう。


蟹挟で引き分けた嘗ての好敵手と一緒に飲んだ時に異種格闘技に転向して華やかな生活をしていることを羨んでいたが


「正直に言ってお前より強い相手には、あれから一度も出会っていない、日本の警察も安泰だ」という酒場での阿諛追従を真に受けて勘違いしてしまった。


俺は秋刀魚の開きとお肉屋さんのコロッケが好物で、妻と一緒に居るだけで満足な人間なのに身の丈以上の虚勢を張り続けた結果、戻ることさえ出来ない底知れぬ深みに嵌ってしまった。


「随分魘されていたけど大丈夫」と妻に揺り動かされて目覚めた。


「ごめん、俺は警察辞めなきゃ駄目かもしれない」と思い切って打ち明けると


「生きてさえいれば、なるようになるわ」と頷くと優しく抱きしめてくれた。




理事長の氏素性を事前に知らせなかったことを餃子耳は抗議したが、意図的に隠し立てしたのではなく、本当に私だけが知っているとは思っていなかった。


同行する前に情報を擦り合わせて、役割分担を決めるべきだっただろうか。


途中で席を立った時点で私だけでも残るべきだっただろうか。


残された名刺を頼りにSと隠密裏に行動するのではなく、何れかの時点で共有すべきであっただろうか。


自問自答してみたが、後悔先に立たずの後付け講釈であり、堂々巡りで無意味且つ時間の無駄である。


現実問題としてSは失踪しており、犯行グループの手荒さを考えると最悪の事態も想定しなくてはならない。


部長に面談を求めると


「気持ちは理解出来るが、今はその話を聞く訳にはいかない、理事長に相談してくれ」とだけ言われて、受話器を置いた。




坊やは理事長の氏素性を隠し立てしたのではなく、恐らく俺が知っていると思っていたのだろう。


頭では理解しながらも叩き上げ特有の僻みで物別れに終わってしまった。


二人が隠密裏に行動していることを把握した時点で内偵をするのではなく、坊やに助言すべきであっただろうか。


理事長に頭を下げて、もう一度面談をすべきであっただろうか。


部長に自分の過失を報告して坊やに合流すべきであっただろうか。


本音を言えば、資金繰りが行き詰まり、大口の債権者に情報を売り付けても、詐欺師が暴力団に汚い金を巻き上げられるだけで、高が知れていると身勝手な逃げ口上の結果、最悪の事態を招いてしまった。


罪のない人間を生命の危険さえ疑われる状況に巻き込んでしまった事実だけは動かしようがない。


部長に面談を求めると


「坊やから報告を受けているので、日を改めて話そう」とだけ言われて、受話器を置くしかなかった。




Sが消息を絶って一か月が経過した。


三十億円収奪事件の実行犯グループを特定する鍵がSであることは間違いないが、私の知っている限りでは収奪された側との接点しかない。


二人の行動を餃子耳が監視していた事実はキャビネットの合鍵を使ってリストをコピーしたであろう証跡と池袋にある喫茶店の女性店員の証言により恐らく間違いない。


新規公開株に絡んだ非対面口座を舞台にして仮名借名口座が野放しにされている疑惑を過小評価していたが、考えを改めたのであれば、理事長も激怒したように何の断りもなしに三か月間も隠密裏に行動していた二人の方に非があり、餃子耳は正当な捜査の一環と主張するだろう。


実行犯グループに餃子耳が加担している可能性を指摘することは警察の内部犯罪を取り扱うので、慎重を期する必要がある。


私の慎重な姿勢に痺れを切らせたSが実行犯グループに直接接触した結果、何らかのトラブルに巻き込まれた可能性も頭から否定することは出来ない。


一人で思い悩んでいても悪い方向にばかり想像が行くので、理事長に連絡をした。




理事長に私の考えを伝えると


「Sが実行犯グループに直接接触した可能性はあり得ない、警察にさえリストを提供することを最初は躊躇していたのだから」と即座に判断すると


「実行犯グループに餃子耳が加担している可能性も排除しても良いだろう、守り代若しくはみかじめ料を巻き上げること程度が関の山だろう」と断定的に答えた。


「三十億円は暗号資産や最先端の技術を利用して補足不可能になっているけど、人の噂に蓋をすることは出来ない、自慢と不満という二つのマンは我慢の限界よりも遥かに大きい」と駄洒落に続けて、興味深い話をしてくれた。


「特殊詐欺を巡る議論で過去に真っ二つに割れており、反対派の急先鋒がヤクザマンションから転落死すると堰を切ったように推進派が幅を利かして、結局は跡目を継ぐことになり、それ以降は何でもありの横車を押し続けているので、所属団体でも孤立している」と独自の情報を教えてくれた。


「奇しくも餃子耳は柔道好きの先代に可愛がられていたので、当代は守銭奴で反目しながらも深い繋がりはある」と耳を疑うような事実を事もなげに告げた。


「理事長、具体的な名称を教えて下さい」と頭を下げると


「知らぬが仏を貫き、一気に戦線を拡大させた方が」と匂わせたので


「まさか」と壮大な企てに驚き、二の句を継げずにいると


「越後屋お主も相当の悪よのう」と愉快そうに笑ったので


「そういうお代官様こそ」と二人で大笑いして別れた。


理事長には悲壮感もなく、一段と眼光に力が漲っており、最悪の事態も想定して狼狽えていた私には、とても心強く感じた。




坊やは部長にどのように報告したのだろうか。


今回の三十億円収奪事件となったリスト、内偵の事実、まさか俺が二人の動向を探っていた事実さえも筒抜けになってしまっているのだろうか。


いずれにしても警察は辞めざるを得ないだろう、残りの借金は退職金で返済出来ると良いが、最悪の事態も想定しなければならないだろう。


いや、自分の保身を考える前に行方不明の捜査協力者の身柄だけは、何としても俺の手で確保しなければならない。


理事長が突如Sの捜索届を提出した。


死亡を前提とした失踪届でなく、生存を前提とした捜索届であったことで、俺も少しだけ救われた。

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