第1話 お姉様、楽しい異世界ライフを否定してはいけません。

 口の中にはまだチョコ味が残っている。この苦味だけが、正しいかどうかも分からない記憶を除けば──唯一、事象の連続性を証明するものである。


 突っ立っていても仕方ない。わたしは行き交う人々を眺めつつ、自らの状態を確認してみた。


 ペタペタとお腹、肩、腕、腰、太もも、膝と触ってみて、その感触からやはり夢ではないと確信する。同時に着ている服も、先ほど(ジャージ姿)と変わっていることに気付く。


 布製の半袖シャツ、ミニのスカート。その上に革製の鎧を身に付けている。鎧とその付属物は首下から膝のあたりまで覆っており、スカートの短さは気にならない。


 裸足だったはずの足にはロングブーツ。普段はスニーカーしか履かないので、なかなか不思議な感覚である。


「これは……剣か」


 腰にはさやに収められた剣らしきものがぶら下がっており、つかを掴んで引き抜くと、銀色の刀身が姿を現した。


「ほう、よく分からないが──悪くないな。コスプレというやつか」


「いえコスプレではなく、お姉様は本当にその姿に相応ふさわしい存在になってしまったのですわ」


「えいっ」


 わたしは目の前に現れた虫(?)のような生物に向かって剣を振り下ろした。しかし虫はその一撃を避け、攻撃の届かない上方に逃げてしまった。


「あぶ……危ねえですわ! お姉様! 初対面の妖精を警告なく斬り殺そうとしてはいけません!」


「ゴキブリと正体不明アンノウンは速やかに処分するに限る」


「妖精って言っておりますわよね? ちゃんと話を聞いておりますの? お姉様」


「ようせい? お姉様? 貴様はなにを言っているのだ。わたしの妹は水面みなも一人だし、水面みなもは貴様のような奇怪きっかいな虫ケラではない」


「だから虫ではなくて妖精ですわ! フェアリーですわ! この可憐で美しい存在を虫ケラ扱いするなんて、どういう美的感覚をしておりますの!?」


「羽根は四枚。体の部位は大きく三つに分かれているな。上から順に頭、胸、腹か……ということは昆虫の一種か?」


「お姉様。冷静に分析していないで、わたくしの話を聞いてくださいませ。そもそも昆虫さんは喋らないですし、手足の数が違いますし。ほら、よく顔を見てください。あなたの可愛い妹の水面みなもちゃんですのよ」


「えいっ」


 わたしは下降してきた虫っぽい物体に向かって剣を振り下ろした。しかし虫はその一撃を避け、再び攻撃の届かない上方まで逃げてしまった。


「お姉様ぁ! はなし途中の妖精を斬り殺そうとしてはいけません!」


「だから貴様にお姉様シスター呼ばわりされる筋合いは──ん……? その声、まさか……水面みなもか?」


「そうですわ! さっきからそう主張しておりますわ! というか声だけで気付くのなら、二回も斬り殺そうとする前に気付いてくださいませ!」


「そう言われてもだな、お前、なんでそんな虫みたいな姿になっているんだ?」


「虫ではなくてフェアリーですし、理由なんて分からないですし──それでも、それでも一つだけ分かることがございますの!」


 虫(妖精?)は、空中でくるくると回りながら叫んだ。


「わたくしたち、異世界に来たのですわ!」



***



 少し歩いてみる。見れば見るほど、日本にはない街並み。これまで見たこともない生き物が平然と歩いているし、人々はどいつもこいつも『コスプレ』をしている。


「ハロウィンみたいなイベント中なのかもしれない。お祭りと思えば、さほど不自然な状況でもないな」


「お姉様、そろそろ現実を受け入れていただけますの? わたくしがこんな姿になっている時点で、お祭りフェスティバルで片付くような状況でないと分かると思うのですが……」


「そう言われてもだな、わたしはパスポートも持っていないのだぞ。日本から出られるはずがない」


「パスポートがあったら行けるような異世界は、たぶん異世界ではございませんわ」


「でもだな水面みなも……いや、よく考えてみると貴様が水面みなもであることも怪しく思えてきた。精巧な機械人形ロボットかなにかなのかもしれない──うむ、それなら説明がつく」


「ええっと、いまさらそこから否定ですの? あのですね……それでは、わたくしがなにをすれば妖精だと信じていただけますの?」


「分解してみれば分かるはずだが、試して良いか?」


「そんなことをしても生々しい妖精の神秘(閲覧注意)が剥き出しになるだけで、ネジも電池も出てこないですわ!」


「試してみなければ分からないだろう」


「試し終わったあとには妖精の神秘(猟奇死体)が残るだけなのですけど……。もうこうなったら、信じてもらうためにはこれを言うしかない! お姉様の恥ずかしい秘密その一! お姉様は幼女のとき、『蚊に刺される』を『カニに刺される』だと思っていた──」


 わたしは剣を抜き、振り下ろした。しかし飛翔体Aはそれをひらりと避けて、上方に逃げてしまった。


「お姉様あああああ! 口封じの目的で妖精を殺そうとしてはいけません! でもこれで分かったですわよね? わたくしはあなたの妹、家族しか知らない秘密をたくさん知っておりますの」


「遠隔操作で話しているだけかもしれない」


「もしかしてこれ本気ガチで内臓をぶちけることでしか、わたくしが機械でないことを証明する方法がないのですの?」


「それが一番早いだろう」


「早いかもしれないですが、取り返しのつかないことに……ええい、せっかく異世界に来たというのに、なんで『人と機械の違いはなにか』みたいな哲学めいた論争をしなきゃいけねえんだ! てやんでえ、江戸っ子なら直観でパパッと信用しやがれってもんだ!」


「横浜市民は江戸っ子じゃないぞ」


「冷静に突っ込んでねえで、さっさと認めちめえよ! あねさんだって、ここが日本と考えると合点がいかないことが山ほどあるはずだっ!」


「ああ、うん。確かに往来する馬車みたいなやつを見て思ってはいた。日本なら右側通行は有り得ないな、と」


「これだけ圧倒的異世界風味に満ちた場所にいて、判別するポイントはそこですの?」


「まあ、とりあえずお前が妖精だかカナブンだかなのかは置いておいて、話している相手が水面みなもだということは信じた。今は分解しないでおく」


「今とは言わず、ずっと分解しないで欲しいですわ……。でもこれでやっと話が進められます。お姉様、わたくしはこの場所がどこなのか知っています。何故ならここは、わたくしの知っているなのですから──」



***



「ゲームの中?」


 わたしが尋ねると、水面みなもは「そうですわ」と返事をした。


「ここはラグラムオンラインという、MMORPGの中の世界なのですわ」


「いや待て。ゲーム機に人間を収容するスペースなんてないと思うが」


ではなく、ですわ。なんで精密機械デジタル使ってかくれんぼアナログな遊びしなきゃいけねえですの」


「ゲームの中……ゲーム機の中ではない? どういうことだ」


「RPGは分かりますわよね……ロールプレイングゲーム。勇者などの役割ロールになりきって架空の世界を冒険するゲームですわ」


「聞いたことはある」


「わたくしたちはその架空の世界に来てしまっているのですの」


「架空の世界に来れるわけがないだろう。だって架空の世界なのだから」


「…………」


「どうした? 頭痛で死にそうな顔をしているが」


「頭痛で死にそうなのですの……とにかく。お姉様はこれから冒険の旅に出るのです。もうこれだけを理解してくださいませ」


「旅だと? 長くなるのか? それは困るぞ、大学の単位が……」


「困るかもしれませんが、仕方のないことです」


「親たちも心配する」


「心配するかもしれませんが、仕方のないことです」


「電話をしたいがスマホがない。このあたりには公衆電話とかないのか?」


「あったら景観ぶち壊しですし! そもそも電話できたとして、お父様とお母様になにをどう説明するおつもりですの!? 『異世界でしばらく冒険しているから帰れない』とかそんなこと言われても、困惑するだけですわ!」


「無事を伝えることくらいはできるだろう。しかしそれすらも叶わぬなら、早く帰るようにしなければ」


「えー、ずっとずっと異世界ライフを堪能しましょうよ。わたくしこのゲームは千時間以上遊んでいるので、ダメージ計算を暗算でできてしまう程度にはなんでも分かります。『ゲームの知識を活かして異世界で無双』ができちゃう状況なのですの。帰るなんて勿体もったいない」


「知らん。方法が見つかり次第、わたしは帰るぞ。ただしそれまでは……水面みなも、お前にこの土地についての見識があるというのなら、それを頼るとしよう」


「お姉様! わたくしのことを信じていただけるのですね!」


「無論だ。わたしはいつだってお前のことを信用している。お前がいなければ、わたしは部屋の掃除すらも満足にできないのだからな」


「ええっと、今後は部屋のごみ捨てくらいは自発的にしていただけると嬉しいのですが……ポンコツお姉様」

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