第2話 過去

 島に漂着した少女の名前はステラと言う。

父は真面目な石工で、母は優しいが肺が悪く病弱だった。

 ステラが物心ついてすぐ父は徴兵され、最初の戦争で戦死した。残された身体の悪い母は娘のステラを一人で必死に育てようと、大きな屋敷に下働きをさせてくれと頼み込み、寝る間も惜しんで働きステラを養った。



 そんなステラの母は疲れていても必ずステラを疎かにすることはなかった。夫が残した唯一の形見、母にとってステラを毎夜抱きしめて寝かしつけることだけが生きがいだった。

 蝋燭の灯りにぼんやりとした光の中、黒紫の綺麗な長い髪の母に頭を撫でられながら眠ったことをステラは覚えている。

 笑顔を絶やさなず暖かく抱きしめて、髪を優しく撫でてくれる母がステラは大好きだった。だから、甘えるように胸にうずくまり胸の鼓動を感じながら眠った夜をステラは今でも夢に見る。



 そんな母はとても美人で街でも評判だった。未亡人でありながら声をかける男性も多く、ステラさえいなければ、もう一度結婚することだって可能だった。しかし、母は言い寄ってきた男性の結婚を全てを断った。結婚するにあたって男たちは、母にステラを他の家に丁稚でっちに出すことを提案していた。

 母の美貌びぼうに惹かれて寄ってきた男たちにとって子どもであるステラは邪魔に他ならなかった。だからステラを守るため母は再婚をせず、独身を貫いた。



 そんな母が屋敷で働き詰めて5年、身体の弱さと慣れない仕事のせいかステラの母は身体を壊し、屋敷から帰宅する道すがら玄関の前で倒れた。

 雨の降る日だった。

 ステラは母が帰ってきたと玄関の扉を開けて母に抱きつこうとした。しかし、そこに立っているはずの母はおらず、代わりに石畳に倒れ伏せた母がいた。一瞬の沈黙とザーと降る雨の音。ステラは膝をつき母を起こそうとした。そんな彼女を見つけ、たくさんの人が集まってきた。集まった大人たちは泣きじゃくるステラを母から引き離し、冷たくなった母の身体をどこかに連れて行った。

 次にステラが母に会ったのは、埋葬された墓所の墓石に掘られた名前だった。



 そうして一人になったステラは、母が働いていた屋敷の丁稚でっちとして働くこととなった。

 ステラは働いて初めて母がどれだけ苦労して自分を育てていたか知った。丁稚の仕事は山積みで、部屋の掃除、洗濯、食事の準備、買い出し、それに加えて雑務まであり、休みなど1日もなかった。朝起きたと思ったら、駆け回るように仕事をして、やっと一息つくと、いつの間にか日が沈んでいた。過酷な重労働のせいか毎日のように身体のいたるところが痛み、手はあかぎれ、粗末な藁布団の中でステラは、ここから逃げ出したいと母のことを思って枕を涙で濡らした。



 そうして5年ほど仕事をして、背も髪も伸びると、日々の仕事にもいつの間にか慣れて、屋敷で一定の信用を得るようになっていた。そのため遠くまで買い出しを頼まれることが増え、自信もついてきた。

 容姿は母に似て日に日に綺麗になっていき、瞳と髪の色は父親を生き移したようだった。以前は厳しかった屋敷の男たちも次第にステラに優しくなっていき、ものを隠されたり、壊されたりと意地悪をされることが少なくなっていった。その代わりに花を贈られたり、遊びに行こうと誘われることが多くなる。しかし、ステラはその全てを断った。なぜなら、ステラを見る男たちの目が母に婚約を申し込んできた男たちと一緒の目をしていたからだ。



 ステラが連れ攫われたその日は、たまたま港まで夕食の魚を買いに来ていた。屋敷の主人に近くの魚屋では置いていない魚を買いに行って欲しいと頼まれたからだ。

 ステラはすぐにお目当ての魚も見つけ買い付け、用事を済ませた。購入が済んだ魚は商人が屋敷まで届けてくれる。そうして帰ろうとした時、裏路地から伸びてきたいくつかの男の手に掴まれ、声も出せず、無理やり麻袋に詰め込まれた。ステラは逃げ出そうと腕や足を振って抵抗したが、暴れることを疎ましく思った一人の男に溝内を殴られた気絶させられる。

 そして気がついたら船の上だった。



 ステラが乗っていた船はコビタ船と言う港でもよく見かける2本のマストがある商船だ。

 最初はなぜ自分がこんなところにいるのか理解できなかった。しかし、両手首と両足を縛られて逃げることができない状況にステラは自身が交易の商品として攫われたことに気づいた。

 船乗りたちは小遣い稼ぎのつもりで子どもを攫うことが時々ある。遠い異国の地ならたとえ子どもを奴隷として売っても足がつかない。そんな軽い気持ちで、彼らは子どもを攫うのだ。帆船が主流なこの時代、海を隔てた異国に行ってしまえば、犯罪を取り締まることは難しかった。



 そんな日の夜。波がシーンと静まり風のない満月が綺麗な日だった。しかし、それは最初の数時間だけで、深夜になり雲に月が隠れると船乗りたちは今まで体験したことにない大嵐に遭遇した。

 そして海から這い出てくる魔物を見た。

 船乗りの中には神の祟りだと叫び出すもの、頭を抱えて意味不明な言葉を呟くもの、巨大な吸盤がついた触手から逃げ惑い海に連れ攫われるもの。嵐の揺れと魔物の襲来で船上は阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄となった。

 そんな人類には到底とうてい太刀打ちできない災害を鎮めるため、気が動転した船員たちによってステラは生贄として船首に縛り付けられた。

 しかし、そんなことをしても嵐や魔物が鎮められるわけがなく、船は魔物と嵐により大破して海の藻屑となり、船員は海の底へ沈んだ。

 運良く島に流れ着いたのはステラはだけだった。

 

 

 そんなステラは砂浜を朦朧とす意識で歩き、ふと足にあたった茶色く毛深い木の実に気がついた。

 その実は赤子ぐらいのサイズで、持ち上げると重い。そして中を揺らすとぽちゃぽちゃっと音がした。真上を見上げると大きくて鳥の羽を広げたような小さな葉がついた見たことのない木があった。ヤシの木である。ステラが持つ茶色い実とは少し違うがヤシには青緑の木の実がなっていた。

 


「この大きな実はこの木から落ちてきたの?」



 ステラの喉はカラカラだった。一刻も早く水が飲みたい。だから実の中の水分を取り出そうと、実を引っ張るが硬い表皮に覆われていて素手では取り出せない。それならばと木に打ちつけてみたが腕にジーンとくる反動だけで、木の実が割れることはなかった。どうにかしてこの中身の水を飲むことはできないだろうか。ステラはヤシの木の日陰に座り込み、海を眺めた。すると右の視界に大きな岩場が目に入る。



「もしかして、あそこなら……」



 ステラはヤシの実を脇に抱えて、再び砂浜を歩き出した。真上に登った太陽が彼女の背中を焼くように照らし水分を奪っていく。足を踏み込むごとに砂に足元を取られ、歩き辛い。木の実が進むごとにずっしりと重くなって、腕が伸びていく。岩場は目の前にあるはずなのに、まるで遠く彼方にあるように感じた。水が飲みたい、飲みたい、飲みたい、飲みたい。喉の渇きが朦朧とした彼女を突き動かした。

 そうしてようやく岩場に着くと、ステラは持っていたヤシの実を両手で持ち上げて、思いっきり岩場に打ちつけた。

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